余談17 ヘンリーの名前
そのとき大輔は暇だった。
実験机に肘をつき、掌に顔をのせて、足をぶらぶらさせながら新しく搬入した分析機器の試運転をただ監視しているだけだったからだ。
分析室に設置予定だった海外から取り寄せの大型機器がようやっと輸入されて、業者によって搬入されたのが3日前。
その際に試運転は業者が実施したが、実際に触る技術者としては己のサンプルでしておきたかったので、現在、大輔が試している。
だが、試運転というのはつまらない作業だ。
問題がなければ暇だし、かといって傍を離れて問題が起きれば、トラブルシューティングができない。
だから大輔は順調に分析を熟している機器の前でひたすら足をブラつかせることくらいしかやることがなかった。
反対にジョシュアは大輔の代わりに右に左に忙しそうに働いていた。
時折、部屋の前を横切る彼の影を眼で追いながら、大輔はまたため息をついた。
こんなときにでも論文を読もうかと手に取ったとき、珍しくもヘンリーがひょっこり分析室のドアから顔を覗かせたのだ。
「ヘンリー?!どしたの?」
逸朗になにかあったのかと、大輔は一瞬胆が冷えたが、彼の表情は明るく、楽しそうだったので、どうやらそうではないらしい、と胸を撫で下ろした。
「いや、新しい部屋ができたって聞いたから見に来たんだ」
物珍しそうに部屋のなかを見渡してから、入ってもいいか?と聞かれたので、大輔は慌ててヘンリーの椅子を用意して、どうぞ、と勧めた。
実験室にありがちな丸椅子なので、背凭れがない。
ヘンリーは居心地悪そうにちょこんと座ると、大輔に視線をやって、わざとらしくにかっと笑った。
脳筋のヘンリーがいくら新しいからといって実験室に興味を持つとも思えない大輔は内心で首を傾げていたが、いい暇潰しが来た、と喜んでもいた。
「ラボは飲食禁止だから、おもてなしはできないけど」
申し訳なさそうに眉を下げて言った大輔にヘンリーは気にするな、と掌を振った。
「邪魔じゃないか?」
むしろ邪魔だと言われたいような口調で窺う。
大輔はやはり違和感を覚えつつ、暇だったから有難い、と答えた。
ヘンリーがここに来たのはもちろん興味があったわけではない。これは騎士としての任務だった。かなり個人的な内容ではあるが、誰が否定しようとも主から仰せつかった任務である。
心のなかで、そのようにヘンリーが言い訳するのにも意味がある。
大輔は未だに気付いていないがラボには監視カメラが盲点なく設置されている。主にジョシュア対策なのだが、この新しい部屋にはそれがまだ設置できてない状況だった。
今からまだ機器の搬入が待っているので、仕掛けることができないのだ。
朝食時に今日は1日分析室で機器の試運転だと聞いた逸朗は不安と嫉妬に押し潰される前に己の騎士を派遣した。
大輔の騎士であるジョシュアが良からぬことを仕出かさないように。
んなわけ、ないだろ!
と、ヘンリーは声を大にして訴えた。
心のなかで。
鬼気迫る逸朗を眼前に、とても言えなかったが…
だから邪魔だと言われたら、喜び勇んで帰るつもりだったのだが、暗に反して大輔からは大歓待を受けてしまった。
小さく嘆息すると、諦めてヘンリーは寛ぐことにした。
といっても丸椅子ではあまり寛ぎようもないのだが。
じっと己を見つめてくる大輔にヘンリーは眉を上げてから肩を竦めた。それで不躾に眺めすぎていたことに気付いたらしい大輔は頬をほんのり染めて俯いた。
なるほど、ウィルが心配するわけだ。
思わず可愛いと感じて心臓がとくんと高鳴ったヘンリーが困ったようにぐるりと瞳を回した。
「ずっと聞きたいことがあったんだ、時間があるなら、聞いてもいいかな?」
おずおずと口にした大輔にヘンリーは鷹揚になんでも聞け、と身体を彼のほうに向けた。
「ヘンリーはフィリップ・ヘンリーでしょ、なんでフィリップじゃなくてヘンリーなのかな、てずっと疑問で…」
そんなことか、と破顔してヘンリーは実験台に肘を付いた。
「たいして面白い話でもないが、聞くか?」
「ヘンリーがいいなら知りたい」
軽やかに微笑む大輔の頭をくしゃりと手荒に撫でてからヘンリーは語り始めた。
「本当はフィリップJr.なんだ。親父がフィリップでね。親父は商人で、悪どくもなかったが、清廉潔白でもなかったおかげで、まぁまぁの大きさの商会を経営してたんだ。俺はその跡継で、ジュニアて、呼ばれてた」
