33話 梅雨入り前の夕暮れ
6月を目前にした校舎は、どこか湿気を帯びていた。窓から吹き込む風は生ぬるく、ホワイトボードには湿度が高いせいなのか水滴が付いているようにも感じた。
1年生として迎える初めての梅雨。まだ入学から二か月しか経っていないのに、教室の空気はすでに「慣れ」と「倦怠」が混じり合っていた。
真昼は窓際の席で、机に頬杖をつきながら視線を外に向けていた。淡い光が校庭を照らし、体育の授業のかけ声を上げる。けれど、その目は遠く工場サーキットの方角を見ているようだった。
チャイムが鳴ると、健二は勢いよくノートを閉じ、立ち上がった。
「よーし! 今日も走れるな!」
その明るさに周囲が一瞬振り返る。けれどもうクラスの皆は慣れたもので、「またあの三人か」という目で小さく笑っていた。
瑠生はというと、ゆっくりと教科書を閉じながら小さく息を吐いた。頭の片隅にずっと残っているのは、昨夜の走行データだ。
(……アクセルを残す感覚は掴んだ。でも、タイヤの消耗が倍だった。これじゃあ勝負にならない)
悔しさよりも、自分の走り方の「欠陥」を見つけてしまったという現実が重くのしかかっていた。
「おい、瑠生」
机をコンと叩く音に顔を上げると、健二がニヤリと笑っていた。
「昨日も走ってただろ。顔に書いてあるぞ、『俺は課題を見つけました』って」
「……悪いか」
「悪くはねえけどさ。お前、詰め込みすぎて潰れるなよ」
「あんたみたいにめそめそしてないからね」
「めそめそなんてしてない」
「それに潰れないわよ。瑠生は、そういう子だから」
からかうでもなく、突き放すでもなく。真昼の言葉は事実を述べただけだった。けれどその響きは、妙に強くて揺るぎなかった。
「……まあな」
瑠生は短く返し、鞄を肩にかけた。
その後各自は自身の用事を済ませてから、三人は正門で合流した。部活動へ向かう生徒たちの波とは逆に、彼らは迷わず工場サーキットへ歩いていく。
6月の夕暮れはまだ長い。陽は落ちきらず、空の端を赤く染めている。
工場の金属の壁にその色が反射し、いつもの無機質な風景を少しだけ柔らかく見せていた。
ーーー
ピットに入ると、すでに石浦や黒宮たち整備士が準備を整えていた。工具の音、油の匂い、そしてマシンの鈍い光。
「おう、今日も来たか。昨日の続きか?」
石浦の問いに瑠生は苦笑した。
「……バレてますね」
「当たり前だ。あのタイヤの消耗のさせ方以上だぞ」
健二が「おいおい、そんなに消耗させたのかよ!」と大げさに驚き、真昼は横目で瑠生を見た。
「……また無茶してたのね」
「違う。試してただけだ」
「結果、倍のスピードで減らした」
「……ぐっ」
言い返せず、瑠生は唇を噛んだ。
石浦は笑ってヘルメットを指差す。
「まあいい。今日の走りで答えを出せ。データは嘘つかねえからな」
三人はそれぞれのマシンへ歩み寄った。
照明に照らされたボディはどれも凛として、静かに彼らを待っているようだった。
最初のスティントは真昼が先導した。
アウトインアウトを正確に描きつつ、微妙にアクセルを残しながら曲がる。昨日と同じように「安定と攻め」を両立させた走りだ。
健二はその後ろに張り付きながらも、次第に苦しくなってきた。
(チッ……やっぱ真昼の真似は簡単じゃねえ)
ブレーキを遅らせればリアが流れる。アクセルを早く踏めば外へ膨らむ。
頭で分かっていても、体がついてこない。
そのさらに後ろで、瑠生は別のことを試していた。
(縁石をできるだけ使わない。アクセルは残す。でも——昨日のように削りすぎないライン……)
鋭角に曲がるコーナーでは短く強く。円を描くコーナーでは柔らかく長く。
自分の中で二つのラインを切り替えながら走る。
