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30 大輔、お散歩をおねだりする

深くローブを羽織った男が神経質そうな指先をそっと女の腕に置いて、なにかの図案を描くかのように動く。


薄暗い部屋の中。


無造作に置かれたベッドマットがひとつ。

隅にはステンレスの洗面器のようなものがひとつ。

今しがた差し入れされたばかりのトレーの上には野菜屑が入ったスープとパン。

窓はなく、あるのは男が入ってきた今は開け放たれたドアだけ。


あとはぼろ雑巾のようになった、すでに表情を失ってしまった女がひとり。


その女の腕に覆いかぶさるようにして、ローブの男は無心に何かを描き続けている。

終わったのか、身を起こして描いていた指を口先に持ってきて何事かを呟いた。


「いやぁ!」


途端に苦痛に顔を歪めた女が叫び、その腕の皮膚が裂けて血を噴出させた。

それを満足げに見やった男は、部屋の外に待たせていた男から赤黒い液体の入った試験管を受け取った。

試験管を持ってきた男が痛みに叫び続けている女を抑え込む。

正確にはその腕を。


慎重に試験管を傾けて、中の液体をぽたりぽたりと血が流れ続けている腕へと落とした。

抑え込まれた女の絶叫はさらに大きくなり、抵抗も強くなった。

抑え込んでいたはずの男が、抵抗の強さに吹き飛ばされる。

痛みに呻き、血が流れている腕を女が抱え込んだ。蹲った女の全身が小刻みに震えたかと思うと、唐突に気を失った。


「見せてみよ」


ざらざらと記憶に残るような機械音に近い声を出した男が女の腕をみせるように、吹き飛ばされてベッドマットで呆然としていた男に告げる。

言われた男は慌てて起き上がると、ぐったりとした女の腕をローブの男の前に引っ張り出した。その腕は血まみれで、それに気付いた男は自分の袖でぐいぐいと拭う。


すると裂けたはずの皮膚が醜く捩れながらもくっついているのがわかった。


「片付けておけ」


面白くなさそうにふん、と鼻を鳴らしてからローブの男はゆっくりと部屋から出て行った。




書斎で仕事している逸朗を横目に、俺は彼のベッドで本を読んでいた。

せっかくイギリスに来たんだし、なにかそれっぽい本でも読みたい、と言った俺に逸朗が無造作に渡してくれたのが、今読んでいる本で、これまた今回の研究成果として発表される予定のシェイクスピアの日記だった。

文体が古いし、もってまわった言い回しが多いし、触れただけで壊れそうな脆さがあるし、でなかなか難解なものだったが、ことのほかどこぞのご令嬢に振られた、とかあちらのご令嬢から嫌われた、との記載が目につき、歴史に名を遺すほどの文豪もプライベートでは俺並みなんだ、と勝手に同情して楽しんでいた。