話ながら彼の眼は遥か遠くを見遣る。
なかなかの羽振りだった父親は息子が年頃になると商人としての英才教育を施した。徹底した経営学と経済観念をその身に叩き込むように仕込んだのだ。
ヘンリーも当然己が父の跡を継ぐのだと疑いもしなかったので、必死で勉強した。母親は彼が幼いときに流行り病で亡くなっており、再婚はしなかったものの、父は愛人を持った。
それが子供を産んだことがきっかけで、家に入り込み、女主人として幅を利かせ始めたことも、彼が必死になった要因のひとつだった。結局ヘンリーは腹違いの弟をふたりも持つことになったが、父親にはヘンリーを廃嫡する考えはまったくないようだった。
愛人としてはそれが面白くなかったのだろう。
彼に愛情を注がないだけでなく、弟たちとあからさまな差別をした。それも実に巧く父親にバレないように。
しかしヘンリーにはそんなことは大したことではなかった。
己が跡を継ぎさえすれば、弟共々愛人を追い出してやるつもりだったからだ。
何をされてもその日が来るのを愉しみに、彼は耐え抜いた。
が、結局その日が訪れることはなかった。
その年は天災の多い年だった。
物資の供給も上手く行かず、焦った父は一か八かの賭けに出た。
商船3隻出して全財産を賭けて買い付けに走ったのだ。
しかし希望の船は嵐にあえなく沈没し、破産の憂き目にあった。
あまりの失意に父は寝込み、酒に溺れ、愛人は子供を連れて出ていった。使用人にも見放され、残ったのは生きる気力のなくした酒浸りの父親と己、そして節税対策と銘打った莫大な借金だけだった。
まずヘンリーは商会の株を売った。
家屋敷、僅かに残っていた商品、そして家中の家財道具から己の服に至るまでを売り捌いた。
貴金属やドレスなどは愛人が持ち去ったらしく、あれほど買い込んでいたはずなのに、どこを探しても出てこなかった。
売れるだけ売って、借金はかなり減ったが、若干16歳のヘンリーが返していくには気の遠くなる程度の金額はまだ残っていた。
途方にくれている暇もなかったヘンリーは港で人足をやりながら満身創痍で稼いだ。
しかし血汗の染み込んだ金は父親によってすべて呑まれてしまった。借金は減るどころか、じわじわと膨らんでいった。
「これでもなかなか綺麗な男の子だっからな、どこぞのマダムに売り込もうかと何度も思ったよ」
なんでもないことのように言ってヘンリーは笑う。
しかしそこには微かに哀愁が漂っていた。
「明日には親父を殺して首でも括ろうか、てときにウィルに出会ったんだ」
あれは忘れるべくもない、港での仕事を終え、身も心もぼろぼろだったヘンリーが家に帰りたくなくて、入港してくる大型客船を眺めていたときだった。
次から次へと降りてくる金持ち連中に唾でも吐き掛けてやろうかと不埒なことを考えていたヘンリーに逸朗が声を掛けたのだ。
『おまえ、名はなんという?』
見上げたヘンリーの眼前に、かつて見たこともないほどの美しい男が立っていた。穏やかな雰囲気には似つかわしくない険しい瞳を己に向けてはいたが、発した声は甘く優しいものだった。
『名はないのか?』
ヘンリーはムッとした。
確かにナリは汚いかもしれないが、しっかりとした教育は受けた自負がある。だから彼は僅かに怒気を含んだ声音で答えた。
『フィリップJr.・モロー』
決して愛想のある態度ではなかったのに、逸朗はホッとしたように眼を細めると
『ウィリアムだ、はじめまして』
と名乗った。握手をするため、右手まで差し出して。ヘンリーは躊躇いつつも、その手を握り、無言で見返した。
『ふむ、ではフィリップJr.、私はおまえが欲しい。どうすればいいだろうか?』
ヘンリーは慌てて彼の手を振り払った。
「ありゃ間違いなく男娼として扱われたと思ったね!」
かかか、と大きく笑い、ヘンリーは話を続けた。
逸朗はヘンリーの思い違いを糺すつもりもないようで、人足頭のところへ行くと大金を払って彼を買い受けた。
そしてヘンリーから現状を聞き出してから、彼を侍従に任せて、ヘンリーの借金を返済し、呑んだくれの父親を病院へと入院させると、真っ直ぐにアランの城へ連れていったのだ。
アランはヘンリーを一瞥して、
『確かにウィルの気持ちもわかるな』
とだけ呟き、彼はヘンリーを騎士として育てると逸朗に約束した。この日からヘンリーはその道を歩むべく、訓練に明け暮れることになる。
