4話 初めてのライバル
土曜日の朝。
カート場には既に数台のマシンがエンジンを響かせていた。
整備エリアには簡易テントが並び、子供たちがレーシングスーツに身を包んで準備をしている。
空気にはガソリンとオイルの匂いが混ざり、観客席には親たちがカメラを構えていた。
「今日は模擬レースをやる。公式じゃないが、経験になる」
父・真一が厳しい目で言った。
瑠生は緊張で喉がからからになっていた。
「も、模擬レース……」
「怖いか?」
「……少し。でも、走りたい」
真一は頷き、ヘルメットを手渡した。
「なら行け。結果はどうでもいい。最後まで走り切れ」
グリッドに並ぶと、隣に並んだ少年が横目で見てきた。
栗色の髪を短く刈り、挑発的な笑みを浮かべている。
「お前、初心者だろ。俺に抜かれないようにしろよ」
「えっ……」
返事をする間もなく、その少年――健二は視線を前に戻し、アクセルを軽くあおってエンジンを吠えさせた。
ーーー
「スタート5秒前!」
審判の声が響く。
旗が振られた瞬間、全車が一斉に飛び出した。
カートが地面を蹴り、体が後ろに引っ張られる。エンジン音が重なり合い、耳の奥が震えた。
第一コーナー。
ブレーキを踏むタイミングを迷った一瞬で、外側から別のカートが瑠生のラインを防ぐように割り込んできた。
「うわっ!」
ラインを外され、砂利を踏み、カートが激しく揺れる。なんとかコースに戻ったが、順位は最後尾。
それでも諦めなかった。
父と練習した言葉がよみがえる。
「ビビるな。ラインを外すな。アクセルを抜かない勇気が必要だ」
恐怖心を押し殺し、第一コーナーを今度は全開で突っ込んだ。
タイヤが鳴き、体が横に押される。だが、カートはギリギリで曲がり切った。
「よし……!」
次のストレートで前のマシンに迫る。ブレーキのタイミングを遅らせ、イン側に切り込む。
「抜ける!」
タイヤ同士が触れそうな距離。ほんの一瞬、相手がアクセルを緩めた。瑠生は一気に前へ出た。
観客席から小さな歓声が上がる。
「今の見たか?」「すげぇ!」
瑠生は、どんどん順位は上げていった。
残り2周。
順位は5位まで上げた。
前方にはトップを独走する健二のマシンが見える。
「速い……!」
健二はライン取りが正確で、立ち上がりの加速も鋭い。
だが、絶対に追いつきたい。
最終周、差はまだ3台分。
直線で必死にアクセルを踏み込む。エンジンが悲鳴を上げるが、前との差は縮まらない。
チェッカーフラッグが振られた。
瑠生は健二に届かぬままゴールラインを越えた。
ピットに戻ると、スーツは汗で重くなり、息は荒かった。
真一が駆け寄り、ヘルメットを脱がせてくれる。
「どうだった?」
「……勝てなかった。でも、怖くなかった!」
その笑顔に、真一もわずかに笑った。
「上出来だ。今日の経験は必ず次に繋がる」
ーーー
だが、その夜。
家に戻ると、母・鈴の表情は険しかった。
「瑠生、今日模擬レースに出たんですって?」
「うん……楽しかったよ!」
「楽しかった? そんなことしてて、勉強はどうするの!」
母の声が鋭く響いた。
「ぼく、ちゃんと宿題もしてるよ!」
「それだけじゃ足りないの。計算ドリルも遅れてるし、漢字テストも平均以下。今は遊びより勉強を優先する時期でしょ!」
瑠生の胸が詰まった。
「でも、僕はレーサーになりたいんだ!」
「将来、レーサーだけで食べていけると思ってるの? 勉強しなきゃ、困るのはあなたなの!」
「でも……!」
「もう行かせない! 練習も禁止!」
瑠生は気が付かなかったが鈴は涙を浮かべながら叫んだ。
ーーー
夜更け。
居間から両親の声が聞こえた。
「鈴、あれは言いすぎだ」
真一の声は低く、落ち着いていた。
「でも……勉強が遅れてるのよ。中学に上がる頃、ついていけなかったらどうするの?」
「確かに、勉強も大事だ。だが、夢も同じくらい大事だ」
「私は夢より将来を考えてるの。瑠生が苦しまないように」
「俺は、夢があるからこそ強く生きられると思う」
沈黙。やがて、鈴のため息が聞こえた。
廊下で聞いていた瑠生は、胸が苦しかった。
――お母さんは僕のために言ってる。でも、走りたい気持ちは止められない。
布団に潜り込み、ピストンを強く握りしめた。
「僕は走る。でも、勉強もする。両方やってみせる」
決意を胸に、目を閉じた。
だが、心臓はレースのエンジン音のように高鳴ったままだった。




