第六章 下玉
「シン爺のトラックが浜の方に歩くの見たばーて」
直晴が、台所から冷たいさんぴん茶とコップを持ってくる。
喜屋武家は、伝統的な沖縄建築の民家に、現代的な補強と改装を施した造りとなっていた。母屋と離れ、庭のある敷地は、石灰石や珊瑚を積んだ石垣に囲まれている。漆喰止めの赤瓦屋根の上に、二体の小さなシーサーが座っている光景も、今では珍しくなった。
その下の縁側に座った理久が部屋を振り返る。午後三時を過ぎて太陽は下がり、強い日射しの陰になったそこは、少しだけ涼しかった。
「ちゅーや、いつもの廃瓶集めてると思ったからに。あと浜の清掃。ガラス拾いとか」
突然訪ねてきた幼馴染の様子を察し、直晴は高校の制服も脱がずに応対していた。
「うり」
「…………」
冷たい茶の入ったコップを差し出され、理久は何も言わず受け取る。家を訪れてから、まだほとんど言葉を発していない。屋根の上のシーサーのように阿吽の呼吸で迎え入れる直晴を、ただ頼って来ていた。
直晴が隣に来て、立ったまま顔を覗き込もうとする。
「行きたくなかった? さぼりあんに?」
聞かれ、理久は無言で頷く。縁側の下には、島草履とローファーが並んでいる。
「あー、俺も自練行きたくねーなー」
直晴はのんびりと独り言のようにぼやいてから、半袖シャツを脱ぎ始めた。スラックスもベルトを通したまま脱ぎ、長押に掛けてあったハンガーを取る。いつもそうしているらしく、手馴れた動作だ。
理久はそれを視界の端に据えてみるが、彼の体には特に何を感じる事もなかった。さんぴん茶を飲み干してコップを置き、ようやっと、切り出す。
「……男の人、好きなったさーやー」
呟くような声にしかならなかったが、直晴は制服を提げたハンガーを掛け直し、そこで手を止めた。シャツの裏側から覗き込むように聞き返してくる。
「誰がよ?」
「僕」
「まさかやー」
「じゅんによー。こげ言わんってば」
「はーやー。なんでだろーね」
そこで、会話は一度途切れた。
直晴は多少なりとも驚き、やはりすぐには真に受けなかった。だが、嫌悪や忌避といった反応でもなかった。
二人は小学校以来、互いに一番長い付き合いになる。全校生徒を合わせて七十人に満たない、小規模の学校で六年間を共にした。番地による出席番号が近く、成長の程度も同じくらいだった二人が毎日一緒に登下校するようになったのは、必然だったと言える。
両親は那覇市の観光業に従事し、家を空ける事も多く、直晴は〈おばー〉と呼ぶ祖母のエツと二人で過ごす時間が長い子供だった。そこへ、理久が加わる形になった。
同じ中学校に進学し、出席番号は五十音順となったが、大城理久と喜屋武直晴の間には一人も入らなかった。部活動が違えた事で登下校の時間が合わなくなっても、家と家の距離は変わらない。エツが作る夕食は、実の孫の直晴だけでなく理久にとっても馴染みの味である。
琉球語によるスピーチコンテストでも、二人は彼女に協力をあおいだ。文化祭の運営委員となった理久が直晴をミスター・ミスコンテストに出場させると伝えた際には、大層喜んで写真を強請ったものだ。
それまで兄弟のように育った理久と、進路を分かつと決まった時、直晴は何も言わなかった。同級生には理久以外にも高校進学をしない者は一定数おり、珍しくも感じなかったのだろう。
理久が大城硝子の見習いとなってからは、学生の頃のような頻度で会う事は叶わなくなった。だがその間を縫って、工房と高校での出来事を話し合っている。中退も珍しくない中、高校三年生になった直晴は、本州の大学への進学を希望している。
ランニングシャツも脱ぎ捨て、下着一枚になった直晴は理久の隣に腰を下ろした。首や腕は、半袖シャツの形に日焼けしている。理久は陸上部を、直晴は柔道部をそれぞれ経験したにも関わらず、二人の背格好は今でもよく似ていた。
「昨日や、店休み当番だから工房行ったわけ」
おもむろに、理久が話し始める。
「にーにと二人っきりって知らなくて。しにあふぁーだった」
「ゆーと?」
「ゆーとじゃねー。ゆーすけにーに」
大城硝子の関係者ではなくても廃瓶回収などの業務を知っており、晋一や祐介とも面識がある。それほど、狭いコミュニティである。直晴が玉城裕介の名を間違えて〈ゆーと〉と呼ぶのも、それを訂正するのも、理久にとっては自然な事だった。
「あいえなー……」
直晴が信じられないと言いたげに声を漏らす。それが何から来るのか、理久にはすぐに分かる。
「好きなのはゆーすけにーにじゃねーから!」
「そーなの? 他のにーに? 皆結婚してるさ」
「東京から来なさったって。雑誌の取材の人」
「えー、何才よ?」
そう聞かれ、理久は言葉に詰まった。相手が男性というだけでなく、大きく年齢が離れている点も、感心されるものではない気がしたのだ。無意識のうちに、膝を抱えていた。
「……おじさんの半分て言われた」
「半分かー」
直晴はさほど驚いた様子もなく復唱し、後ろ手に手を突いて空を見上げた。んー、と声を漏らし、下唇を突き出すのが、考え事をしている時の彼の癖である。