ぎぎ、と古い椅子が小さく鳴る音がして、逸朗が仕事を終わらせたのがわかった俺は本を閉じて書斎の開けられたままのドアを見た。

案の定、肩を揉むように手をやった逸朗が疲れた表情でベッドに向かって歩いてきた。


「お疲れ様」


「読み終わったのか?」


ちらりと俺が手にしている本をみた逸朗が聞いてくる。

まだ読み終わってはなかったけれど、頷いてみせた。


「面白いか?」


「よくわからない文章が多くて、どうかと思うけど、面白いは面白いかな」


「そうか、あれはかなり変わった人間だったから、素直な大輔にはわかりにくかろう」


かつての友人を思い浮かべて逸朗はくつくつと笑った。

仕事がひと段落して、俺との時間が取れることが嬉しいのか、機嫌よくベッドに腰かける。

その腰にすり寄るように顔をつけて、逸朗から漂うスパイシーな香りをおもいっきり吸い込んだ。身体の奥がじんわりと疼く気がする。


そんな俺に甘く蕩けるような視線を送って、愛おしそうに頭を撫でた。

俺の気持ちを伝えてから、逸朗は飢えから逃れるような切実なコミュニケーションをとることが少なくなった。ひたすら優しく甘く、愛おし気に、俺を触る。

過剰なスキンシップに辟易しつつあった俺はその変化が有難くもあり、寂しくもあった。激しく求められない欲求不満がじくじくと身体を蝕むように奥底で疼いていたからだ。


わがままだなぁ…


と自分の感情を持て余して、気付かれないようにそっとため息をついた。


「ねぇ、逸朗さん」


「ん?」


髪を漉いている逸朗は腰に顔を付けたままの俺を見やる。


「ここに来てさ、7日間じゃん?俺、ずっと外に出てないんだよね。まだ研究始めないなら、明日でいいから出掛けてみたいんだけど。はじめてのロンドンだしさ、少しは歩いてみたい」


「……」


「逸朗さんが忙しいのはわかってるから、俺ひとりでも大丈夫だし、べつに子供じゃないんだから街歩きくらい、いいよね?」


何かを言われたわけではないけれど、俺を外に出したくないと思っていることはなんとなくわかっていたので、ずっと我慢して引き籠っていたのだが、とくに危険なことがあるわけでもなく、ただ淡々と日々が過ぎていくのだから、少々出掛けてもいいんじゃないかと思うようになってきていた。

小百合も狼も実に楽しそうにロンドン生活を満喫していて、毎日のように出掛けてはショッピング、観劇、食事と、引き籠りの俺に話題を提供してくれていた。

素晴らしいバレエだったわ、とか、さすがシンプソンズのローストビーフは価値がある、とか、フォートナムメイソンの紅茶はさすがだけれどケーキは日本のほうが口に合うわ、とか聞いてしまえば羨ましくて仕方ない。


「ダンカンさんにも行ってもらえば逸朗さんだって安心でしょ?」


廊下にいるであろう、ダンカンのことも持ち出してみる。

ひとりじゃない、護衛も一緒、とアピールする。


俺だって紅茶も飲みたいし、ローストビーフだって浴びるほど食べたいし、バレエもオペラも興味はないけど観てみたい!!!

これがきっかけで好きになるかもしれないじゃん?


なにより外を歩いて気分転換したかった。


「逸朗さんとデートできれば一番だけど、ゴードンさんが許してくれないし」


そうなのだ。

ゴードンから、しばらく坊ちゃんは動けませんので、お手間を取らせないようにお願いいたします、と慇懃に言われている俺としては一緒に行こうとは誘えない立場にある。

すごく忙しいんだから仕方ない、と悲しくも納得している。でもだからって俺まで引き籠る必要はないわけで、ゴードンからも出掛けてはいけないとは言葉にされていない。

言外に伝えられてる気がするけれど、それは鈍くてわからなかった、とでも言い訳にしておこう。


きっとダンカンは面倒そうに睨んでくるんだろうけれど……


自分の精神安定を考えれば、ダンカンの睨みなど怖くもない。

結局彼は、態度は最低でも、逸朗の言葉には忠実なので、俺を害することはない、というのがこの何日かでわかってきた。

だから怖くない。


俺は外に出て散歩だけでもいいからしたいんだ!!!


「どこに行くつもりだ?」


低く、室温を下げるほどに低く問われた声。


悩んでる、出してもいいか、悩んでる。


そう気付いて、あと一押しだと確信する。

いつだって最後には俺のわがままを聞いてくれる。彼が多少なりとも安心できる環境にまで持ち込みさえすれば。


「コベントガーデン」


俺の言葉にふん、と鼻を鳴らした。

しばしの逡巡の後、


「ダンカン、聞こえていただろう。明日、大輔を頼んだぞ」


それでこの会話は終わり、と宣言するかのように逸朗は俺に覆いかぶさってキスをした。

そのキスは久々に飢えた獣が獲物を貪るかのような、激しいものだった。


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