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第七章 吹込

スナック〈ちむむちむん〉の引き戸を開けた時、真っ先に迎え出てくるのは煙草の臭いであった。続いて、酒と、調理済みの食べ物の混じった油っぽい空気が肌に触れてくる。

木目調の店内は明るく、スナックという名称の持つ妖しげな雰囲気は、今や面影すら持たない。

カウンターの奥には酒のボトルを押し込むように並べた棚、天井の隅には野球中継を映す薄型液晶テレビと、白い額に入れられた集合写真が設置されている。入り口の脇にビール会社のロゴをあしらった冷蔵ショーケースがあり、その陰ではカラオケ機とマイク、タンバリンが埃避けのカバーを被っていた。

天井に嵌め込まれた白熱灯の柔らかな照明と、それに照らされる柱の熊手や壁の大漁旗、集合写真に写った漁船は、理久に幼少期を想起させる。ここに来る度、亡父を思い出さずに居られなかった。


すぐに、カウンターの中に立つ樹里が声をかけてくる。

「あー、やっと来た! 遅かったねー」

茶色に染めた髪をバレッタでまとめており、白いTシャツに濃紺のエプロン姿という出で立ちは、理久にとっては見慣れた母の姿だ。ただし、家で過ごす時よりも化粧が濃く、青色のアイシャドウと太くなった黒い睫毛は白い肌に浮いている。背後の棚の最上段に手が届くようになる頃、理久は彼女の背を追い抜いていた。

鰻の寝床のような、長細く小じんまりとした店内にはL字型のカウンター席があるばかりで、今夜もすでに五名の男性客が座っている。理久は彼らに会釈もせず、カウンターの端のスイングドアに片足を踏み入れた。

「清掃来てないって靖から連絡あったよー? 何やってるばー」

樹里が歩み寄り、窘めてくる。

直晴の見た通り、工房の従業員は軽トラックに乗ってビーチの清掃に向かっていたらしい。夜になるまで、理久は大城硝子に顔を出していなかった。

「ん」

明確な返答はせず、持って来たビニール袋を差し出す。中には食材と領収書が入っている。


「あれ! 理久くん?」

聞き覚えのある声に呼ばれ、理久はぎょっとした。声のした方を向くと、カウンターに義史がいた。三十代から五十代の常連客に挟まれ、真ん中の席に鎮座している。

「よっしー……さん」

控えめに返した理久の声を、義史を挟んで座った客の会話が掻き消す。

「えー、知り合いねー?」

「相変わらず顔広いなー」

「取材でお世話になってる工房の子です。靖さんの甥って──」

義史が答えると、樹里も驚いて理久を見た。

「まー、そうだったんですか! だー、ご挨拶なさい」

「…………」

急かされ、理久は無言で頭を下げた。

「この子ったら、何にも話さないでー……」

「えっ? て事は、理久くんが?」

目を丸くした義史が二人を交互に指すと、

「はい息子ですー。もー、お恥ずかしい」

樹里は口元を指先で押さえ、困ったように笑いながら答えた。眉根を寄せた眉間と目尻に皺が刻まれる。

理久は妙な居心地の悪さを感じた。母親と一緒にいる所を義史に見られてしまったという、ただそれだけの事に、言い表せない恥ずかしさが込み上げてくる。


「りーくー、飲めるようなったかねー?」

客の一人が言い、一升瓶を持ち上げて見せる。茶色のガラス瓶で、貼られたラベルには揃いの赤い服に身を包んだ男たちが、青い海で爬竜船(はりゅうせん)を漕ぐ様子が描かれている。

モデルである糸満ハーレーは、旧暦五月四日に行われる糸満市の伝統行事で、今月は七、八日に開催されたばかりだ。

カウンターの上には他にも、白いペンで名前の書かれたボトル、大城硝子の職人が製作した琉球ガラスのビアグラス、樹里の手製の料理を盛ったやちむんの皿、もずく酢の小鉢を重ねた塔、そして吸殻を乗せた灰皿が並んでいる。

理久は、ううん、と低い声を出し、首を振った。


「なー、まーだ飲めんのかやー」

一升瓶を下ろして残念そうに言うと、他の客も冷やかすように続ける。

(おさむ)ひゃーも弱かったさー。顔も似てきよった」

「こげ頃はおれの船にもひっちー乗ってきてよー。大人になったら、ぼくも魚とるーって」

「やさ、やさ。いつから大きなったかねー」

当の理久をよそに、昔話が始まってしまう。それを交互に聞きつつ、義史は色付き眼鏡の奥から、ちらちらと視線を飛ばしてきた。


店に来る客のほとんどは、生前の理をよく知る漁師仲間だ。古くは一五○○年代、琉球王朝の時代から糸満(イチマン)地域に移住し、漁猟をして代々暮らしてきた。浜辺の近くに建つスナック〈ちむむちむん〉は、そんな彼らの憩いの場でもあった。

