12話 予選の日
秋の朝は冷え込んでいた。窓を開ければ、吐く息が白くなるほどの冷気が流れ込んでくる。
その中で瑠生は、今日はランドセルの代わりにレーシングスーツのバッグを肩にかけ、玄関でシューズの紐を結んでいた。
「忘れ物はない?」
母・鈴の声は、いつもより張りつめていた。
「大丈夫! スーツもヘルメットもシューズも……ピストンも持った!」
瑠生は胸ポケットを叩いて笑ってみせる。
「まったく、験担ぎの石みたいに握りしめて」
鈴は呆れたように言いながらも、最後に背中をぽんと押した。
「……勉強も忘れないでね」
その言葉に、瑠生は思わず苦笑する。今日ばかりは、宿題やテストのことよりサーキットの方が大事だった。
ーーー
ワンボックスカーが会場に着いたとき、すでに駐車場はカートを積んだ車で埋め尽くされていた。各チームがテントを張り、工具やタイヤを並べている。ICF5の大会も同時に行われるためいつもよりもにぎわっていた。
焼けたゴムの匂い、漂うオイルとガソリンの香り――それらが混じり合って、独特の空気を作っていた。
「うわ……もうこんなに人が」
瑠生は思わず息を呑む。観客席には旗を持った応援団までいて、地方大会とは思えない熱気だった。
「集中しろ。周りに呑まれるなよ」
真一が工具箱を下ろしながら言った。
隣のテントでは、健二がすでにマシンに手をかけていた。こちらに気づくと、力強く拳を突き上げてくる。
「今日こそは負けねえからな!」
「僕だって!」
自然と笑みがこぼれる。
少し離れた場所では、真昼が淡々と準備を進めていた。父親と二人、無駄のない所作でタイヤを交換している。視線が一瞬だけ交わったが、すぐに逸らされる。その落ち着きぶりに、瑠生は何時ものことながら驚かされる。
ーーー
カートの練習走行時間になるとエンジンがかかると、空気が一気に震える。
瑠生はステアリングを握りしめ、深呼吸をしてからコースインした。
(ギュッと踏んで、スッと離す……そして、スッと全開!)
1コーナーの進入。ブレーキを強く短く踏み、車体が沈み込んだ瞬間に素早く離す。立ち上がりを待ってアクセルをスッと全開――マシンがぶれることなく、一直線に加速する。
「よし!」
その横を、健二のマシンが豪快に抜けていった。出口でアクセルを乱暴に踏み切り、リアを大きく振り回している。
「うおおおおっ!」
音だけは派手だが、加速は伸びない。
一方、真昼は淡々とした走りを繰り返していた。無駄のないライン、ブレーキとアクセルのリズムは教科書のように正確だ。観客席の大人たちから声が漏れる。
「やっぱり別格だな……」
ーーー
予選1回目
スタートの旗が振り下ろされる。
エンジン音が爆発し、十数台のマシンが一斉に1コーナーへ飛び込んでいく。
「行けっ!」
健二はスタート直後から猛プッシュ。2台をまとめて抜き去り、トップ争いに食い込む。
だが3コーナー、出口で踏みすぎて大きく膨らみ、外側の芝へはみ出した。
「くそっ!」
その混乱を冷静に避け、瑠生は4番手をキープ。前方には真昼が滑らかな走りで2番手を維持していた。
「追いつく……!」
最終コーナーでアウトから仕掛けるが、タイヤが悲鳴を上げ、わずかに遅れを取った。結果は4位フィニッシュ。
ーーー
ピットに戻ると、既に戻っていた健二が悔しそうにヘルメットを脱ぎ捨てた。
「なんでだよ! 全開で踏んでるのに伸びねえ!」
「アクセルの踏み方でしょ」
真昼が淡々と告げる。
「うるせえ! 上手い奴にはわかんねえんだよ!」
健二が食ってかかるが、真昼は冷ややかに視線を逸らすだけだった。
その様子を見ながら、瑠生は拳を握りしめる。
(僕だって、まだ真昼に追いつけてない……)
ーーー
予選2回目では、一発勝負だった。
午後の走行。路面温度はさらに上がり、マシンの挙動はシビアになっていた。
スタート直後から健二が再び猛プッシュ。今度は抑え気味に走るが、それでも出口でわずかにリアが流れる。
瑠生はインストラクターの言葉を思い出す。
(我慢して……出口が見えた瞬間にスッと全開!)
その通りに走ると、直線での加速が一気に伸びる。前方の真昼との差がじわりと縮まった。
「行ける……!」
最終コーナーの進入でブレーキを「ギュッ」と短く踏み、「スッ」と離す。車体が沈んだ瞬間にアクセルを「スッ」と全開。
アウト側から並びかけ――だが真昼は一枚上手で、インをきっちり守って抜かせなかった。
結果、瑠生は3位でチェッカー。
結果発表
夕方、予選結果が掲示板に貼り出された。
1位 高木真昼
2位 栄田浩一
3位 谷口瑠生
4位 逢坂健二
「やった……決勝は2列目からだ!」
瑠生は拳を握りしめる。
健二は悔しそうに唇を噛んでいた。
「ちくしょう……明日は絶対勝つ!」
真昼は淡々と結果を見つめ、ただ一言だけ呟いた。
「明日も同じことをするだけ」
その余裕が、瑠生の胸に火をつけた。
夜の振り返り
家に戻ると、机の上に反省ノートを広げた。
「ブレーキは“ギュッ”で“スッ”。アクセルは“スッ”で全開……」
ペンを走らせながら呟く。
窓の外には秋の虫の声が響いていた




