第二章「疑惑の関係」(4)
地下へは何事もなく辿り着いた。
たくさんの水槽のような培養槽が並ぶこの空間が、今日はやけに薄気味悪く感じた。ツヴァイがよく利用しているベッドが視界に入り、イアナの心がざわつく。まるでこれから犯す罪を咎めるように、幾度も愛を交わしたその空間が、寒々しい空気をイアナに落とすのだった。
「へー。ここが奥さんの愛の巣なん? やらしー」
「……目的の培養槽はこの部屋の奥です。だけど、この扉の鍵が私には……」
背後で響くいやらしい笑い声には気がつかないふりをして、イアナは夫に禁じられた部屋へ繋がる扉を指差す。この扉には幾重にも錠が掛けられており、その鍵を持っているのはこの邸宅ではツヴァイのみだ。以前はフリンが管理していたらしいが、今の彼では鍵を奪われた際に抵抗する術がないため、信頼する息子へと預けたのだった。
「見たところこの扉、対魔合金でもない普通の扉みたいやし、俺の魔力通せそうやから大丈夫ですよー。だからそんな顔せんといてえや。可愛いお顔が台無しやでー」
「……触れずに魔力を……っ! 待って! それって!!」
「昼間、あの空間でもツヴァイの頭をぶっこ抜けた訳だ。わざわざここまで案内させたのは、“私ら”をここにおびき寄せたかったんだろ?」
昼食の席と同じく、突然背後からレイルの声が響いた。その声に振り返ると、ケントの更に後ろ、この空間への出入り口となる扉の前に、今は一番見たくなかった二人――レイルとツヴァイの姿があった。
「ツヴァイ……レイルも……」
「イアナ。お前を不安にさせてしまったことは謝る。だが、“ここ”に汚らわしい男を連れ込むのは感心しないな」
「っ!」
「イアナ。お前が連れ込んだこの男は、死体どころかそれを足掛かりにお前の旦那のことも操るつもりだぜ? いいのか? さっさとこっちに来い」
「ど、どういうこと?」
思いがけないレイルの言葉に、イアナは思わずケントを見詰める。ケントはさも気にしていないという顔でこちらを見返してくるが、その瞳にはどこか逡巡の光があって。
「こいつが操るのは己の魔力が込められた身体だ。その扉の向こうの身体にこいつの魔力を入れちまえば、『元の魔力が獣と繋がっている』お前の旦那も同時に操られちまうんだよ」
「っ! そんな!?」
「ついでに私のことも操るつもりだろ? だからわざわざ『任務対象全員』をここまでおびき寄せたんだよな? 本部の改修によって魔力の通りがよくなったこの空間を、計画に最大限利用するために。本部から私の“片腕”持って来てんのはわかってんだよ」
そう言った瞬間、レイルの身体がイアナとケントの間に割って入ってきた。赤髪の向こうで、強面ながらも整った顔立ちが狂気に歪む様を見せつけられる。その背後に立つ愛する夫の表情は――今のイアナには恐ろしくて見ることができなかった。
「特務部隊の獣が二匹は、さすがに俺には分が悪いわ。わかったわかった。今回はここでお暇するから、そんな怖い顔せんといてえや」
「……本部に報告あげたらどうなるか、わかってんだろうな?」
「へー、逃がしてはくれるんや? やっぱあれ? その奥さんへの罪悪感的な?」
「てめえが思ってるような関係じゃねえよ。私らはな。イアナの前でしっかり誓ってやる。お前が本部からの使者なのは事実で、今回の『調査』が個人的なものなのもわかってる。だったらお互い、『今回は何もなかった』で通すのが、賢い大人のやり方じゃねえのか? お前もちゃんと、『実験』出来たんだからよ」
「……あの空間で魔力発動して不発やったん、あんたわかってたんかよ……ますますエエ女やって興味湧いたわ。せやねん。やっぱりどんだけ魔力磨いても、俺の魔力は死体にしか効果がないみたいでな。嫁はんの前で愛する夫の切腹ショーなり無理心中なりさせてみたかったんやけど、『生きた獣』には全然あかんかってん」
残念やわーと悪い笑みを浮かべるケントに、イアナは腰が抜けそうになる。その気配を察してレイルがすぐさま身体を支えてくれた。不思議なことに、今ではもう、彼女に対する負の感情は消えていて。
「さっさと失せろ。お前の悪巧みのせいで、私は危うく大切な友人を失うところだったんだぜ?」
「……え?」
「やっぱ気付いてねえのか。おい、お前の嫁だろ? ちゃんとお前の口から説明しろよ、ツヴァイ」
きょとんとするイアナに微笑み、ツヴァイがこちらに歩み寄ってくる。その途中でケントの尻を蹴り上げ、その一撃に笑いながら彼はすっと道を開ける。
「イアナ。重ねて言うが、すまなかった。お前を不安に……させなければ、コイツが目的を吐かないと思ってな。おかげでコイツの口から狙いはレイルだと聞き出せた。やはり魔力による肉体の制御を狙っていたようだな」
ぎゅっと強く抱き締められて、自分ばかりが熱くなっていたことを自覚し恥ずかしくなった。
「まさかここまでコイツのことを案内するとは思わなかったがな。ここは俺達の大切な寝室のひとつでもあるし、何より……」
――この二人の関係を疑うなんて、私……どうかしてた……
こんなにも自分のことを愛してくれている夫のことを、どうして疑ったりしたのだろう。「ここから先は、この場では言えないな」と照れ隠しに咳払いなんてしている夫に抱き締められて、イアナは自然に流れた涙もそのままに、「ごめんなさい」と素直に謝罪を伝えた。
「お前は何も悪くねえよ。疑われるように仕組んだのは私だけど、本当に……疑われたままこれっきりにならなくて良かった。コイツは私が責任持って本部に連れ帰る。だからよ……続きは私らが出ていってから始めてくれ」
最後には馬鹿笑いになっていたレイルの言葉に夫婦二人で赤面したのも、きっと彼女にとっては本部への良い土産話になるのだろう。そんなことを思いながらも、イアナの心は既に熱を帯び始めたツヴァイの指先に意識を絡め取られようとしているのだった。