19話 決意の二つの道
冬休みの朝は、吐く息が白く、空気は凛と張りつめていた。
学校のチャイムの音もなく、ただ静かに時が流れる。
瑠生は自室の机に向かっていた。机の上には新しい問題集が積まれている。鉛筆を握り、数式を解こうとするが、視線はいつのまにか窓の外へと逸れていった。
外にはまだ雪の名残がある。枯れた木々の枝に光が差し、冬の青空が広がっている。
瑠生の脳裏には、昨日の夢のように鮮やかな映像が浮かんでいた。
――黒いカーボンのモノコック、低いフォルム、冷たい光を受けて輝くフォーミュラカー。
冬休みに真一の工場で見たあのマシンの姿だ。招待を受け乗ったフォーミュラカーとは異なってかっこよさが勝っていた。
ペン先を止め、瑠生は机の端に置いてある小さな金属片――あのピストンの欠片を眺めた。
冷たい金属の感触が指先に伝わる。
(受験……カート……どっちも大事だ。だけど、本当に両立できるのか?)
胸の奥に渦巻く不安は消えない。
それでも、走りたいという気持ちが、すべての迷いを押し流すほどに強かった。
ーーー
正月明け、サーキットには三人の姿があった。
真昼はいつも通り冷静な表情で、ピットの片隅に腰を下ろしヘルメットを磨いていた。
瑠生が声をかけようとしても、その目は冷たく鋭く、集中の糸を張り詰めている。
一方、健二は寒さを誤魔化すように大きな声を張り上げ、ピットを歩き回っていた。
「うわっ、寒っ! でも今日は負けないからな!」
そう叫びながらも、その声にはどこか空回りの響きが混じっていた。
瑠生は黙ってピストン片をポケットにしまい、マシンへと歩み寄った。
(迷っているのは、俺だけじゃない……)
三人はそれぞれに不安を抱えたまま、サーキットに立っていた。
ーーー
エンジンがかかると、冬の空気を震わせる甲高い音が響いた。
排気の白煙が風に流れ、まるで冬の空に消える狼煙のようだった。
「よし、行くぞ!」
健二が叫び、真昼が静かに頷き、瑠生は深呼吸をした。
三台のマシンがコースに飛び出す。
1コーナー、瑠生は無意識にブレーキを長く残してしまった。
(もし、これでクラッシュしたら……受験も、全部ダメになるんじゃないか?)
そんな考えが脳裏をよぎり、ほんのわずかに足が緩む。
その隙を突いて真昼がインに滑り込んだ。
冷静な彼女の走りにも、しかし影がある。
いつもなら躊躇なく全開で行く立ち上がりで、一瞬アクセルを戻してしまったのだ。
(私、本当に全部を捨てられるの? 勉強、家族……全部犠牲にしてまで走るの?)
後方では健二が息を荒げていた。
(俺は……二人に勝ちたい。だけど、本当に勝てるのか? いつも追いかけるばかりで……)
その迷いが、スロットルを踏み切る勇気を奪っていた。
コースを駆ける三人の走りには、かつての鋭さが欠けていた。
観客席に立っていた者たちも、首を傾げるように見ている人物もいた。
ーーー
数周を走り終え、三人はピットへ戻った。
エンジンを止めると、急に静寂が訪れる。
ヘルメットを脱いだ真昼の頬は赤く、瞳には焦りが滲んでいた。
健二は汗を拭きながら地面を蹴り、苛立ちを隠そうともしない。
瑠生は俯き、ピストン片を強く握っていた。
誰も口を開かない時間が続いた。
やがて健二が小さく呟く。
「……なんか、全然ダメだ」
真昼も珍しく弱い声を漏らした。
「私も。集中できない」
その言葉に、瑠生も顔を上げる。
だが、何を言えばいいかわからない。
ーーー
その時、背後から重い足音が響いた。
「やはり、迷いが走りに出ているな」
スーツ姿の社長が現れた。
冬の冷気をものともせず、コートの裾を揺らして三人の前に立つ。
「今日の君たちの走り、確かに見た。夏や秋の頃のような輝きはない。だが――それでも、私は君たちを選ぶ」
三人が一斉に顔を上げた。
「新しく設立するジュニアフォーミュラチーム。そこに君たちを迎え入れる」
三人は少し驚いてしまった。悩みながら走りまともな走行すらできていないのにも関わらず入れると言い放ってしまうのは、この社長のすごいことだろう
「次の舞台に立ちたいなら、覚悟を決めろ」
沈黙を破ったのは真昼だった。
冷静な声で、しかし震えるほどの決意を宿して言う。
「……挑戦する。私は、さらに上を目指す」
続いて健二が拳を握りしめる。
「俺も……やる。もう脇役なんか嫌だ!」
瑠生は深呼吸をした。
冷たい風が頬を切り裂くように吹くが、心は熱く燃えていた。
「僕も挑戦します。でも……受験も諦めません。勉強も走りも、どっちも勝ちたいんです!」
社長の目が一瞬見開かれ、そして笑みが浮かんだ。
「君たちは欲張りだな。だが――そうじゃないと面白くない」
ーーー
その日の走行を終え、三人は並んでスタンドに腰を下ろした。
サーキットは静かで、遠くに街の灯りが瞬いている。
真昼は星を見上げながら心で誓った。
(瑠生……どんな舞台でも必ず越えてみせる)
健二は拳を握り、唇を噛んだ。
(俺も……絶対に勝ち残る!)
瑠生は夜空を仰いだ。
(受験も、レースも……両方、必ず勝つ!)
冬の星々は、三人の決意を静かに照らしていた。
ーーー
夜風が頬を刺し、白い息が空へと溶けていく。
三人の胸に残った迷いは完全には消えていない。
だが、それでも――進むと決めた。
これから待ち受けるのは、未知の世界。
フォーミュラの速さ、受験の壁、そして互いのプライド。
すべてを乗り越えるために。
三人は、冬の空の下で新たな一歩を踏み出したのだった。




