8 彼女に会いに行こう
ピンコン。
音がして、俺は光るスマホの画面を見た。
今日はやめた。会える。どする?
ポップに表示された内容を眺めながら、どう答えようか一瞬悩んだ。
おそらく就活とかいろいろあった予定を全キャンセルして、会わないか?という彼女からの誘いだろう。疲れたんだな、と頑張っていた彼女のことを思いやる。
相変わらず無機質かつ簡潔なメールから、彼女の悲鳴が聞こえた気がした。できれば会いたい。会って、笑って話して、俺が慰められるなら、慰めたい。
そう想う程度には彼女のことが好きだから。
意を決して俺は逸朗に声をかけた。
「ねぇ、俺、ちょっと彼女に会ってくる」
俺の食事の用意をしていた逸朗はアイランドキッチンから目を上げ、眉を顰めた。
そしてはぁ、と大きくため息を吐く。
「ダメだ、と言ったら?」
眉を上げて、阿る。
「行くよ」
常には厳しい眉が大きく下がり、俺はこの人表情筋は眉に集約されているのかな、なんてどうでもいいことを考えた。
「…嫌だ」
絞り出すような、呻き声にも似た声音。
「困る、な」
肩を落として俺が呟いた。付き合っているわけではない、彼の気持ちに応えたわけでもない、真っ直ぐに気持ちをぶつけられ、戸惑いながらも現状を受け入れているだけでも俺としては最大限譲っている気もしている。
一緒に住む、の一言で何も持たずに拉致されて、俺はいまここにいるわけだ。
そこに俺の気持ちや意見はまったく考慮されていなかった。
なのに、俺は縮んだように見えるほどしょげ返っている逸朗に対して罪悪感と、ちょっぴりの優越感を感じている。
「わかった。行ってくるといい」
少し言葉を切って、逡巡したあと、伺うように俺にちらりと視線をよこしてからすぐに手元へと落とす。
「……帰ってきてくれるだろう?」
なんて可愛いんだろう、瞬間、俺は歓喜を覚えた。
まつ毛に縁どられた瞳には影が落ち、引き結んだ唇は細かく震えている。耳にかけた髪がさらりと頬へとかかり、それを邪魔そうに、顔を振って散らしている逸朗を見て、この上なく美しいものを独占できるのではないかという期待に、俺の胸が躍った。
思いがけず浮かんできた感情を無理やりに抑え込んで、俺はちゃんと帰るから、と呟いてから逸朗のマンションを飛び出した。
地下鉄に揺られながら、俺は彼女にメールを返す。
1時間後、俺の部屋で。
実際、鍵もかけず、窓も開けっぱなしの俺の部屋だ。
どこで生活するにも、一度は戻らなければならない。
りょ。
たったそれだけが返されて、あまりのらしさに俺はくすりと笑った。
なんだか久しぶりに自分を取り戻したような、いままでが夢だったかのような、妙な開放感を味わっていた。
大輔の食事の用意を途中にして、逸朗はチーズと生ハムを出して、ワイン片手にソファに深く沈んでいた。相手が大輔でなければ、こんな暴挙は絶対にさせない。有無も言わせず伴侶として、己を刻み付け、なにものをも近付けることはない。
それほどまでにヴァンパイアの独占欲は他の追随を許さないくらい深く熱い。
なのに、逸朗は大輔にはそれが出来なかった。
男だからではない。
嫌われたくないからだ。
拒否されることがなによりも恐ろしい。
何十万もの軍を相手に独りで戦っていた時も、人を処すことになんの躊躇いものない王を相手に意見を述べる時も、一族の中から出た裏切り者を処刑するときも、己の血を欲するものをこの世から消すために散り散りに蹴散らした時も、感情は微動だにしなかった。
冷徹に、見下し、そして処理してきた。
なのに……
「あの程度のものに、これほどの恐怖を感じるとは、な」
グラスを傾け、ワインをあおる。
あれの前の伴侶にはこの気持ちはなかった、と逸朗は思った。伴侶となり得なかったが、会った瞬間からお互いが互いの魂を求め合ったのを感じたからだ。
最後に会ったのは彼女が女王の暗殺に関わった罪のために投獄された搭の中。
鉄格子越しに手が触れ合い、初めてお互いの気持ちを吐露した。
その翌日、彼女は気高く逝った。
助けようと思えば助けられたのに、逸朗は助けなかった。彼女がそれを求めなかったからだ。
「あなたが常ならざるものとして、いつまでもあるならば、きっとわたくしはなんの障害もなくもう一度あなたを求めるときを待つでしょう。あなたと並び立つ、そのときを願って、今はわたくしの生涯を終えたいと思います」
静かに微笑んで、彼女は逸朗との来世を願った。
そして逸朗はそれを受け入れた。
ただ黙って頷くことで。
その魂が今、目の前にあるのに、その器は逸朗を求めてはくれない。
障害がないのに、求めてはもらえない。
それでも愛することを諦めることもできない。失うことすら考えられない。
奥底からふつふつと湧き上がる恋情にすでに身を燃やし尽くされそうになりながら、逸朗は大輔の中の魂をそれ以上の欲情をもって求めている。
「情けないな…」
苦笑を漏らしつつ、逸朗は小さく息を吐くことしかできなかった。