57 ミーナはお風呂に入りたい
屋敷の中には本当に人がいなかった。
見事脱出成功した俺たちはすぐにでも屋敷から出るべきなのに、ミーナの
「お風呂に入る。それからキッチンに絶対にあるはずだから、血の入ったワインを持ってきて。エックハルトの匂いがするから、絶対に置いてあるはず。探してきてね。とにかくこの身体に耐えられないの」
という長い一言で、ダンカンは俺を放って彼女の要望を叶えるために奔走していった。
俺はもともと俺がいたと思われる、あの天蓋付きベッドのある部屋でミーナが風呂から上がるまでの間の護衛をしている。
俺の護衛がどの程度役に立つのかはわからないが、一応は手にサスペンスとかでしか見ないブロンズ像を持っておいた。
人を殴れば死ぬかもしれないが、ヴァンパイア相手なら気を逸らす程度には役立つはずだ。もっとも魔術師相手なら、どうなるのか、実際に魔術を掛けているところを見ていないので、まったく予想もつかないのだが…
「気持ちよかったぁ!」
両手を挙げて気持ち良さそうに伸びをしながら出てきた彼女を見て、やはりヴァンパイアなんだ、と俺は嘆息した。
一言でいえばカラフル。
光を放つような華麗な姿だ。
捩じれて固まっていた髪はさらさらと流れるオレンジの糸のよう。艶やかに輝く、目の前の人を圧倒する赤毛だった。
深海の中で揺蕩うような碧い瞳は同じ赤毛のまつ毛で彩られ、小さな鼻が小作りな彼女の魅力を遺憾なく押し上げている。
咲き誇るカーネーションのような唇はぽってりと厚く、触れたらどれほど気持ちいいだろうとあらぬことを連想させるほどの色気を発していた。
頭がくらりと揺れた気がする。
こんなところを逸朗が見たら大変だな、と思いつつも俺は彼女の美しさから眼が離せなかった。ダンカンが腰砕けになるのも仕方のない美貌が確かにあった。
適当にあったワンピースを着ているだけなのに、ぐっと押し上げる胸と細く縊れた腰が艶めかしく揺れながら目の前を通ったとき、ほんの一瞬だけど、このまま押し倒してやろうかと邪な思考が頭を過った。
耀く赤毛に指を絡め、あの柔らかそうな胸に顔を埋め、折れそうな腰を抱き寄せ、温かそうな腿に自分の足を挟み込ませたら、どれほどの愉悦だろう……
妄想して、俺は強く否定する。
ヴァンパイアだから温かくはないぞ!
そこじゃないところにツッコみながら、それでも彼女から視線を外せない俺の頭上から声が降ってきた。
「厭らしい眼で見ないでくださいよ。ウィリアム様に言いつけるっすよ」
片手にワインボトルとワイングラスを持ったダンカンが鋭く俺を睨みつけていた。
「やめてよ、それ、俺じゃなくミーナが危ないからね!」
驚きつつも小声で応戦する。
「ミーナって呼び捨てっすか?不愉快っすね!」
「だって下手にちゃんとか付けたらそのほうが彼女に危害が加わるよ?」
逸朗の溺愛ぶりを充分に堪能している俺たちは、お互い納得したように頷き合って、事を収めた。
「遅い!ダンカン!!早くちょうだい!!!」
戻ってきたダンカンを眼にしたミーナが寄越せと掌をひらひらとさせた。すぐにダンカンが腰をくねくねしつつ、彼女のもとへと走っていく。
「ごめんねぇ、ついでだから偵察もしてきたんだよぉ」
すり寄り、甘い猫なで声をあげているダンカンを見ながら、俺は同じ男として哀しくなった。
ミーナは差し出されたワインボトルに直接口を付けて、豪快に喉に流し込んだ。
実に旨そうにごくりごくりと喉が上下して、ダンカンでなくてもうっとりと見入ってしまう。
ぷはぁ、と息を吐くと、無造作に親指の腹で唇を拭った。
女性らしさの欠片もない仕草がとても彼女の雰囲気に合っていて魅惑的だった。
「んで、偵察の具合は?」
血の効果なのか、内側から光り輝くように力が身体全体に行き渡る様子が見て取れて、俺はホッと安堵した。
これでもう一人、貴重な味方を手に入れたのだから。
それでもエックハルトとやり合うにはかなりの不安があるのだけど、俺さえ庇われずに身を守ることができれば、逃げるくらいはなんとかなるような気がした。
「魔術師がたくさんいてねぇ、仕方ないから何人かやってきちゃったぁ、それでねぇ、ヴァンパイアはいなくてねぇ、今は玄関のほうで人が集まって抗議しててねぇ、そっちにヴィクトーとエックハルトがいたんだよぉ」
途中、なんかおかしな報告が混じっていた気がしたが、ミーナは気にすることもなく、よし、と力強く頷いた。
「血入りのワインもなくってねぇ、仕方ないからやっちゃった魔術師のを貰って入れたんだよぉ、作ったんだよぉ、それぇ」
やっぱりおかしな報告が続けられる。
ちらりと手にしたワインボトルに眼をやった彼女はにかっと笑うと、どうりで新鮮な味だなって思ったんだ、と呟いた。
そしてえらいえらい、とダンカンの頭を乱暴に撫でた。
撃沈。
ダンカン、床に沈みました……
へにょへにょに崩れた彼を哀し気に眺める俺にミーナが
「あなたがいるんだからウィリアム様が来るわね。じゃ、それまで優雅に捕虜生活を楽しみましょうか!」
と笑いかけてきた。
「そう暢気なことも言ってられないんですよ」
ミーナに返した言葉にダンカンが射殺すように俺を睨む。
彼女との楽しい時間を奪うな、と言いたいのだろうか。
「俺、エックハルトに狙われてて、ここでおとなしく王子様の助けを待つわけにはいかないですよね」
「狙われてるって、なにを?身体?心?」
あいつ、男が趣味とは知らなかったな、と続けたミーナに首を振って否定した。
「血、ですよ。俺の血」
「え?ウィリアム様の伴侶だって当然知ってるでしょ?あぁ、なるほど、あなたを奪って吠え面かかせてやるっていう感じなわけ」
昔からやたらと張り合ってたもんね、とひとり合点するミーナにもう一度否定の意味を込めて首を振ってみせる。
「俺の血は貴重らしくって、エックハルト的に飲みたいもんらしいです。逸朗よりも上に立ちたいって気持ちは半端なくあるみたいですけどね」
「逸朗?」
「ウィリアム様はいま日本でその名前なんだよぉ」
床にへしゃげたままのダンカンがミーナのおみ足に纏わりつきながら説明する。
邪魔だったらしく、わりと乱暴に蹴り上げられ、おぐっと呻き声を漏らしたが、懲りないダンカンはまた彼女にすり寄っていく。
俺の護衛は?
心の声が盛大に俺の中で鳴り響く。
「じゃ、ゆっくり人質ライフ満喫万歳は計画できないわね」
ふむ、と顎に指をあててミーナは考え込んだ。
そんな姿も可愛らしく、思わずふふふ、と笑みが漏れた。