「今どきそれくらい普通のはず」
「だからよー」
そう返事をしたものの、理久自身はまだ、経験した事のない感情に戸惑い、その事実を受け入れかねていた。
シャワシャワシャワ、とクマゼミの鳴き声がする。直晴の能天気な調子がそれに乗ってくる。
「何悩んでるばー?」
「……いろいろ」
「いみよー。みーかーには言えねーって?」
久しく聞いていなかった名に、理久の背筋が自然と伸びる。膝に乗せていた顔を上げた。
「何でみーかー?」
砂川美香とは、理久と直晴の通っていた中学校の一学年後輩で、理久に〈兄分〉になるよう申し込んできた女子生徒であった。上級生が気に入った下級生に申し込む姉妹制度から派生し、異性間でも契りを交わす場合がある。その一環だった。
「好いとったばーて」
当然のように直晴に言われ、理久は苦笑いを浮かべた。
大城理久は、学内において取り立てて目立つ生徒ではなかったが、美香がどのように彼に興味を持ったのかは、彼女からの手紙に記されていた。陸上部に所属していた理久の走る姿に魅了されたのだと。
彼女から受け取った手紙を読む理久を、同級生の男子生徒は茶化した。姉妹のようにこまめに文通をしたり、休日に出かけるといった事はしなかったが、理久は手紙の礼に駄菓子やジュースを渡した。そうしながら、同級生らが放つ〈やなかーぎー〉という言葉だけは、彼女の耳に入らないようにと配慮していた。
美香はそんな兄分の存在を自慢げに周囲に吹聴し、陸上部の大会の際は応援にも駆け付けた。
「振ったの三年前の話さー。ちゃー忘れてた」
卒業を機に兄分と妹分の関係を解消する際、理久は彼女から想いを告げられた。そして、特別視こそすれ、そこに特別な感情は伴っておらず、卒業後の交際は考えられないと伝えたのだ。
「今、みーかーの気持ち分かるかや?」
いつの間にか、直晴は縁側に背中をつけ、仰向けになっていた。
美香との間にあった事を、理久が他言したのでは勿論ない。だが、どういうわけか直晴の耳には届いていた。
「だーるさ、まさか僕の方がいきがしーじゃ好きになるなんて……」
答えた理久は、急激に不安が襲ってくるのを感じた。かつての美香と今の自分が重なり、悲壮な結末までもが付いてくるように思えたのだ。
美香は泣いていた。気を持たせるような振る舞いをしたと理久を責め、困らせた。以来、連絡を取る事もなくなり、相手の記憶からは名前を聞くまで存在しなかったとして扱われる。そう思うと、苦笑いさえできなくなってしまう。
「……ちゃーすがや」
小さくこぼすと、どん、という衝撃と鈍痛が二の腕に走った。
「あがっ!」
理久は思わず声を上げた。膝を抱えた体勢を崩すほどの力だった。
驚いて見返すと、目の前に直晴の裸足があった。扁平足気味で、所々に擦り痕があり、白っぽく表皮がめくれている。その足で蹴りつけて来たのだった。
「情けねー顔さんけ。死なすよや」
片膝を曲げた体勢のまま直晴が声を低めて言った。彼なりの励ましだったのである。
理久は肘を突いて体勢を立て直すと、いきなりその足首をひっ掴んだ。思いきり引き寄せ、片手で足の裏をくすぐる。
「やー! りーくー!」
途端に直晴は笑い出し、身をよじった。のたうち回って抵抗されるが、理久は無言でくすぐりを続けた。相手を油断させた所で更なる反撃に出る。
直晴の右足首を自分の左腋の下に挟み、脚に一度跨るようにして乗り越えた。そのまま居間の方へごろりと転がり込む。そして、両手で足首を、両脚で膝を挟んで固定し、直晴を押さえ付けた。
「あがー! ニーバーは禁止ど! でーじ反則ど!」
直晴が大声を上げ、止めさせようとする。理久の繰り出した膝十字固めは、柔道においては禁止とされている技だ。だが理久はますます体を反らせ、固めた膝を股と腕で引っ張り合いながら言い返した。
「プロレスやっさ!」
「はごーだなー! くにひゃー!」
大声と共に、バンバンバンと縁側を叩くのが聞こえる。
理久は木造の天井を見上げ、思わず笑っていた。あれほどまでに悩んでいたのが、嘘のようにすら思えてくる。頭で考えるよりも、どんな形であれ体を動かしているほうが心地良かった。
泣き笑いの表情でそうしていた直晴だったが、突然、何かに気付いたようにぴたりと動きを止めると、離れの方へ顔を向けた。
「えー! 何ねー?」
大声で聞き返す声が家屋に響く。理久もすぐに力を緩め、直晴を解放した。
そうすると、鈴の音がかすかに聞こえているのが、理久の耳にも届いた。縁側で繋がった離れの方からで、部屋の中は見えない。
直晴はすぐにうつ伏せになると、床に両手を突き、ぴょんと飛び跳ねるようにして立ち上がった。
「おばーの様子見に行こーね。あれ今〈まぶいぬぎ〉やっさ」
理久が何か答えるのも待たず、一度家の奥へ引っ込み、すぐにTシャツを持って現れる。
「でーじだな」
理久も起き上がって声を掛けた。
「店やってるよりましさー」
Tシャツに頭と腕を通し、せかせかと歩いていく。
残った理久は胡座をかいて、居間の壁に掛けられた時計を見た。樹里が店を開けるまでには、まだ時間があった。