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川は幅が広く対岸までは渡れそうもない。陽の光に反射して水面が輝いているが、その光を覆い隠すように羽虫が浮いていた。透き通った緑色の羽が再び空を舞おうと懸命に動いている。しかし、一度水に羽を濡らしたが最後、再び空中に浮かび上がる虫は一匹たりとも居なかった。やがて力尽きたように動きを止める羽虫の様はある種の神秘を感じさせる。
俺は酷く喉が渇いていた。微かな羽音が鼓膜を震わせる。
飲むしか無いのか、これを……。
死に損ないの羽虫がパタパタと羽を動かすのは気色悪い。俺が水を飲めないのはコイツらのせいだと思うと、苛立ちもする。
水際にしゃがみ込み、じっと羽虫を見ていた。心無しか、俺がいる範囲だけ羽虫の動きが弱まっていく気がした。
「飲んじゃ駄目ッ!!」
大声にビクッと肩を震わせて、俺は振り返った。そこには暗色のポンチョに身を包んだ少女がいた。
「何やってんの!?こんな汚水飲むなんて、どうかしてるよッ」
俺は少しホッとしながらも少女の剣幕に、え、とか、あ、とか呟いた。その様子を見て少女は途端に眉を寄せて、困惑した顔をする。
「お姉ちゃん、どうしたの?血だらけじゃない」
俺は今更ながらに呆然とした。彼女は言葉を話していた。日本語を話していたと気づいたからだ。
「なんで、え?そんなことより、日本語…」
彼女の髪色は金であり、その瞳もまた金であった。にしては、流暢な日本語だ。日本語習得は難しいと言われているが、この少女は日本産まれなのだろうか。
彼女は微かに眉を寄せていた。怪訝な顔をしていた。
「ニホンゴ…?聞いた事が無い…新しい言語…早い」
「は?今なんて」
「ううん、何でもない!兎に角、喉乾いてるなら、ホラ」
ぽちゃ、と揺れる皮袋を目の前に出される。水だよ、と少女は皮袋の口を締める革紐解いて、俺に渡した。皮袋のせいか、水は少しゴムのような変な味がしたが、全てを飲み干した。
「…あ、ごめん、全部飲んで良かった?…えっと」
「大丈夫、いい飲みっぷりだね。私、アシュリィ。お姉ちゃんは?」
「俺は慈…あ、わたし」
お姉ちゃん、と呼ばれて途端に自分の見かけは女なのだと言うことに気づいた。
俺、じゃなくて私か。
「イツク?変な名前ね。あ、別に馬鹿にしてるんじゃ無いんだけど、この辺じゃ聞かないから」
「問題ある?」
「いや、マシだと思う。お姉ちゃんは、この国の人じゃ無いのかな?旅人さん?にしてはボロボロだね…」
「いや、アシュリィ…ちゃん?日本語話せるのにそれは無いだろ」
少女は日本語を喋っているのに、日本を知らない素振りを見せている。
「ああ、私の聖刻だよ。聖刻は知ってる?魂に刻まれる聖なる印。偉大なる神からの贈り物って奴」
「聖刻…?才能みたいな物?」
「そういう認識でいいよ。実際気づかない人もいるし、聖刻の発芽の自覚は稀だしね」
アシュリィちゃんは俺の方を見て自慢気に言った。
「私の聖刻は通訳。誰がどんな言葉で話そうと意味が分かる。凄いでしょ?」
「……」
どうせなら、何もかも喋ってしまったらどうだろうか。自分が男であり、気づいたらここに女の体になって居たと。
——ソレデ、人ヲ殺シタッテ?
…もし、俺が彼女だったらどうだろう。知らない年上の女が実は男なのだと言い出す。良くてトランスジェンダーと勘違い、悪くて気狂い扱いだろう。
家も無い、年齢も名前も分からず、家族も友人も知り合いも連絡が取れず、戸籍があるかも不明な、意味不明な言動をする人間と関わりたいだろうか?
スマホがあれば…いや持っていたとしても森の中じゃ圏外だろうか。
「で、貴方の住む国は日本っていうの?」
「そうだ」
「最近できた国なの?」
「いや…結構前からある国だと思うけど、国名は違うかも知れない」
日本の義務教育でも主要な国は覚えるものだが、流石に国名を全部覚えている生徒なんていない。日本という国名を出してよかったものか迷うが、少なくとも彼女ではあるか無いかが分からないだろう。
「覚えが無い…」
「え?」
「いや、お姉ちゃんはどうするの?これから」
「行く当てがないんだ…どうしたらいいか分からない」
「…ひとまず手当しないと。放っていたら蟲が寄ってくるよ」
アシュリィは痛々しげにこちらを見た。
「私が住んでいる村に行こう」
読んでくださりありがとうございました。