当時のママが樹里に店を譲り、改装を経てから今に至るまで交流が途絶えた事はなく、今でもわざわざ釣果を携えて来て、樹里に調理を頼む日もあるほどだ。

理久もまた、この糸満市で漁師の息子として生まれた。しかし、母方の祖父母の顔は知らない。父方の祖母が他界してから出会った直晴の祖母エツが、理久にとっても〈おばー〉であった。

親子が三代、時には四代に亘って同じ家に住むのが当たり前の社会で、同居には至らずとも、一度も会った事がない、写真さえも見た事がないというのは、少しばかり奇妙な話である。

出身は那覇だという樹里が如何にしてこの場所に流れ着き、理と結ばれるに至ったのか。幼心から触れずにいた事は、今更気にもならなくなっている。


そこへ、また一人の客が合流する。

「おお、シンさんねー!」

入って来たのは大城硝子に勤める比屋根晋一だった。白髪頭を短髪に刈り上げ、首から色褪せたタオルを提げた姿は工房に勤務している時と変わらない。日に焼けた皺くちゃの顔の中で、円らな瞳が目立っていた。

「樹里、生と何か、てーげーで」

晋一はしゃがれ声で注文し、カウンターの一番隅の席に座る。樹里は二つ返事でビールジョッキを取った。


一見関わりのない漁師とガラス職人とを繋ぐのが、この〈ちむむちむん〉である。模合(もあい)の折には、店を貸切にして、席が足りずともパイプ椅子や長椅子を出して深夜から明け方まで集まり、語らうのが恒例だ。


労いの言葉を掛け合う一同の注意が逸れたのを見計らい、理久は店から出る事にした。長居は無用とばかりにスイングドアを閉じ、そっと後退る。

しかしすかさず樹里が呼び止めてきた。

「あいりーくー、裏からビール取ってよー。もうなくなる」

「あー……にりーやっさ」

理久はわざと気怠そうに言い、客席の後ろへ回り込んだ。提供する酒類は、店のバックヤードに保管されている。ビールサーバーに使用する樽やガスボンベも同様だ。

壁に背中をつけ、横歩きで客の背後を通り抜ける。晋一がちらと振り返って見てくるが、工房に出勤しなかった件について、言及はされなかった。

「通れるかー? もう膝の上乗りきれんやさ」

義史の右隣に座った客の一人は、椅子を引きながらからかってきた。理久は返事をしなかった。振る舞い方が分からなくなってしまったのだ。

いつまでも小さな子供のような扱いをしたり、かと思えば年齢を超えた酒の付き合いを求めたりと、漁師仲間は亡き友人の代わりとならんばかりに理久を可愛がるが、最近は理久の方が彼らとの接し方を見失ないつつあった。

義史は左隣の客と話し込んでおり、理久の方をほとんど見ずに席を詰めた。


店の隅の奥まった位置にある暖簾をくぐると、人ひとりが立てる程度の狭い手洗い場があり、向かって左手には便所に繋がる引き戸、反対側にはバックヤードへのスイング扉がある。引き戸の建付けの悪さや、双方を同時に開ける事もままならない土地の狭さが、この店の経営状態を物語るようだった。

スイング扉に触れれば、アルミニウム合板のひんやりとした感触が伝わる。下部に貼られたゴムバンパーは傷み、所々剥がれていたが、それでも開ける拍子に軽く蹴ってしまうのが理久の癖であった。

