1話 甲高い音
それは、私――瑠生の夢の始まりだった。
父に手を引かれ、初めて訪れたサーキット。
灰色のアスファルトの上を、稲妻のように色とりどりのマシンが走り抜けていく。観客席に響く「コーン!」という甲高い音。耳を塞いでも無駄だった。鼓膜を突き破り、胸の奥にまで響き渡る。
「……うるさいな」
思わず両手で耳を覆ったが、それでも音は消えなかった。すると父が瑠生にヘッドフォンを付けた。
しかし、不思議と嫌ではなかった。むしろ、心臓を強く揺さぶるその振動が、私を釘付けにした。
父が隣で笑った。
「どうだ、るい? すごい音だろう」
「すごい……でも、なんか……怖い」
「ははは。最初はみんなそうだ。けどな、この音に惚れたらもう逃げられないぞ」
父の言葉の意味を、当時の私は理解できなかった。けれど――その予言は的中することになる。
レースは続いていた。
マシンが目の前を通過するたび、観客席が揺れた。私と同じくらいの年頃の子どもたちは、音に怯えて泣いたり、耳を塞いだまま父親の背中に隠れていた。
それなのに私は、足が震えながらも、目を逸らすことができなかった。
「パパ、あれ……どうしてあんなに速いの?」
「人間と機械が一緒になってるからさ。頭で考えるより先に体が動く。あれは人間が出せる限界の速さだ」
「ぼくも……できる?」
父は驚いたように私を見下ろしたが、すぐに笑って頭を撫でた。
「……そうだな。やってみたいか?」
「うん!」
迷いはなかった。
家に帰ってからも、耳の奥であの音が鳴り続けていた。
母が夕食を並べながら、父に問いかけた。
「今日、サーキットに行ったんでしょ? 瑠生、泣いたりしなかった?」
「泣きはしなかったな。……目を輝かせてた」
「え……」
母が私の方を見た。私はスプーンを持ったまま、まだどこか上の空だった。
「ねえママ。ぼく、あの車に乗りたい」
私の言葉に、母は箸を落としそうになった。
「ちょっと、あなた! 本気で連れて行ったの?」
父は肩をすくめた。
「いいだろう、夢を持つくらい。俺だってあの歳のときは――」
「だめ! 危ないに決まってるじゃない」
母の声は強かったが、私の胸の奥に残る音は、それをかき消すほど大きかった。
翌週、父は私を郊外の小さなカート場へ連れて行った。
山に囲まれた静かな場所。舗装された短いコースがあり、レンタル用のカートが数台並んでいた。
スタッフがヘルメットを差し出す。父がかぶせてくれた瞬間、視界が一気に狭くなった。息苦しさと同時に、妙な高揚感が胸を満たした。
「いいか、るい。アクセルは右、ブレーキは左だ。最初はゆっくりでいい。父さんが横で走るから」
「うん!」
エンジンが始動する。小さなマシンのはずなのに、響き渡る音に心臓が跳ねた。
私は恐る恐るアクセルを踏んだ。瞬間、背中を押されるように体が後ろに引っ張られる。
――速い!
