10.シュー・ホランドの憂鬱④~第三楽章:救い~
俺は、第二楽章を弾き終え、大きくはあっと息をついて、天を仰いだ。
まるで、薄暗い水の中から遠い水面を見上げるかのようだ。
音楽への夢や希望がたくさんの細かい泡になって、遠ざかって行く。
嫌だ、まだ消えないでくれ。
俺は、薄暗がりの中、それらを掴むように、目に飛び込んでくる白い鍵盤を指で捕らえて、第一楽章のメロディラインを、丁寧に再現していく。
そうすると、聞き慣れた美しい音の粒が並んで、俺の耳に入ってきた。
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年が明けて社交界の始まりに皇宮で開かれた舞踏会、俺は喧噪を逃げ出し、皇宮の石積みの外壁に寄りかかった。
昨夜の侯爵邸のことを思い出して、気が滅入っていた。
ガオと別れた日以降、ダイナー侯爵は、演奏会の終わりに、俺と二人になることを求めるようになった。
次の演奏会の話をしながら、俺の手や身体に触れる。
「ああ、シュー。今日も、とっても良かったよ。可憐で、清らかで・・・。こんなに美しい君は、私が見つけ出したんだ。私だけのものだ。」
そうしたら、俺は魔法にでもかかったように、身体が凍り付いてしまう。
それに、昨夜は、それに侯爵夫人も加わって――。
触られている感触と、耳元で囁かれる声を思い出して、また身体が冷たくなっていく。
こんなときに思い出すのは、決まってガオだ。
こうなることが分かってて、俺を誘ったのか?
最初から裏切られてたのか?
こんなんじゃあ、音楽なんて続けられないよ、嫌いになるよ、苦しい。
「・・・・・。」
言葉にならない気持ちで、自分の身体を両腕でぎゅっと抱え込んだ、そのとき、穏やかな声が耳に届いた。
「・・・君、大丈夫か? 顔色が、ひどく悪いね。」
目を開けると、月明かりの中、美しい容姿をした人物が俺を見つめていた。
月光を纏った金糸の髪に、アイスブルーの涼やかな瞳、美しい顔立ちと高貴な佇まい。
俺の壊れそうな外見と違う、全部が全部、正真正銘の『良いもの』。
「ソウル、第二皇子殿下・・・。」
『第二皇子』は、今日のような舞踏会に姿を見せることは稀だった。
皇宮で遠くに姿を見ることはあったが、こうやって直接言葉を交わしたのは、これが初めてだった。
ソウルは俺をじっと眺めてから、ふむ、と頷いた。
「俺はもう仕事に戻るところだ。一緒にくるか?」
「・・・・・。」
言うだけ言って背を向ける彼に導かれるまま、俺は、距離を置きながら付いていく。
ソウルが立ち止まったら俺も動きを止め、また歩くと歩を進めた。
そうして暫く行った先――――、薄暗い廊下の途中、綺麗に紋章が彫られた一枚木の扉の奥、漏れる灯りに誘われて部屋に入ると、上着を脱いだソウルが、既に大きな執務机に向かって、ペンを動かしていた。
「自由にしてていいよ。俺も、好きにしてるから。」
机に向かったままのソウルが言う。
俺は、部屋の中をぐるりと見回した。
皇族の執務室とは思えないほど、質素な雰囲気だった。
でも、よく見れば、ひとつひとつの調度品が、どれも仕立てのよい名品だと分かる。
この部屋の主に似合うものだった。
俺はその雰囲気に妙に安心して、部屋の中央にあるソファにすとんと腰を降ろすと、今度は、その座り心地の良さに、身体の力がふっと抜けていった。
サラサラと、リズム良く動くソウルのペンの音も心地よくて、その夜、俺はただ何も言わず、その雰囲気を楽しんだ。
それから、ソウルの執務室は、俺にとってのオアシスになった。
その部屋には、物だけではなくて、優れた人が多く集まっていた。
彼らは、いつの間にか部屋に入り込んだ俺を特に気にすることもなく、俺に何かを求めることもなく、ソウルのために動いていた。
俺はずっとこの部屋にいたくって
「ソウ様、何にも役割のない俺がここにいてもいいの? 俺、何でもするよ。」って、ある日聞いたけど、彼は「別に無理して何かをしなきゃいけないことはないんだ。」って言った。
