第二章「疑惑の関係」(3)
結局あの後、あまりの出来事に味がわからなくなった昼食をなんとか食べ終え、イアナは一人、夫の執務室の掃除に取り掛かっていた。
ツヴァイとレイルはイアナが食事を終えるのを見届けてからさっさと姿を消してしまい、ケントは本部からの仕事――数週間おきに訪れる他の本部の人間が行っている、この邸宅内の定期報告のための訪問だ――を行うためにうろついている。先程も廊下の隅の血痕に向かって座り込んでいた。
こんな時頼りになるはずのフィンレーは、ちょうど午後から買い出しのために街に出てしまっていた。そのためイアナはこの不安な状況を一人で過ごすことを余儀なくされ、その気持ちを少しでも紛らわすために、『普段通り仕事を行う』ことを選択したのだ。
使用人達を下がらせて、愛する夫の執務室の掃除を行うイアナは、だが、そもそも日頃ツヴァイ自身があまり汚すような仕事の仕方をしていないため、目立った汚れはこの日も見当たらなかった。真面目な夫の仕事ぶりには感服だが、今この時ばかりは少しだけ恨めしい気分にさせられる。
――廊下に出てあの人に鉢合わせするのも嫌だし、少しだけ休憩でもしようかしら。
休憩という名の時間つぶしを考えついて、イアナは夫の愛用する椅子へと腰を下ろす。執務机の上には触れないようにして、背後の窓を振り向く形に椅子を動かした。窓の外では砂嵐越しに陽の光が頭上に輝いており、まだまだ昼の時間は長いことを伝えて来る。
ケントと名乗る男は、おそらく本部の人間で間違いないだろうということだった。だが、その目的が全く読めない。死者を生き返らせるような研究は、どこの地方でも研究こそはされているが、未だに完成したという事実はないとレイルも言っていた。それはイアナも間違いないと思う。そんなふざけた研究が完成していたら、すぐさま戦争状態に突入しているだろうからだ。
だが、全くのハッタリと決めつけるには、あの男の魔力は異常だった。イアナには感じ取ることはできなかったが、ツヴァイもレイルも、『死体の身体程度なら物理的な意味で動かせるかもしれない』と彼の魔力の質を読んでいた。
物体を動かすタイプの魔法にもいろいろあるが、その物体をわざわざ死体と指定することにイアナは嫌悪感を隠せない。死者への冒涜も甚だしいし、そもそも亡くなった人間の身体を動かして何が出来るというのか。しかも、地下にいる人間は、死体ですらない一応は生きている状態なのだ。
――それよりも……ツヴァイのことも元に戻すって言ってたけど……もしかして、ガーゴイルの呪いをなんとかできるの?
「俺のこと、考えてくれてます?」
突然、今正に考えていた男の声が響いて、イアナは慌てて椅子から立ち上がった。いつの間にか執務室の扉が開いていて、そこからケントが部屋に入ってきている。彼は足音もさせずにイアナの目の前まで歩み寄ると、ぐっと片腕を伸ばして部屋の窓を開け放つ。砂嵐対策のフィルターがあるので砂が室内に舞い込むことはなかったが、外の音が耳に届くようになる。
「……貴方が言った言葉を考えていただけです。夫を元に戻すって……」
「ああ。奥様はまだ、知らへんのですね? ツヴァイ様の頭に何が入ってるか」
窓に伸ばしていた手が戻されて、今度はそれがイアナの頬に伸ばされる。すっと頬に触れる感触にぞくりとして、イアナは一歩後ずさる。今のは異性への触れ方ではなかった。まるで実験動物の感触を確かめるような手つきだった。
「……私は、夫の頭に何が入っているか知っています。だから……それを元に戻すということの意味が、わかりません。夫にとって、今の状態こそが真だと、私は夫自身から聞いていますから」
こんな胡散臭い人間にガーゴイルの呪いがどうにかできるなんて考えられない。いや、もしどうにかできるとしても、きっとツヴァイだって、こんな人間に対処を頼むようなことはしないだろう。そうでなければ今この時、ツヴァイがレイルと共に一緒にいるはずがない。
――そうよ。そうじゃなかったら、二人で今頃……今、頃? え、何? この……話し声……?
