14話 春の兆し
冬を越え、春の光が戻ってきた。
サーキットの空気は澄み渡り、まだ冷たい風が頬を撫でる。だがその風には、もう冬の鋭さはなく、柔らかなぬくもりを帯びていた。
瑠生は、冬の間もずっと走っていた。
雪が舞う日も、吐く息が白く凍る朝も、父と共に練習を積み重ねた。寒さでハンドルを握る手がかじかんでも、決して休まなかった。
――だから今日の走行は、去年とは違っていた。
ピットロードを走り出した瞬間から、マシンは自然と身体の延長のように感じられた。
1コーナーに向けてアクセルを戻す。ブレーキを「ギュッ」と踏み、車体が沈んだ瞬間に「スッ」と抜く。
わずかな間をおいて、出口が見えた瞬間にアクセルを「スッ」と全開。
その動作はもう、考えるよりも前に身体が動いていた。
冬の間に繰り返し繰り返し叩き込んだ結果が、自然と現れていた。
「……できてる」
ヘルメットの中で、瑠生の口元が緩む。
ーーー
コース脇では、数人の大人が腕を組んで彼の走りを見守っていた。
その中に一人、スーツ姿の男がいた。年齢は四十代ほど、落ち着いた表情だが、目は獲物を狙う鷹のように鋭い。
「……あれが谷口瑠生か」
小声で呟きながら、タブレットに走行データを入力していく。
男は地方のカートチームの監督だった。数年前から有望な子供を探し歩いており、瑠生や真昼の名前を耳にしてここへ足を運んだのだ。
その走りを目にして、彼の目は確信に変わった。
「面白い……これは、光るぞ」
ーーー
一方、パドックの奥。
真一が勤める会社の社長――あの人物も姿を見せていた。
サーキットを歩くその表情は、どこか愉快そうでありながら、奥に何か企みを秘めているように見える。
手にしているのは、以前真一が机に置いていた、瑠生の「反省ノート」のコピーだった。
「やはり……天性というやつか。面白い」
口元に浮かんだ笑みは、単なる上司のものではなかった。
社長が何を考えているのか、その場にいた誰も知る由もなかった。
ーーー
午後。
瑠生が走行を終えてピットに戻る頃、真一は別の走行枠で走っている車両に気づいた。
「……?」
遠くのコースを、もう一台のマシンが走っている。
それは健二だった。
観客もスタッフも帰り支度をしている時間。彼だけが一人、コーナーに飛び込み、スライドを繰り返しながら走っていた。
「もっと……もっと速く!」
声を張り上げ、必死にステアリングを抑える。
出口でマシンが暴れ、芝に飛び出しかけてもアクセルを戻さない。
その姿に、真一は思わず足を止めた。
荒い。効率的ではない。だが、全身から伝わる「勝ちたい」という気迫は本物だった。
ーーー
やがて燃料が尽き、健二はピットに戻った。
ヘルメットを脱ぎ、荒い息を吐く。額から汗が滴り落ちる。
ふと顔を上げると、そこに真一の姿があった。
「……見てたのかよ」
声は気まずさと苛立ちを混ぜて震えていた。
真一はしばらく黙ってから、静かに言い頭を撫でて去って行った。
「健二。お前……よくやってるな」
それだけを残し、背を向けた。
健二は拳を握りしめ、唇を噛む。
「絶対に……勝つ」
ーーー
その頃、瑠生はピット横の椅子でクールダウンしながら、自分を見ていた大人たちに気づいていた。
スーツ姿の男が去り際にこちらを振り返り、わずかに口元を緩めていたことも。
「……誰だろう」
瑠生は胸の奥に小さなざわめきを感じていた。
春の空はどこまでも青く澄み渡っていた。
その下で、それぞれの思惑と決意が、確かに動き出していた。




