8.シュー・ホランドの憂鬱②~第二楽章:ノスタルジア~
序曲から続く第一楽章を終え、一息つくと、ホールはいつもよりも静寂さに包まれていた。
通常だったら、ここで、観客に『天使のような』笑顔を向けて、サービスするところだけど、俺は緊張感を途切れさせることなく、次の第二楽章に手を進めた。
どっしりと腰を入れて、長調で始まる中音部の調べを、抑揚を抑えて丁寧なレガートで弾くと、昔話を語るように、とてもノスタルジックだ。
作曲者が自らの故郷を思い浮かべたように、俺には俺自身の故郷が過ぎる。
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俺は、皇都近郊の港町を抱える領地で、領主の長男として幼少期を過ごした。
町を広く見渡せる小高い丘の中腹に建つ館で、母上と多くの使用人に囲まれて過ごしていた。
母上は、この帝国で十年にひとりの美姫とも言われていた人だったが病弱で、父上の皇都での外交官や貿易関係の仕事への対応は、父上のもう一人の妻である人に任せて、この領地でゆったりとした日々を過ごしていた。
父上は、その優れた外交官の気質でもって、領地の母上と皇都の夫人のいずれをも、それぞれに応じて平等に愛せる人だったから、母上たちはお互いを尊重して、ある意味、姉妹以上に仲良くしていた。
帝国一の港町ということもあって、領主の館では、いつも各国の新しい特産品を、真っ先に目にすることができた。
珍しい食べ物、美しい工芸品や絵画、エキゾチックな服飾品、使い方のよく分からない道具まで。
母上は、芸術作品をこよなく愛する人であり、また敏感な目利きの目を持っていた。
母上が好ましいと言ったものを、父上や家の使用人が聞き取って、それを皇都などに持っていくと、飛ぶように売れたらしい。
ただ、母上はそんな後事情は全く知らされず、ただ自由に感想を言っていただけだ。
いつしか母上の元には、物だけではなく、この国で成功を望む芸術人も足を運ぶようになっていた。
音楽家、歌い手、絵描き、詩人、踊り子なども。
俺は、幼い頃から、母上の傍でそういったものを一緒に目にしているうちに、母上の感性に似た目を持つようになったのかもしれない。
母上は、横で俺が言う感想を、にこにこと微笑んで聞いていた。
そのうちに俺は、いいなと思う客人を見つけると、彼らの滞在期間中、その術の教えを請うようになった。
彼らは、当然俺が領主の息子だってことを知っていたから、惜しみなく、歌や演奏、絵画など、その腕を披露し、その技を教えてくれた。
たくさんの美しいものに囲まれて、素晴らしい技術に触れることのできる暮らしは、本当に幸せな日々だった。
けれど、俺が12歳になる頃、領地に流行病がやってきて、もともと身体の弱かった母上はあっという間に病に伏した。
「わたしの眩しい太陽。あなたの輝きは唯一無二よ。あなたを遮るものは何もないわ。だから、自由に生きていっていいの。」
亡くなる前、俺にそう言って息を引き取った母上は、とても安らかな顔をしていた。
その後、俺は皇都のタウンハウスで、父上と義母上、異母弟と暮らすことになった。
父上は公正で明るい人で、母上たちにそうだったように、弟と俺を平等に扱った。
他国の外交官との会合、大商会との取引、そういったところに「経験だ」と言って、俺ら二人をよく同席させた。
弟は、父上の仕事に興味を持っていて、いつも目を輝かせていた。
屋敷に戻ってからも、分からないところは調べたり質問したりすることもよくあった。
「兄上、さっき、父上が言ってた『和平条約の延長と関税の引き下げ』ってどういうこと? それで、この国はどう変わるの?」
「50年前の戦争で王国に負けたこの国は、不利な条件で取引をしてるよね。だけど、50年経って、その条件が両国の貿易の足かせになってきてる。王国との仲は良好だから、お互いがもっと豊かになるために、貿易の条件を変えようとしてるんだ。うまくいけば、街に並ぶ商品が増えて、新しいものも色々入ってくるだろうね。」
