2話 父の職場 ― 音を生む人たち
日曜の朝。
父である真一は新聞を畳み、コーヒーを飲み干すと唐突に言った。
「今日は俺の職場を見せてやる」
私は目を丸くした。
「職場って……工場?」
「ああ。るい、お前に見せたいものがある。きっと忘れられない日になる」
その言葉に、胸がどきどきと高鳴った。
「行く!」
1時間程電車に郊外に来た。電車から降りると、目の前に広大な敷地が広がった。高いフェンスに囲まれた工場群、銀色に輝く建物。その入り口に掲げられたロゴは、どこか誇らしげに見えた。
「ここが……パパの職場?」
「ああ。俺はここでエンジンの開発をやってる。責任者なんだ」
「責任者って……一番えらい人?」
真一は笑って肩をすくめた。
「まあ、そういうことにしておくか」
守衛に挨拶をして中に入ると、機械音とオイルの匂いが一気に押し寄せてきた。
通路の窓からは、溶接ロボットが火花を散らし、車体フレームが次々にラインに流れていく様子が窓の隙間から見えた。だが真一は立ち止まらず、私を研究棟の奥へと導いた。
しばらく真一とあるくと今まで見てきた建物とはことなり大きくそして周囲より建物のデザインが凝っていた。入り口を真一が開けると冷たい風が瑠生にあたった。長い廊下をと通り抜け重そうな扉が開かれると、張り詰めた空気が流れ込んできた。
作業着の技術者たちが白い光の下でパソコンに向かい、図面を広げ、難しい言葉を交わしていた。
中央のガラス張りの部屋には、黒光りするエンジンが据えられている。
「……これが?」
「箱車レース用の次世代エンジンだ。俺たちが造った」
その時、場内に声が響いた。
「テスト準備完了!」
真一が合図をすると、ガラスの向こうでエンジンが唸りを上げる。
最初は低い振動。それが徐々に高まり、やがて甲高い咆哮に変わった。床が震え、胸が突き上げられる。
「うわっ!」思わず耳を塞いだが、笑みがこぼれていた。
「回転数一万突破!」
「燃調マップ安定!」
「排気温度クリア!」
次々と飛ぶ声。モニターの針が跳ね、赤い数字が瞬く。
真一は腕を組み、鋭い目で画面を睨んでいた。周囲の誰よりも冷静で、誰よりも真剣だった。
――あの姿は、私の知る父ではなく「音を生む職人」そのものだった。
テストが終わり、部屋の空気が少し和らいだ。
真一は机の引き出しから、小さな金属片を取り出した。
「るい、これを持ってろ」
掌に置かれたのは、焦げ跡が残るピストンの一部だった。縁が欠け、使い物にならなくなった部品。
「これ……壊れてる」
「ああ。テスト中に割れたやつだ」
真一はゆっくりと言葉を続けた。
「だがな、こいつは役目を果たした。俺たちに弱点を教えてくれた。壊れたからこそ次が強くなる。そういうもんだ」
私は壊れたピストンを両手で包み込んだ。冷たい金属なのに、胸の奥は熱くなった。
――この音を作るのは、こういう小さな命の積み重ねなんだ。
昼休み。真一の同僚たちが笑顔で迎えてくれた。
「真一の息子か。お前も車が好きか?」
「うん! ぼく、レーサーになる!」
「ははは、頼もしいな。じゃあ俺たちのエンジンを壊すくらい回してくれよ」
「はい!」
真一は少し照れくさそうに笑いながらも、どこか誇らしげだった。
帰り道、夕焼けに照らされた工場の煙突を振り返った。
「パパ……ぼく、あの音を自分の手で鳴らしたい」
真一はしばし無言だったが、やがて穏やかな声であったがその声は力強くはっきりとしたものだった。
「なら、覚えておけ。あの音は一人じゃ作れない。何百人もの人が汗を流してできたものだ。お前が走るとき、後ろには必ず俺たち職人がいる」
私は頷き、ポケットの中の壊れたピストンをぎゅっと握った。
その夜。
机の上に部品を置き、布団に潜り込む。
耳の奥にまだ残る轟音が蘇る。
――次は、あの音の真ん中で走るんだ。
眠りに落ちる直前まで、私はピストンを握りしめていた。