その優しさと居場所のおかげで、俺は気持ちのバランスがとれて、侯爵邸で嫌なことがあっても、何とか普通でいられた。
それから暫くして、そこに新しい住人が加わった。
ヒーロクリフという男だ。
そいつのことは、正直嫌いだった。
いつも身体を小さくして、人の顔色を見ていて、自分に自信がない。
ソウ様やハルが言うには、『多少優秀で、多少見どころがある。身の程をわきまえているから、リスクが低い。』ってことらしい。
でも、『卑屈な奴、美しくない、何でこんな奴がここに?』って、思ってた。
だけど、最近、急に変わったんだ。
まず、あいつは今まで気にもしていなかった自分の見た目を、俺に聞いてきた。
「見た目とか、今更気にしてんの?」
正直、お前ぐらいの容姿だったら、俺もこんなに苦労しないのに・・・。
むかついて、嫌みを込めて返事をしたら、今まで、あいつ自身も避けていたはずの俺に、なぜか執着してきた。
そして、それからは、出逢うたびに、うざいくらいに俺に話しかけてくる。
何を言われても自信に溢れてて、内容はともかく、自分の意見をはっきり言う。
だからなのか、地味なはずなのに、やたらと目につく。
何よりも、あいつの言った言葉が、俺の中にずっとひっかかっていた。
「パフォーマンスって、もっと自由で楽しいものだ!」
そんなことあるか?
音楽は、形式があるから美しいのだし。
それに音楽を・・、音楽で舞台に立ち続けるには、自由に好きなだけじゃあ、やっていけない・・・。
だけど、あいつは、言葉のとおり、いつも好きなように歌って踊って、楽しそうにしている。
それに最近、ヒーロとよく一緒にいる、カトレット子爵令嬢。
彼女は、なんだかもっとすごくって、「ヒイロさま!これ、見てください!」と、よく分からない道具を持って飛び込んでくる。
礼儀も形式もあったもんじゃない。
「え!? 何これ? 超面白れぇ!」と彼女を迎えるヒーロは、懲りずにひどい目に合っている。
でも、それが、失敗作であっても、成功しても、二人は驚き、悲しみ、よく笑っていた。
――そういえば、中でも、『あれ』は、面白かったな。
ピアノみたいなのに、ちょっと違う。
鍵盤の上にたくさんの部品がついていて、カトレット嬢がそれをくるくると回して鍵盤を押すと、いろんな音が出た。
俺は、新しい道具を初めて目にした幼い子どもみたいに、夢中になってしまった。
その時、俺は思ったんだ。
ああ、『自由』って、こういうことなのかな。
もしも、大きな舞台で演奏する機会が失われたとしても、こんな風に遊ぶように音楽をするのも、楽しいかもしれない、と。
ダイナー侯爵のおかげで今の俺があるのは事実だ。
だけど、我慢して、音楽が苦しくなってまで、ダイナー侯爵の用意する舞台にしがみつく必要があるのかな。
もうすぐ、侯爵との2年の契約期間が終わる。
もういいじゃないか、次で終わりにしてもらおう。
そう心に決めて、俺はダイナー侯爵に申し出た。
でも――――、彼は目を細めて、こう言ったんだ。
「何を言ってるんだい、シュー? 私は舞台を用意して君は私の言うことを聞く。これからもずっとって、君、同意してるよね?」
「・・・・・!」
ああ、まただ。
反論しないといけないのに、ダイナー侯爵の声を聞くと、俺は身体が冷えついてしまう。
「・・・、うん、でも、そうだな。どうしても、もう嫌だっていうなら、君にも機会をあげようか? 次の演奏会の後、私と一晩、一緒に過ごす、というのは、どうだろう? はい、と言ってくれたら、契約期間を見直してあげよう。君が言う『自由』のために。どう? 同意する?」
俺は――――
ここから早く逃げ出したくて
そして自由が欲しくて――
「はい」と言ってしまった。
今回も読んでいただき、ありがとうございます
シューは、大変よくがんばりました
ヒイロとユメが、彼の救いに、ちゃんとなれますように・・・
次話をお楽しみに