晋一がグラスを受け取ったらしく、かりー、かりー、あり乾杯、と音頭が聞こえる。


バックヤードの中は蛍光灯を点けても薄暗く、また、寒かった。大きな発泡スチロールの箱が幾重にも積み重なり、青いポリバケツからは生臭さが漂い、床は濡れている。

『よっしー、何ば呑んでるねー?』

『コーヒー割りです。タクシーの運ちゃんに教えてもらってからハマっちゃって』

『はーやー』

談笑が再開したのを扉越しに聞きながら、理久は脇にあった十リットルのビール樽の一つに手を伸ばした。

『観光で行かれる方は、泡盛でもロックかストレートで、注文なさるから。なんでかねー』

『僕も最初はそうでした。結構(さけ)ジョーグーなんですよ。あれ? サ()ジョーグーでしたっけ?』

接客をする樹里の声と、義史の軽妙な話し声が交差するのは、理久にとって非日常的であった。


「いやあ、でもまさか樹里さんに理久くんみたいなお子さんが居るとは……」

義史はタルグラスを置き、しみじみと言った。色付き眼鏡を乗せた鼻筋から目元が、やや赤らんでいる。

「よっしー、結婚ばしてたっけねー?」

客の一人が訊ねた。

「バツイチです。もう三、四年前ですけど」

「へー、子どもは?」

「男の子が一人。可愛いんですよ、写真見ます?」


それを聞いた理久は思わず、持っていた円柱型のケグを取り落とした。島草履を履いた足の上に落下し、爪先が十リットルもの重さの下敷きになる。ステンレス製の角が、左足の甲を直撃した。

「あ、がっ……!」

突き刺さるような痛みに、理久は掠れた声を漏らし、堪らずその場にうずくまった。目に涙が浮かんでくるのを、歯を食い縛って耐える。

痛んでいるのは、足だけではない気がした。

胸の奥にぽっかりと穴があいたようで、それでいてきつく絞られている。その痛みには、義史と知り合った時に覚えたような、甘さや柔らかさは微塵もない。ただただ、若い理久の経験した事のない苦しさであった。


それを、義史が知る由もない。

五歳になる息子がいるが、親権は女親というだけで相手に取られてしまった。養育費は払っているが、あまり会えてはおらず、滞納してしまう男の気持ちも分からなくもない。

そんな事を話し続けている。

『会わせてもらう、って言い方も好きじゃないんですよね……自分の一粒種(ひとつぶだね)なのに』

いつもの明るい彼からは想像もできないような身の上を語る切なげな声を、そして出処不明の痛みを、理久は心の中から閉め出そうとした。


何とか平静を装ってケグを担ぎ上げ、来た道を戻る。客はやや前のめりの体勢になって、理久が通りやすいようにした。

「りくぐぁー、みーかーのこと聞いたかー?」

最も遠い席から、晋一ががなるように訊ねてきた。

「何ね」

理久はぶっきらぼうに応じた。一刻も早く立ち去りたかった。

手前に座っている義史の注目が向けられたのを、視界の端に感じる。家にいる間もこっそりと焦がれたあの眼だ。だが理久は、もうその顔を見られそうになかった。

「あれ、高校辞めたってよー。子ども出来たわけ」

晋一から告げられたその言葉は、理久をますます追い詰めようとした。

美香の顔が浮かび、瞬間的に、彼女の裸とあられもない姿が脳裏を過る。これまで思い出す事すら無かった名を一日に二度も聞かされ、予想だにしなかった現実を告げられ、意思とは無関係に想像してしまっていた。

「……なーしむさ」

引き戸の前まで辿り着き、理久は苛立った調子で返した。よりにもよって義史の前で耳にしなければならない状況も、耐え難かった。


ケグを下ろし、スイングドアを膝で蹴り開け、カウンターの中に押し込む。樹里が中腰になってそれを受け取り、ビールサーバーの近くまで引きずっていく。なかなか重労働である。

