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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

被災地に行ってきた話

作者: 佐倉硯

これは私が思った事をそのまま連ねただけのものであり。

被災地に対して何もしていません。

けれど私自身が、忘れてはいけないことだと思い書き記しました。

能登半島地震の被災地へ行ってきた。


決して崇高な理由ではなく、夫の親がそこに住んでいるからだ。


私自身、親族が“被災者”となるなんて思っていなかったし、隣県に住んでいる私自身も酷くはないけれど”被災者”になった。

小さい子供が精神的に不安定になり、能登の映像がテレビで流れるたびに怯えた。


夫は震災があった三日後くらいにはすでに現地入りしていたと思う。


そんな危険な事をよく許したな、と思うだろうが、私自身滅茶苦茶反対した。

貴方には幼ない子がいるのだ、とにかく落ち着くまで待って欲しいと何度も懇願し泣いた。


けれど、彼にとっては親が居て、水が止まって、家の所々が壊れて、避難している場所が放映されて、故郷が、生まれ育った場所が、全く違う景色になっているのをテレビ越しで見ているだけでは無理だった。

ポリタンクに水を山ほど抱えて向かった。

日持ちする食べものを山ほど抱えて行った。


正月だったのだ。


翌日にはみんながその場所に集まるはずだったのだ。


それが中止になって、不安とポリタンクを抱えて、夫は生まれた場所へ戻った。

これを書いている今ですら、思い出すだけで涙が出るくらいの恐怖だった。


無事に帰ってきますように、地震などおこりませんように。


どうか、どうか無事に帰ってきて、震える子供達を夫が抱き締められますように。


やはり彼が被災地へ行ったときも地震は来たし、そのたびに大丈夫かと震える手で連絡を入れた。

無事だと知るとホッとして、子供が怯えないようにYouTubeを見て過ごした。


夫が被災地へ向かったのは一度だけではなかった。


何度も何度も週に一度は出向いていた。


そのたびにポリタンクを買って水を入れて運んだ。

もう、石川周辺にはポリタンクが売られてなかった。売り切れてしまっていたのだ。

十個以上のポリタンクを買い、空いたものを持ち帰り、また水を入れて持っていく。


私は私で日持ちのする食料を探し、夫に持たせた。


無事でありますように、もう二度と地震が起きませんように。


不安定な気持ちをひた隠しながら、子供達と笑顔で接して夫の帰りを待った。


いつしか余震も落ち着き、日常が戻り、暑さがやってきた頃に夫が言いにくそうに伝えてきた。


「一緒に実家に行って欲しい」


いつか行かなければいけないとは思っていたけれど、まだ先だと思っていた。


夫から見せてもらった実家の写真は、駐車場や庭先がひび割れ、盛り上がり、家の戸が閉まらないほど歪んでいた。

まだ修理もしていないのだ。

水は通ったあとだったけれど、そんなところに子供を連れて行くのかと私は大いに反対した。

とてもじゃないが連れていけないし、私も精神的に無理だった。

被災地を直視できない。隣県で震源地から比較的離れた場所とはいえ、大きく揺れたのだ。あの恐怖は未だにぬぐえない。


ようやく落ち着いたと思っていた六月にも地震があった。


無理だと思った。夫は最悪一人で行くとは言っていたけれど。


でも、違うのだ。


私は貴方の親を心配していないわけではない。


何度も何度も我が家に来てはどうか? と誘ったし、一緒に暮らす覚悟もあると伝えていたのに、何度も何度もそれを拒否された。


知り合いにも実家が能登にある人が居て、年配の方になればなるほど、頑なに地元から離れようとはしない。心配になった息子夫婦が東京に連れて行ったのにも関わらず、一週間もしないうちに「家が心配だから帰る」と帰っていった人もいると聞いた。


