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44 エックハルト、魔術師に会う

家具のない部屋の中央に黒のローブを羽織った男が片膝をついて床に一心不乱に魔法陣を書いている。複雑なそれはふたつあり、鏡で映したように対称となっていた。

緻密で繊細なそれはとても美しく、描いている本人ですら思わず感嘆のため息が漏れた。


窓からの陽が燦燦と降り注ぐ室内は昼間の暑さが過ぎた時間ではあったが、額に汗を掻くほどには熱気が籠り、息苦しさを感じる。

無我夢中な男はその暑さにも流れる汗にも構うことなく、休まず指を動かし続けていた。


「ヴィクトー様、連れてまいりました」


部屋の中央に描かれたふたつの魔法陣以外、何もない室内に濃紺のローブを着た男が、山羊を連れた男を伴って入ってきた。ヴィクトーと呼ばれた男は描き終わったらしい魔法陣をじっくりと眺めていたが、ふいに山羊を連れた男に視線をやった。


「そちらの上に」


耳障りの悪い機械音のような声音で指示を出すと、山羊を連れた男が小さく頷き、指さされたほうの魔法陣の上に山羊をのせた。

それを確認してから、ヴィクトーは残りの魔法陣へと足を運び、自分自身も魔法陣のなかへと身を置いた。


山羊を連れて来た男が出ていくのを確認したあと、両掌を合わせて口元に持っていったヴィクトーはほとんど聞き取れないほどの小声で呪文を唱え始めた。

床に描かれた魔法陣が一瞬、揺れたようにみえ、それからゆっくりと回り始める。

山羊が魔法陣の上から出られないのか、その中でぐるぐると落ち着かない素振りで動いている。ときおり上げる鳴き声がとても切なく響き、壁へと吸い込まれていった。

すると足元から風が舞い上がり、ヴィクトーのローブを跳ね上げた。

現れた顔は掠れた声に似つかわしい老いたものだったが、魔法陣が微かな光を放ち始めると肌に張りが戻り、刻まれていた皺が消え失せ、艶のなかった髪がさらさらと光を放ってローブとともに風に舞い始めた。

うっすらと開いた瞳は霞がかったようにぼんやりと菫色に煌めいていた。

その姿は禍々しくもあり、神々しくもあり、傍で見ていた濃紺のローブの男は思わず息をのんだ。


ヴィクトーを包む風がおさまり、魔法陣が回転を止めると、途端に山羊が倒れた。

全身から生命力を奪われたかのように、山羊は骨と皮だけを残した姿で息絶えている。


それを冷ややかに見遣ったヴィクトーは片付けるように男に言うと、ポケットから小さな鏡を出して、己の顔を確認した。


そこには紫に近い青い瞳を輝かせた、美しく魅力的な青年が映っている。

見事な金髪は艶やかに彼の顔を縁どり、薔薇のように咲き誇る唇が見るものを魅了するかの如く弧を描いていた。

髪と同じ色のまつ毛が眼に影を落とし、それがまたヴィクトーの表情に蠱惑的な陰影を作り出していた。


幾分満足げに頷いてから、鏡をしまったヴィクトーは足取りも軽く部屋を出る。


「山羊一頭で2週間ってとこか…」


呟く声までが艶やかに潤い、耳にしたものを虜にするだけの力を持つかのようだった。

傍でその儀式を見つめていた濃紺のローブを羽織った男が軽く袖を巻くって時計に視線を送ったあと


「ヴィクトー様、会議の時間でございます」


ヴィクトーに時間を知らせた。


「もうそんな時間か、クレモン?」


目深に被っているので顔は定かではないが、ちらりと見えるブラウンの髪がゆらゆらと一筋ローブから洩れて揺れている男にヴィクトーは振り向きながら言った。

それに頷いて返したクレモンは少し逡巡してから、報告を口にした。


「ヴァンヘイデン一族のものが動き出したようでございます」


「アメリカではかなり近くまで迫られたから、ある程度は覚悟していたが、定例会までもちそうもないか?」


感情のこもらない淡々とした声音でヴィクトーが聞けば、クレモンはふふふ、と笑んだ。


「いえ、定例会に出すほどのものは手にしてないようでございます。それからこれはどのように扱えば宜しいのか、ご指示をいただきたいのですが…」


言い淀むクレモンに形のいい眉を上げてみせる。


「アイスラーをご存じでしょうか?」


「ヴァンヘイデンと双璧のヴァンパイア一族の、か?」


「さようでございます」


意外な名前が出てきたことにヴィクトーは少々困惑して身構えた。


「その当主、エックハルト・アイスラーが面談の申し入れをしております。会議前にお会いになられますか?離れにてもてなしてはおりますが、アポイントメントなしの訪問でございますので、面会自体を約束しかねると伝えてはおります」


「ヴァンヘイデンのほうが古いかと手を出してきたから、アイスラーには一切の手出しはしてないはずだな?」


「さようでございます」


「なに用か……?」


呟く声に返答はない。

クレモンは余計なことは話さない。そして余計な考えも持たない。

あるのは己の主であるヴィクトーに対する忠義のみ。

そう信じているからこそ、ヴィクトーはクレモンを側に置いてきた。


珍しく長く逡巡したあと、ヴィクトーは会議を後回しにしてエックハルト・アイスラーに会うことをクレモンに伝えた。

その意を受けた彼は一礼を返すと、会議を延期し、アイスラーの待つ離れへ連絡するため踵を返した。


その後ろ姿を満足感をもって見送ったあと、ヴィクトーは客人を迎えるために、ひとまず自室へと向かった。

ローブ姿をヴァンパイアに見せたくはなかった。

フランス人として、客人には美しい姿を見せなくてはな、と小さく笑いながら彼は何を着ようか、考えて心を躍らせた。


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