「やー、それでも兄分っちゅーか?」

晋一が言った。

そのひと言で、理久は自分の中にあった見えない何かが切れるのを感じた。

腕を振り抜き、傍にあったビールのショーケースを殴り付ける。ドン! と鈍い音がした。

「あびらんけっ! あんやなかーぎー、おれに関係ねーど!? いきがじょーぐーのげれんが!」

抑え切れなくなった感情が、強烈な言葉となって弾けた。当時は自身が傷付けまいと気を回していた存在すら否定し、罵倒してしまっていた。


あまりの剣幕に、場がしんと静まり返る。晋一との会話を聞いていなかったはずの面々も、口を噤んで理久を見ていた。

理久はひとつ大きく息を吸い、

「……帰る」

と短く告げて踵を返した。とてもその場に居られる状態ではなかった。

「あい、靖が寝とるから、起こさんでね」

樹里の戸惑いがちな声が追ってくるが、

「…………」

理久は返事はおろか振り向きもせず外に出ると、後ろ手にぴしゃりと戸を閉めた。


「……りーくー、いーてるなー?」

客の一人が口を開いた。未成年の彼が飲酒などしていないのは一目瞭然だったが、酒乱さながらの怒りぶりであった。

「最近あーでねー。なーに考えるだかさっぱり」

背中を見送った樹里は思わず溜息混じりにこぼしてしまった。

同じく戸口の方を見ていた義史が、見かねて声を掛ける。

「んーでも、男ってそんなもんですよ。十七歳でアンマーにべったりっていうのも、ねえ?」

身に覚えがあると言いたげに左右を見回せば、他の男性客らも、やさ、やさ、と同調する。

店の外から、原付が荒っぽく走り去るのが聞こえた。道の都合上、二輪車では付近の区画をぐるりと回らねばならない。威嚇するようなエンジン音が遠ざかっていく。

「いーてたらあげ歩けんさー」

客の一人が茶化し、笑いを誘った。ゴーヤーチャンプルーを口に入れた義史も箸を置き、声を立てる代わりに手を叩いて笑う。

しかし、紅一点の樹里は、まだ腑に落ちない様子で首を傾げている。

それに気付いた義史は笑みを引っ込め、口元を拳で隠し、咀嚼していた分を飲み込んだ。グラスに残っていた泡盛のコーヒー割りを流し込む。

空いたグラスを置いたコトンと軽い音に、樹里が反応して視線を向けた。


「でも、お母さんのお手伝いもしてるし、良い息子さんじゃないですか? 僕が十代の頃なんてやばかったですよ、もう、お酒ないと話せないくらい」

両手を広げて笑いを誘う。

察した樹里は少しだけ表情を和らげ、注文を受けようと歩み寄ってきた。

「あい、じゃ、何ばされますか?」

「同じので」

端的に答え、グラスを手渡そうとした。外側に結露した水分がぽたぽたと垂れる。

樹里が調理場から手を伸ばした拍子に、義史はカウンターの上に肘を突き、少しだけ身を乗り出した。

「……ここだけの話、僕には色々話してくれましたよ。大丈夫。しっかりした子です」

自信を持って言い、にこっと口角を持ち上げて見せる。すると、樹里もようやく安心した様子で表情を綻ばせる。眉の力が抜け、目元が煌めく。


義史は何事も無かったかのように椅子に座り直し、何かを思い出したように提案する。

「あっ、そうだ。理久くんのインタビュー記事、できたら送りますよ」

「えー! りーくーも雑誌乗るんねー?」

「額入れて、ここ飾っとくさー!」

それを受け、客らはすぐにまた盛り上がった。

どれほど成長し、時には無愛想になろうと、理久への深い愛情は態度に溢れてしまう。可愛くて仕方がないのは、生まれたばかりの頃から知っているからだ。彼らの中で、友人が遺した一粒種は、今もまだ小さな少年のままでいる。

「メインは靖さんと大城硝子さんですけど。ねえ、シンさん?」

義史は椅子の上で背中を反らせ、二つ離れた席の晋一にも同意を求める。

「靖もえらなったさーやー」

晋一はそう言い、小皿に盛られたニンジンシリシリを箸で摘んだ。理久の言葉や態度の変化を見てからも取り乱す様子もない態度には、年輩者の威厳があった。


午後六時に開始した野球中継では、八回表、ビジターチームが四得点を放り込んでいる。試合は一対五となり、店内は先程までの活気を取り戻して盛り上がった。

そんな中、義史は樹里に向き直り、カウンターの上で指を組んだ。

「理久くんのお母さんなら、樹里さんにも一冊プレゼントしますよ。特別に」

「まー、いいんですか?」

いつの間にか、彼女は調理する手も止め、義史の真正面に来ていた。

「お安い御用です。東京土産も入れたりして」

義史はにこやかに言った後、樹里に名刺を手渡した。

「五加出版の貝原から届くようにします。僕が内地に戻っても、忘れないでくださいね」

やや上目遣いになり、樹里を見つめる。悪戯っぽい表情だが、真摯さを忘れない意思の強い眼だった。


「よっしー太っ腹やさー」

隣に座っていた客がそれを聞きつけ、冷やかしたが、他意を感じさせない表情で手を振る。

「いえいえ、理久くんが東京に憧れてるらしいので。遊びに来てくれたら観光案内しますよ」

「えー、あれそんな一言も……すみません」

樹里がますます驚き、恐縮して詫びた。しかし義史はそれも快く宥める。

「知らない世界を冒険したいってのは男の子の夢ですから。五歳も、十歳も、十七歳も一緒ですよ」


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