命あっての家である。


頼むから、と何度も言ったのに。


貴方の親を心配していないわけではない。私達の子供に会わせたくないわけではない。むしろこんなに成長した孫の姿を見て欲しいとさえ思っている。

けれど、それを果たされるべきはそこ(・・)ではないのだ。


正月果たせなかった親族で会う機会を、今、というのは理解できる。


何しろ、親の古希(誕生日)である。


頭では理解できている、けれど恐怖がソレを上回る。


そこから喧嘩腰にもなったし、実際に酷い言葉もぶつけただろう。


妥協案も伝えたけれど、無駄だった。


色んな人に相談し、葛藤し、自分を納得させるのに酷く時間がかかった。


だから条件を出した。


今の段階ではみんなで行こう。


決断した日から、その行く日まで震度3以上の地震があったら中止すること。

何度も行くのは恐ろしいのでお盆は行かない事。

ただし、お盆は行かないという事については、今回行ってみて再考する余地ありと。


私は精神的に弱い。だからこの決定を口に出した事を後悔して、やっぱり行かないというかもしれない。でも行くと言った以上は、行く。その日まで気持ちを作るから、不安定になっても許してほしい。


また、被災地を見てどうなるかわからない。

子供達ですらどんな反応になるかわからない。

だから、アフターケアーをお願いしたい。

我儘だと思う。でもここまで凄い葛藤をしたことは理解してほしい。


だから、みんなでお祝いしよう。


あの日できなかった正月を、新しく迎えよう。


夫は一言。


「ありがとう」


――ああ、これは感謝される決断だったのか、と何となく心にストンとその言葉が落ちた。


苦悩して、葛藤して、泣いて、それでも決意したこの気持ちを、夫はちゃんと汲んでくれたのなら、頑張ろうと。


その後はもう、家の惨状なんて考えないようにした。


とにかく楽しめればいいなと、子供達にとって久々の従兄妹たちはどう映るだろうと。


何して遊ぼうと。お土産はどれにしよう。

これなら喜んでもらえるだろうか?


ああ、そうだ、夫の親の誕生日プレゼントはこれでいいだろうか?


それから真夏に行くのだった。そして田舎だ。

あの家のエアコンは古くて風が出るだけで涼しくない。

だからこそ暑さ対策も万全に。

いつも涼しい場所にいる子供達が熱中症にならないようにするには、あれやこれやも持って行って――。


ひたすら目を背けて考えないようにして。


その日を迎えた。


車の運転は私がすると言った。


緊張しながら走らせていくと、意外と同じ方向に向かう車が多いことに驚いて、少しだけ気持ちに余裕ができた。


でも、近づいてくるにつれてそれ(・・)は目の当たりになってくる。


地面が乱雑に舗装されている。


今までなかった凸凹を車のタイヤが走っていく。


電信柱が傾いている。


知っている店が閉じている。


それでも車は往来し、町は間違いなく生きていた(・・・・・)


