3話 摩擦 ― 聞いてしまった真実
昼休み。
教室には給食の匂いがまだ残り、窓の外からは野球をしている上級生たちの声が響いていた。
瑠生はノートを広げたまま机に突っ伏していた。眠いわけではない。ただ、頭の中には昨日聞いたあのエンジン音が鳴り止まず、授業の文字がほとんど入ってこなかったのだ。
「おーい、るい!」
友達の高志が机を叩く。
「またボーッとしてる。昨日もカート練習だったんだろ?」
「う、うん……」
別の子がからかうように言った。
「すげーよな。お前、車ばっかり。サッカー部に入ればいいのに」
「俺たちの試合、応援も来ないしさ」
笑い声が教室に広がる。
胸の奥に小さな棘が刺さった気がしたが、言い返す言葉は見つからなかった。実際、一度も応援に行ったことがなかったからだ。
「いいんだよ。どうせ車しか興味ないんだろ」
別の子の棘のある言葉に、瑠生は唇を噛んだ。
その時、隣の席の美咲がぽつりと呟いた。
「でも……かっこいいと思う。夢があるって、いいじゃん」
教室の空気が一瞬だけ止まった。
瑠生は顔を赤らめ、机に視線を落とした。
ーーーー
放課後。
ランドセルを背負いながら帰る道すがら、瑠生はため息をついた。
――僕の夢って、そんなに変なのかな。
ポケットに入れている布袋をぎゅっと握る。中には壊れたピストンの欠片。金属の冷たさが、不思議と心を落ち着けてくれる。
「これがあるから、大丈夫だ」
小さく自分に言い聞かせながら歩いた。
ーーー
その週末。
父・真一に連れられて、瑠生は再び郊外のカート場に立っていた。
いつもより荷物が多い。工具箱、折り畳みの椅子、そして厚いノートとストップウォッチ。ピットスペースに並べられたそれらは、どこか「本格的な現場」の匂いを漂わせていた。
「パパ、今日は何するの?」
「ラップを計る。お前の走りを全部、ここに記録する」
真一はノートを開いて見せた。そこには手書きの表があり、「周回数」「タイム」「コーナーの癖」といった欄がびっしりと並んでいて今までの練習してきたタイムもそこに書いてあった。
「感覚だけじゃ成長しない。数字で、そして俺の目で確認する」
さらに父は白いチョークを取り出すと、コースの縁石の手前に大きな×印を描いた。
「ここが第一コーナーのブレーキポイントだ。この印までは全開で行け。怖いかもしれんが、アクセルを抜くな」
「わかった!」
エンジンが目を覚ます。
アクセルを踏み込むと、小さな体がぐっと押し付けられる。
印が迫る。
――抜きたい。でも……!
思い切って踏み続け、印を過ぎた瞬間にブレーキを強く踏み込む。タイヤがきしみ、マシンが横に振られる。必死にステアリングを抑えたがスピンをした。
「よし! 今のは悪くない!」
ピットで父が手を大きく振る。
周回を重ねるごとに腕が痺れ、首が重くなる。それでも印の位置に近づくたび、恐怖心を抑えてアクセルを開け続けた。
ピットに戻ると、真一がノートにタイムを書き込んでいた。
「ほら見ろ。最初はこのタイム。でも今はここまで縮まった。たった数周で一秒だ」
「ほんとに……僕、速くなってる?」
瑠生の顔がぱっと明るくなる。
「まだまだだ。だが、伸びる芽はある」
真一の声は厳しくも、どこか誇らしげだった。
ーーー
夜。
夕食を終え、宿題をしていると、母・鈴が部屋に入ってきた。
「瑠生、ちょっといい?」
机に座る瑠生の前に腰を下ろすと、母は真剣な目で言った。
「勉強、遅れてない? 今日の宿題も……半分しかできてないでしょ」
「……ごめん。でも練習があって」
「練習練習って、そればかりじゃだめよ。夢を追うのはいいけど、現実も見なさい」
瑠生は堪えきれずに声を荒げた。
「現実ってなに? 僕は本気なんだ! パパだって応援してくれてる!」
鈴は一瞬たじろいだが、すぐに言い返した。
「お父さんは仕事があるから夢を応援できるの! でも私は違う……私には、あの事故が忘れられないの!」
瑠生は息を呑んだ。
母の瞳は、強いけれど今にも泣き出しそうな色をしていた。
「……事故?」
鈴は口を噤んだ。その瞬間、居間の方から珍しく大声でそして厳しく鋭い真一の声が飛んだ。
「鈴、それ以上はやめろ」
母は立ち上がり、背を向けた。真一が先ほどとは異なり優しな声で話してきた。
「瑠生、宿題を終わらせてから寝なさい」
扉が閉まり、静寂が残った。
ーーー
夜更け。
廊下を歩いていると、居間から両親の声が聞こえてきた。瑠生は立ち止まり、耳を澄ませてしまった。
「真一……あの子に、本気でレースをやらせたいの?」
母の声は震えていた。
「やらせたいというより……止められないと思う」
真一の低い声が応える。
「どんなに俺たちが止めても、あいつはなんとかしてカートに乗ろうとする。そして、それを後押しする人も必ず現れる」
「でも……私は怖いの。兄のことが忘れられない。大学生のとき、バイクで事故をして……帰ってこなかった」
瑠生の胸が詰まった。
――お母さんに兄がいた? 事故で……?
父の声が続く。
「知ってる。君がどれだけ辛かったかその辛さも、全部知ってる」
「だから……瑠生が同じようになってほしくないの。私の大切な子を、危険な道に送り出すなんて」
真一はしばらく黙った。やがて力強い声で言った。
「それでも……夢を見させてやりたい。子供の夢を後押しするのが俺たち親の役目じゃないのか」
「でも、でも私は怖いの」
「鈴、俺が必ず守る。るいの後ろには、俺たちが……俺たち技術屋がいるんだ」
すすり泣く声。やがて家は静けさに包まれた。
瑠生は廊下で立ち尽くしていた。
ポケットの中のピストンの欠片が、ずっしりと重かった。
――お母さん、そんなことがあったんだ。
母の涙。父の覚悟。
胸の奥が苦しくも、熱く燃えていた。
布団に潜り込むと、心の中で小さく呟いた。
「僕は走る。それで……必ず帰ってくる」
その夜も、ピストンを握りしめたまま眠りに落ちた。