恐怖と興奮が入り混じり、喉が渇いた。けれども数周するうちに、恐怖は薄れ、代わりに歓喜が全身を支配していった。
父はヘルメッド越しに目を丸くしていた。
「なんてやつだ……初めてでこのラインを選ぶか?」
私は夢中だった。
走る道は自然と分かった。ハンドルを切れば、マシンは素直に応えてくれる。ブレーキを踏むと、体が前に投げ出されそうになるが、それさえも心地よかった。
走行が終わり、ヘルメットを脱いだ瞬間、息が上がっているのに笑みが止まらなかった。
「どうだ、るい」
「……すっごい! もっと走りたい!」
父はしばし黙った後、にやりと笑った。
「やっぱり、お前はそう言うと思ったよ」
その夜。
家に帰ると、母は険しい表情で私たちを待っていた。
「あなた……カート場に連れて行ったの?」
父が口を開くより早く、私が叫んでしまった。
「ママ! ぼく、乗れたよ! 速かったんだよ!」
母の表情が一瞬だけ揺らいだ。だが、すぐに眉間に皺を寄せる。
「瑠生、危ないことはやめなさい。車はね、人を殺すこともあるのよ」
「でも……」
声が詰まりそうになった。父が助け舟を出す。
「才能があるんだ。見ただろ、あいつの目を。あれは本気だ」
「あなたまで……。生活はどうするの? お金だって――」
「金ならなんとかする。俺が働く」
母の目に、涙が滲んでいた。私は布団の中でその声を聞きながら、シーツを握りしめていた。
――危ないことかもしれない。けど、やりたい。あの音に包まれて走りたい。
数週間後、父は私を小さな地方大会にエントリーさせた。母は最後まで首を縦に振らなかったが、それでも当日には会場に来てくれた。観客席の端で、不安そうに両手を胸に当てていた。
初めての公式レース。
ピットに並ぶマシンたちは、どれも輝いて見えた。大人びた子や、経験豊富そうな子どもたちが真剣な顔で準備をしている。
私はヘルメットをかぶり、父にシートベルトを締めてもらった。
「いいか、るい。最初はビビってもいい。でも、最後まで諦めるな」
父の声は不思議と静かで、心に沁みた。
スタートシグナルが消えた瞬間、私は大きく出遅れた。
前方の車両から舞い上がった砂を浴びせられ、視界が真っ白になる。心臓が跳ね、ハンドルを握る手が震えた。
――やっぱり無理なのか。
しかし、その時。
鼓膜の奥で、あの日の音が蘇った。
耳を塞いでも消えなかった甲高いエンジン音。胸を震わせたあの響き。
私はアクセルを踏み込んだ。
恐怖よりも先に体が動いた。
次のコーナー、無意識にイン側へ飛び込む。前を走るマシンを一台抜いた。
その瞬間、震えは止まり、視界が広がった。
「……行ける!」
レース終盤、私は次々に追い抜きを決めた。父がフェンス越しに両手を振っているのが見えた。母は目を見開き、立ち上がっていた。
最終ラップ、最後のコーナー。私は思い切ってインを差した。マシンがわずかにぶつかる。歯を食いしばって加速。
チェッカーフラッグが振られる。
――僅差で優勝だった。
表彰台の上、渡された小さなトロフィーを胸に抱えながら、インタビュアーにマイクを向けられた。
「おめでとう! 瑠生くん、優勝の気持ちは?」
息が上がっていたが、迷わず答えた。
「世界でいちばん速くなりたいです!」
観客席から大きな拍手が起こった。その音が胸の奥で響き、涙がこぼれそうになった。
それからの日々は慌ただしかった。
学校、宿題、練習。遊ぶ時間は減ったが、不思議と苦しくはなかった。
クラスメイトにからかわれることもあった。「お前、勉強より車かよ」――そんな声に心が刺された。
だが、あの音を思い出すと、負けるわけにはいかないと自分を奮い立たせることができた。
母は最初こそ心配そうに見守っていたが、ある夜、私に弁当を差し出しながら言った。
「ほんとに……それが夢なんだね?」
「うん。ぼくは走りたい。あの音の中で」
母はしばらく黙っていたが、やがて微笑んだ。
「なら、宿題もちゃんとやるのよ」
私は思わず笑った。母の心が少しだけ動いたのを感じた。
中学に上がる頃には、私は「少年レーサー」と呼ばれるようになっていた。
地方紙に記事が載り、スポンサーのロゴが小さくマシンの横に貼られた。仲間たちと切磋琢磨し、時にはぶつかり合いながらも互いに腕を磨いていった。
夜、布団の中でまた誓う。
――必ずICF1に行く。必ず、あの舞台に立つ。
幼い日の憧れは、夢ではなく、確かな「決意」へと変わっていた。