「やっと気ぃついたんですね? 奥様を放って、ツヴァイ様も大胆やわ。隣の部屋に女連れ込んでるんやもん」
イアナの耳に届いた音には、男女の微かな声も混じっていた。男の声は愛しい夫で間違いなく、女の声もおそらくレイルだ。隣の部屋も窓が開いているのだろう。昼食後に執務室を掃除するとツヴァイには伝えていなかったので、もしかしたら油断したのかもしれない。普段ならこんな状況、絶対になるはずなんてないのに。
イアナは自身の耳に魔力を集中した。イアナの持つ魔力は微かなものだが、感覚器に魔力を集中することで感覚を鋭敏にするにはむしろ向いていた。魔力が高いと逆に神経を破壊してしまう行為なので、軍の中でも特務部隊など裏側の人間しか使用しない『裏技』だと教えてくれたレイルが言っていたか。
そんな当事者の彼女から教えてもらった技術を密かに使い、イアナは隣の部屋に接する壁に耳を当てて意識を集中する。
『おいリーダー。まさかとは思うが地下のアレ、お前も動かせるわけじゃねえよな?』
『それこそまさかだ。合成獣に魔力の中枢となる心臓を抜かれた死体を、他者の魔力で生き返らせられるわけがないだろう。それと同じで、いくら獣の頭が入った俺だったとしても、俺の魔力と獣の魔力は別物だ。同じ水流の魔力だとしても、他者の魔力に違いはない。俺にもあの男にも、地下の身体を動かすことはできない』
『そうじゃないと困るぜ。あの野郎、魔力だけは高そうだからな。地下の獣共の主導権なんて握られちまったら笑えねえよ』
「……さすがにバレてんのかー」
ほとんど壁に張り付くようにして聞き耳を立てていたイアナの背後から、ケントが覆いかぶさるようにして壁に耳を当てて小声で言った。急な接近に驚いてしまって身体が動かないイアナのことなんてそっちのけで、ケントは小さく溜め息をひとつ。
なんだかその力ない行動が彼らしくなくて、警戒すべき相手だというのはわかっていても、イアナは彼をやんわりと押しのけることしかできなかった。
――なんだか、哀しそう?
イアナが少し押しのけた程度では、ケントとの距離にほとんど変化はない。まるで、所謂壁ドンのような姿勢になっただけの現状に唐突に気付き、イアナは熱くなる顔を伏せて彼に掛ける言葉を探した。魔術師と名乗る割にはケントの身体つきは筋肉質で、強面の顔つきも近くで見たらそれなりに整っていて驚いてしまったのだ。
「……あの、もしかして他に……目的があるんですか?」
イアナがそう問い掛けたその時、隣の部屋からガタリと――どこか不吉な物音がした。しばらくの沈黙。そして……
『あの男の目的はそのうち向こうから明かすだろう。それより……お前とこうするのも、久しぶりだ。他の男の匂いをプンプンさせて、お前は本当に躾のなっていないメス犬だな』
どこか甘い空気を孕んだ夫の声が、これまでイアナが聞いたこともないいやらしい言葉を発している。それに応える女の声が、返答の前に甘い吐息を挟んだ。
『……お前、嫁さん放って私とばかりこんなことしてたら駄目だろうが。そりゃ、私らとの経験が忘れられねえってのも、気持ちはわかるがよ……披露宴、もうすぐなんだろ?』
ごそりと、布が擦れる音が声に重なる。いつになく不安そうな夫の声が、それに続く。
『ああ。今は考えたくないな。お前が目の前にいるだけで、俺はただの男になってしまう。そんな自分のことを抑えられない。情けないよ、本当に』
『リーダー……』
『俺はもう、リーダーじゃないだろ……今は、昔の俺で呼んでくれないか?』
『サク……本名教えてくれよ?』
『ふふっ……お前こそ』
布が擦れ、床が軋む。そんな不吉な音をバックに、『昔の関係』性を疑うやり取りが続く。
「あー、やっば。めっちゃエロー」
その言葉にハッとして顔を上げると、欲望を隠そうともしないケントの顔が、イアナの鼻先数センチの距離に迫っていた。咄嗟に顔を背けると、彼はははっと小さく笑い、「俺がキスしたいんは奥さんちゃうからー」と前置きをしてから、先程のイアナの問いに答えをくれた。
「俺の狙いは特務部隊の方なー。ちなみに死体を動かせるんはほんまな。ちょっと盛って生き返らせれるって言ってもたけど、まあ『死体が動く』んは合ってるし、同じようなもんやろ? 死体から生前の魔力全部ぶっこ抜いて、俺の魔力の器にしてまうんやわ。そうしたらその死体はもう、俺の身体パート2な訳」
「……それだと、夫の獣の方の魔力を抜いたら、私の夫も貴方パート2になりませんか?」
「あんたの旦那さんは獣の魔力だけやのおて自身の魔力も持っとるから、獣の魔力だけ“親切心”でぶっこ抜いてあげよう思てん。そうしたら旦那さんも本部<浮気相手>に頼らんと嫁さんのことだけ見れるし、俺の恋敵も減るし一石二鳥ってなー」
「……」
にっと笑ってこちらを見るケントの表情に嘘はないように感じた。なにより彼の提案は、今のイアナにとってなによりも魅力的に聞こえてしまう。
壁越しの情事はまだ続いている。相変わらずミシミシと床が鳴り、二人の息が少しあがっているようにも思えた。こんな音、もう聞きたくない。
魔力の集中をやめたイアナのことを、ケントはさもおかしそうに笑った。その声にはもう、イアナの心が視抜かれているようだった。
「魔力を抜くのは夫のガーゴイルの呪いだけ、では駄目なんですよね? 地下まで案内すれば、夫のことを……」
「もちろんですとも。地下の人間の魔力を抜かせてくれたら、ツヴァイ様の呪いもぶっこ抜いてあげますて。なんせ合成獣の被害者なんて、なかなかサンプルで手に入らんのでねー」
「……今すぐ地下に向かいましょう。今は使用人達も他の仕事をしています。夫も……本部も今は、私達に気がいかないでしょうし……」
言っていて自分が一番悔しかった。それでも愛する夫のことを完全に突き放すことなど、イアナにはできないのだった。