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お兄ちゃんの授業4

 さてさて、何故私がこんな話を長々といたしてきたのか―――勿論、私のこのむさくるしい体験から認識というものを考えてみようという目論見からなんですが、こんな仕様もない体験から全体どんな答えがひねくり出せるのか、疑問でしょ?ですから一つ皆さんのそんな疑問にちゃんとお答えしよう、と私は決意いたしておりますので、今しばらく耳を傾けていただきたい。

 いよいよここで皆さん、先程私のお願いした追体験をしていただきます。この追体験という言葉については既に少しばかり触れました。けれどもまあ、想像という言葉で置き換えてもよろしい。前お話しした時には、体験という言葉にこだわっていましたからこんな言い方をしたんですが、取り敢えず実際にやっていただく段になりましたら、『ちょっと想像してみてください』とお願いするのが適当ではないかと、今では思います。

 ですから皆さん、私のあの悲惨な一夜の話、あの私の経験した内容をちょっと想像してみてください。先ず、恐らく長い時間気を失っていて漸く目覚めた時のことです。あの時の状態、今私、目覚めた時と言いましたが、厳密に言えば目覚めた時分というような状態でした。何しろその時分、恐らく目は開いていたんでしょうが何も判別できなかった。何も分からなかった。自分自身でさえも意識することが出来ていなかったのです。私に見えていたのは電灯と天井だったわけなのですが、それらが何であるのかも分からず、見ているという意識もなく、そもそも―――ここが一番大事なところなのですが、電灯と天井の区別自体、全く出来ていなかったのです。今から考えますと、当然電灯と天井とが見えていたはず、なのですが、そのときは別々には見えていなかった、ただ一つのそうした光景がそこにあっただけなのでした。また、その光景を私は見ていたのではなかった。日本語は、皆さん、こうした状態を説明するのに実に便利な言葉です。即ち、そうした光景が見えていた、或いはもっと端的に、見えていた、のです。

 この時点では―――まあ敢えて『時点』という言葉を使わせていただきます。何しろそこでは時間の流れすらも意識されていなかったのですから。けれどあまり厳密に正確に話そうとすると、かえって理解しづらくなってしまいますので、これからは適当に所々、主語とか時間とか空間とかの限定を使わせていただきますね。そこいら皆さんお聞きになるときは差っ引いてお考え下さい、ということで――――

 つまりその時点では、私という意識も無かったし、当然私が見ているという意識も無い。目の前のものが離れて在るという意識も無かったし、継続して見ているという意識も無い。言わば私と外界との境目にひらりとその光景が垂れ下がっていて、それのみが全てであったのです。これですけれど、多分、難しい言葉を使うと表象というようなものになるんじゃないかと思います。ただ、あくまでも『ようなもの』です。表象というのは、見るものと見られるものとの関係が、元来前提とされていますので。つまり、見るものと見られるものとの間に生じるものですので、そのものではない、ここで表象という言葉で表現したいのは、認識以前の何かです。認識ではないけれど見えているもの―――これはちょっと不味い言い方ですね。前に私は、認識というものを考えるために代表として『見る』という行為を取り上げることにする、というようなことを申し上げました。ですので先程の言い方をそれに当てはめると、認識ではないけれど認識されているもの、という風になってしまい、明らかにおかしい。けれど、今お話ししているのは言葉で正確に表現することがどうしても出来ない状態のことですので、ご勘弁ください。そんな風なものなんだ、とお考えください。その状態を想像し―――追体験をお願いします。

 では、この認識以前の認識の前身みたいなこの何か、これが将来認識になるのですが、その第一歩は何なのでしょう。その第一歩から認識が生じて来るのです。想像してみてください。私のその時の意識の状態を、自分の意識に置き換えて想像してみていただきたい。そうすると、おおよその見当がつくと思います。さあ、どうでしょう。あれかな?と思われた方はおられるでしょうか。答えはですね、いや、私が答えであると考えているものはですね、あの『電灯と天井が分かれて見えた』ことなんです。その時は、何度も言うように、電灯とか天井とか名前も用途も分かっていません。私が見ている、という意識もありません。この二つを仮に、甲と乙としてみましょうか。一応電灯が甲、天井が乙です。ただ、どちらが甲でも乙でもどっちでもよい。大事なのは、それまではこれら甲と乙とは別々のものとしては見られていなかったということです。またこの段階ではこの甲と乙とは、それぞれ独立してある、という風ではありません。ただ、差異のない一つの光景として見える、というだけなのです。甲と乙とは融合しており、それぞれが独立して自分を甲だ乙だと主張しているわけでもなく、甲と乙との位置がひっくり返っても別段何の問題もない、という状態です。

 ですからその時の私の表象を描いてみますれば、何かしらぼおっとしたものが拡がっていてその中央に光っているものが、これはもともとあったんだけれどそれまでは何故か区別がついていなくて、ある瞬間いきなり線が引かれた、円くくるりと線が引かれ周囲のぼおっとした何かとは異なった円い光が現れた。繰り返しになりますが、その時点ではそれぞれが天井、電灯として独立してあるわけではなく、四角く見える乙と円く見える甲とが別々に分かれて見えている、ということになりましょうか。

 勿論この状態ではまだ認識しているとは言えませんが、非常に重要な一歩です。それまで何の区別もなかった認識以前の何かが、分割され、甲と乙とに区別されるようになる。つまりは、ここからが認識が生じて行く、第一歩になるわけですから。それではこの区別をつけるという作用、これを何と呼べばよいか、です。認識の根っこになるものですから、なるべく正確な表現を用いたい。いろいろ候補はあるでしょう。切るか、断つか、離すか、分けるか、線引きか、境界付けか、思いつくままに並べてみましたが、どうでしょう、どの言葉も帯に短したすきに長しでしっくりきません。考えてみると、そりゃそうでしょうね、何しろここでは認識以前の状態を表現しようとしている。ですからここで一つお願いをさせていただきたい。またか、と思われるかも知れませんがご海容を。

 ということで、ずばり、限るという意味での『限ずる』と表現させていただきたい。妙な言い方に聞こえますでしょうね。実は私もこうしてお喋りをしながら頭の中で、ああでもないこうでもないといろいろ考えておりました。その結果こういうような状態の表現として、限定するという言葉が時折使用されていることに思い至ったのです。でも限定するというのではちょっと長いし、この中の『定』という字が少々そぐわないかなと判断いたしまして、それで限ずるとつづめてみたわけです。どんな言葉を使うか、ということは結局のところ約束事であります。ここでは約束事として、限ずるという言葉を使わせていただきます。これから限ずるという言葉を私が使ったら、先程からくだくだしく説明してまいりました、意識を失った状態から段々と目覚めてきて、眼前の表象が全く何の区別もないカオスとしか言えないものから甲と乙とが生じて来るという、その分岐点のこと、これをちらとで結構ですからどうぞ思い出してください。

 さて、そうしましたら、風邪をこじらせ嘔吐と下痢とでもがき苦しみとうとう自宅の便所で昏倒した私の目に映っている世界に区別が生じたというところから、そしてこの区別を生じさせるものが『限』という働きであるというところから改めてお話を始めましょうか。ここから分かりますことは、私たちの認識というもののからくりです。


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