数周目、ピットから掲げられたボードに「-0.5」と表示された。これは、先に黒宮にお願いしていたことで今まで周回を重ねてきた中での平均タイムとの差が表示されていた
「よし……!」
思わず声が漏れた。
十周を過ぎた頃、健二は大きく車体を振られて最終コーナー出てからピットとホームストレートが仕切られている壁の始まりの部分にホイールが衝突して逆方向を向いて停車した。瑠生は健二のすぐ後方を走っていたがコーナーで速度が落ちていたこともありギリギリのところでステアリングを左に切ることで事なきを得たそして、二人は速度を落としてゆっくりとコースを走行していた。その後、健二は自力でピットに戻ることが出来たようでそのことを無線で聞いた二人は、再び加速していった。
その頃、健二はピットでうなだれていた。
「うあー! 限界! 真昼の真似なんかできるか!」
ヘルメットを脱いで荒い息を吐きながら叫ぶ。
それでもどこか悔しさより清々しさが混じっていた。
残った二台はさらに走り続ける。
瑠生の呼吸は荒い。タイヤの感覚が少しずつ薄れていく。
だが昨日ほどではない。確かに持ちが良くなっていた。
(……間違ってない。この方向でいい)
何度か真昼の横に並びかけるがそこは真昼だったうまく瑠生のラインを潰すような形で先行していった。しかし同時に真昼もタイヤの減りが早くなっていたようで最後の周で真昼がわずかにタイヤのを滑らせたことで外側に膨らんでいった。そこを瑠生は見逃すことなくイン側に入り込んだ。入り込む際に速度を若干落としたことで立ち上がり方が悪くなってしまった。結局回復した真昼と並ぶような形でホームストレートを掛けて行った。
ストレートの先、の1コーナーのブレーキングポイント。
瑠生はほんのわずかにアクセルを残しながら、鋭くマシンを曲げた。
タイヤが鳴く。だが流れない。
立ち上がりの加速が、昨日とはまるで違った。
「——っ!」
その瞬間、背後から真昼の視線を強烈に感じた。
ただ速さを求める走りではなく、「次に繋がるライン」を選んでいるかどうか。
ロングラン練習が終了してクールダウンさせてから二台はピットへ戻った。
エンジンを止めると、石浦が駆け寄ってきた。
「悪くねえな。タイム、今までの平均タイムとの差0が‐0.3まで広がったぞ」
「ほんとですか!」
「ただし——」
石浦は使い果たされたタイヤを指差した。
「それでも消耗はまだ多い。レースじゃ勝てねえ」
「……はい」
「一応今日の走行はロングランだったが実際の大会の3分の2しか今日は走ってないからな」
「ええ」
「これなら、1周でタイヤを使い切って行くぐらいの走行した予選の方がまだましだな。」
「確かにそうですね。予選3,2ぐらいが限界ですね」
「ああ、でもそうなると決勝はぼろ負け確定だな」
肩を落とす瑠生の背に、真昼の声が掛かった。
「でも昨日よりは持った。進んでるってことでしょ」
その言葉に瑠生は顔を上げた。
真昼の瞳は涼やかで、少しだけ笑っていた。
「次は、勝てるわよ。自分に」
その言葉は、慰めでも励ましでもなく「確信」に聞こえた。
瑠生は小さく頷き、拳を握りしめた。
その横で健二は腕を組み、不満げに呟いた。
「お前らばっかり先に進みやがって……」
けれどその目は、悔しさよりも闘志に燃えていた。
「いいぜ。次は俺も食らいついてやる」
「そう言えば、あんたのマシンどうなったの?」
真昼の鋭い疑問が飛んだ。
「えっとそれは.........」
「それは?」
「それは.........逃げろ」
健二は勢いよくピットから逃げて行った。瑠生、真昼はあきれてしまった。結局健二の車体は、ホイールだけでなくサスペンションアームが曲がり交換となりそれに伴って全分解することになった




