青い硝子と朱い柿
青い硝子を持って行きなさいな、ほら、あの水屋の奥にある。
あの人は私にそう言った。そう言うあの人の顔こそ青白く透き通っていて、幽玄だった。あの人はいつも浴衣で床から起き上がり、冬は半纏を着込んでいた。時折、咳き込むから、そんな時は私が背中を摩ってやった。
朱い柿……
食べたいのですか? 今時分、どこにもありませんよ。
粉雪のちらつく冬だった。言った私の顔を、あの人はじいと見て、もの知らぬ童にするように笑いかけた。なぜだか胸がぎゅうっと締め付けられた。私があの人の言葉の意味を理解するには、まだ今しばらくの時を要した。あの人の白い首筋を、頬を、唇を見ながら、このまま時が止まれば良いのにと思った。そんな私の想いを、あの人は知っていたのだろうか。後れ毛に手を遣りながら、冬薔薇の唇が弧を描いた。
お勉強は進んでいるの?
卒業論文なら中間発表を終えたところです。
そう。私は偉い学士様のことはよく解らないから。
中間発表がどういうものか、あの人は知らぬ風情だった。そしてそのことを、露ほども恥じてはいない強い目をしていた。白い部分が青みがかって、澄んだ綺麗な目は、学問などという矮小な枠に収まらず、世というものを私より余程に知っているのだと思われた。
ねえ。私はね、あの青い硝子の器がいっとう、気に入っているの。だからあなたが貰いなさい、ね、約束。
……………………。
あの人が白くて細い煙になって昇っていったのは、翌年の秋のことだった。私は彼女との約束を守った。青い硝子の器は、今は私のものだ。
そして――――あの人がよく眺めていた縁側からの景色には、朱くたわわに実り熟した柿があった。
だから、私はあの人の言葉の意味を理解した。私は庭に降りて柿を一つ、もいだ。口に含む。甘いと認めることを、私は拒んだ。これは渋柿なのだ。渋柿だから、私は今、その渋さに頬を濡らしているのだ。雫を落としているのだ。
愛する人が、逝ってしまって、泣いている訳では決してない。
<了>