「すごい!! さすが、兄上だね!」
そんなふうに、弟はいつもきらきらした目で、俺を見ていた。
だけど、俺は、ほんとうは苦痛だったんだ。
分からないことはなかったけど、ちっとも面白くなかった。
好奇心に満ちた弟とは違って、早く帰って、楽器を触りたい、絵を見たい、いつもそんなことばかりを考えていたんだ。
明るくて活発な義母上は、もとは大商団の出身で、仕事でも補佐として父上を支えていた。
俺にとっては、義母というより、年の離れた姉のような存在で、放っておくと自分の世界に閉じこもろうとする俺を連れ出してくれるのが彼女だった。
俺が黙りこむと、彼女はよくこう言った。
「シュー、辛いのなら、溜め込まずに言うのよ。シエラ様が望んでいたように、あなたには自由に生きて欲しいの。あなたがしたいことは、私が必ず力になるわ、シエラ様の代わりにね。」
恵まれた環境だと、ちゃんと思っていた。
みんな、こんな俺のことを分かろうとしてくれる。
でも、やっぱり、俺の居場所はここではないと、そう感じてしまう心は止まらなかった。
異質な俺がいることで、弟も義母上も我慢しなきゃいけない未来がきたらって、不安だった。
だから俺は、15歳を前に、父上に廃嫡をお願いしたんだ。
父上は俺が話すのを、ただじっと見て、聞いていた。
そして、俺が話を終えると、しばらく考えてから、ふうと息を吐いた。
「・・・・・そうか、分かった。
世界の情勢や価値あるものを知っている君が、弟のゼノと力を合わせて、この家を繁栄させてくれる未来を期待しなかったわけじゃないが・・・。とても残念だが、でも私は、正直嬉しくも思っている。
シュー、君が歌や楽器、絵画、そういったものに触れたり、語るとき、私はいつも、そこに、愛する妻、シエラを感じている。そういうとき、君のすぐ近くにはシエラがいて、そして、私はシエラに寄り添うように、君のことを、愛おしく、そして眩しく見ているんだ。
・・・すごく、不思議だけどね。」
そう言った父上の顔は、母上が「好ましい」と言ったものを手にした時の顔と、よく似ていた。
「――そうだな。君に、ひとつ渡したいものがある。」
父上は、私室から、装飾の凝った小さな天鵞絨張の箱を持ち出して、俺の目の前に置いた。
頷く父上に「失礼します」とそっと蓋を開けると、中にあったのは、橙色に深く輝く石だった。
「その石、シエラが私にくれたものなんだ。まだ、結婚する前かな、初めて二人で旅行に行った街の店で、私の瞳の色によく似てる、眩しい太陽みたいだと、言ってね。」
俺は、自分によく似た父上の瞳を、母上を亡くした後、このとき初めて真正面から見た気がする。
父上は、ひどく眩しそうに俺を見ていた。
俺は、息をするのが苦しくなって、ごくりと唾を飲んだ。
「この石には『挑戦』や『目標に向かう強い気持ち』という意味があるらしいよ。私もこれまでずいぶん助けてもらった。これからは、君にこそふさわしいだろう。」
斜陽の入る窓辺の前に立つ父上の姿に、俺は口元が震えた。
俺は、石の入った箱を、ぎゅっと握りしめて、深々と頭を下げた。
「ありがとう・・・ございます。」
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母上、ゼノ、義母上、父上――――。
俺は、この楽章はじめての速弾きで、高音部の8小節を弾き上げる。
スタッカート気味に弾くその金色の音色は、きらきらと輝く星空のようであり、朝の眩しい太陽のようでもある。
そして、故郷を旅立つ瞬間の夢と希望のようにも思う。
愛する家族を思い浮かべながら、次の展開部で雄大な重和音を響かせるため、俺は、足元のペダルを深めに踏みこんだ。
今回も読んでいただき、ありがとうございます
次話もお楽しみください
【あとがき小話】
濃橙色の石は、オレンジスピネルをイメージしてます
スピネルは、太陽の眩しい真夏、8月の誕生石に、2021年に新しく加わった宝石です