夫の実家に到着したら、それはもう凄いものだった。


基礎がひび割れ、玄関ポーチがめくれ上がり、家と庭の境目が裂けて、実家で飼っている犬が変わらず出迎えてくれる。

家の中に入れば、どこもかしこも平衡感覚を失って気持ち悪さが出てくる。

戸が閉まらない。壁にヒビが入っている。


夫が教えてくれた以上の惨状の中、彼の親は暮らしていた。


それを考えないように、ただ祝う気持ちで集まった親族たちに久々に会えたのは嬉しかった。


子供達も久々の従兄妹たちに大はしゃぎした。


はしゃぎ過ぎて吐いた。子供あるあるである。


我が子が汗だくになって遊ぶのを初めて見たかもしれない。


いつも熱中症にならなようにと家の冷房をガンガンに効かせているが故に、こんな暑さでも子供達は遊べるのだなと感心した。

家の中の平衡感覚なんて何のその、走り回りすぎて逆に床が抜けないか心配になるほどで。


子供達のそういった無邪気さに救われ、私も心の底から楽しめたと思う。


ああ、来てよかったのかもしれないな。と。


時々、地震が来ませんようにと心の中で祈りながら、楽しい時間を過ごせたと思う。


被災地にいるからと言って悲惨な毎日を過ごさなければいけないということではない。


前を向かなればいけないと思った。


それでも、私の心の奥底ではまだ恐怖があって、楽しかったけれど不安もぬぐえないままで。


沢山話して、沢山写真を撮って、楽しい時間を過ごして、帰る時間になって少しだけホッとして。


親族たちを別れを惜しみながら、帰りはせっかくだから営業再開したとニュースをしていた観光施設に寄って帰ろうと、違う道を行った時に、私はまた現状を目の当たりにした。


家が、倒壊している。


そこにあった町が少しだけ壊れれていた。


夫は「見ないでいいよ」と言った。


私も自分自身がどういう反応をするかわからないけれど、でもなぜかこの時になって”見ておかなければ”と思った。


道がボコボコにうねる。


電信柱が頼りない。


寄った観光施設は、半分くらいがシャッターを閉めていた。シャッター前で物を売っていた。


あんなに広々としていた観光施設が、こんな規模を縮小して、それでも『頑張ろう能登』を掲げて仮営業を続けている。


それが、酷くショックだった。


何か、買って、支援したいと思ったのに、結局暑さにやられてジェラートしか買えなかったけれど。


ちゃんと”被災地”に触れた気がした。


観光施設を出て、さあ帰ろうと思った帰り道。


ふと飲み物を追加したくて、新しい佇まいのドラッグストアに入った。


夫と子供は車の中で待機しているということで、必要なものを買いに行った時。


新しいはずの外見にも関わらず、そこも確実に”被災”していて、入口のコンクリートが盛り上がって割れていた。

見れば駐車場の至る所が割れていて、ここも(・・・)なのかと気落ちしていたのだが。


中に入れば、そこは普通のドラッグストアだった。


整然と商品が陳列され、足りないものはほとんどなく、買い物客がカートを押しながら商品を見ている。


たぶん、その瞬間だったと思う。


私の考えは偏見かもしれないと気づいたのだ。


ここに”生活”があった。


人々の”営み”があった。


ここは“被災地”ではない。


誰かがこよなく愛する町なのだ。


誰かが今日も”普通”を過ごす場所なのだ。


夫の親が家から離れないのも。


東京に引きとられたはずの親が戻ってきてしまうのも。


ここが、その人達にとって生きる場所なのだ。


割れている道路が”日常”になっている。


家が少しくらい壊れていても、今日も”普通”に洗濯物を干している。


暑いわねってスーパーで会った知り合いと話をして。


あの家の人、震災後に戻ってきたんだねってそんな噂話をしている。


あっちのスーパー安売りしてるわよ、ってチラシを見て。


オリンピックで金メダル取ったらしいわよ、あら私興味ないわ、なんて言って。


高校野球の決勝面白かったね、とか若さを羨ましがって。


あそこの家の解体始まったみたいよ、って残念がって。


生きるというのは”日常”の連続だ。


それは、諦めかもしれない。


それは、希望かもしれない。


町を離れた人が居ても、町から離れない人が居ても。


誰もが”今日”を過ごしていく。


私達が無関心であろうと。


私達が私たちの日常を送ろうと。


被災地も変わらぬ時間が刻まれていく――。




家路につきながら「思ったよりも被災地だった」と言った私に対し、夫は「ずっと見てきたから、俺はよくここまで復興したなと思っていた」と言っていた。


時間の経過は人それぞれ違う風にとらえるものだなと思いながら。


お盆、やっぱり行くとなったら今回みたいな覚悟が必要だなと。


そして自分の家に帰ってきた時の安心たるや。


やっぱり緊張していたんだろうな、私。




その日、滅茶苦茶下痢になった。





これは、私がある町に行ってきた話。




2024/8/5 執筆了

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