「そのとき彼らがヴァンパイアだって知ってた?」
「いや、まったく。ただいくら鍛練しても訓練しても他の騎士に勝てなくてな、毎日苛立ってたよ。考えてみればヴァンパイア相手にまともにやったって勝てるわけがないよな」
そう言ってから、ヘンリーは大輔が人の身でヴァンパイアであるバージルを倒したことを思い出した。
あれは魔術もあったしな。
負けず嫌いに言い訳して、鬱屈していた頃を思った。
鍛えても鍛えても、力もスピードも先輩騎士には勝てなかったが、努力の成果もあって技だけは抜きん出たものがあった。
しかし少しでも調子に乗るとアランが練習場にふらりとやって来て、手合わせをしてはヘンリーをコテンパンにやり込めるのだ。
そんな毎日が続いて、気付けば3年が経っていた。
逸朗はヘンリーを連れてきた日以来、一度も顔をみせることはなかった。
「あのときは不思議に思ってたけど、一族のためにアランとウィルは同じ時に同じ場所にはいないようにしてたんだ。どちらかが生きていれば存続できるから、て理由でな」
大輔は以前逸朗からハワイで同じ話をされたことを思い出した。あのときはまだ一族主体の考え方が理解できてはいなかったが、今ならわかる、と今更ながらに感じた。
「それなのに20歳を目前にウィルが突然、来たんだよ」
それは秋に差し掛かった頃だった。
夏の名残が陽射しにあって、幾分風が冷たくはなっていたが、日中は充分に暑かった。
おかげで誰よりも長い訓練で、ヘンリーは全身から汗が流れ、脱水状態に陥っていた。
犬のように舌を出してはぁはぁ荒い息を漏らしていたとき、己の記憶のままの麗しい姿で、逸朗が訓練場にふらりと現れたのだ。
来るなり、彼は騎士団長を名指してて手合わせを願った。
剣をとり、姿勢を正して構えた彼を見てヘンリーは生涯かけて彼に仕えたい、と切望した。さらに騎士団のなかでダントツの強さを誇る団長を華麗に、優美に一振で瞬殺した姿を眼にして逸朗の騎士以外にはなれないと渇求した。
「本当にあの一瞬で、俺はウィルの騎士になりたい、て思っちまったんだよなぁ」
「それで?」
惹き込まれるように話に聞き入っていた大輔が先を急くように促した。ヘンリーはそんな彼を眺めて、ほのかに微笑んだ。
「俺はアランにウィルの騎士になりたい、て、そのまま伝えた。そしたらアランがヴァンパイアだって言い出して、その気があるなら成れ、て言われてな」
元々、はじめて会ったときから逸朗はヘンリーをヴァンパイアにすべきだと感じていた。アランは造り手として多くのヴァンパイアを生み出したが、逸朗は己の本能が導かない限りは造ることはなかった。
アランはフランスにいるが、逸朗は諸国漫遊の名目で諜報活動に励んでいたので、成ったあとの面倒と教育ができないのだ。
だからこそヘンリーをアランに託した。
ヘンリーは毎晩のように先輩騎士にヴァンパイアがどういうものか、話を聞きに行った。そしてアランから問われて8日後にヴァンパイアに成る、と宣言したのだ。
アランから血を貰い、気の狂いそうなほどの飢餓感と血への渇望を身の内に巣食わせたヘンリーに世話役として騎士ひとりを付けて、アランは彼を迷いなく貧民街に放り込んだ。
極限の状況でも善悪の判断が付くように、それもひとつの訓練だった。彼は連日、本能のままに狩りをした。
しかし必ず斬首刑が相当な悪事を働いたものだけを狙った。眼に付いたものを手当たり次第に襲いたい欲求を抑えながらの狩りは想像以上に苦しいものだったが、そんな生活を2週間もした頃、唐突に飢餓感が消え失せた。
血への渇望もなくなった。
晴々とした気分で城に帰ったヘンリーを嬉しそうに出迎えたアランが逸朗の騎士として生きるといい、と許可を出したのだ。
「そのときにな、アランがくれたんだ」
懐かしむようにヘンリーが眼を細めた。
おまえに名を与えよう。
父から譲り受けたフィリップはそのままに、第2の父として私から家長の意味を持つヘンリーという名を授ける。
今後はフィリップ・ヘンリー・ヴァンヘイデンと名乗るといい。
以来、彼は己をヘンリーと呼ばせるようになったのだ。
「お父さんは?」
「親父は入院して2年は生きてたが、酒で肝臓がかなり弱ってたみたいでな、それが元で死んだんだ。でもウィルのおかげで死に目にも会えたし、最後に何度も謝って貰えた。それだけで俺は充分感謝したよ」
苦労を掛けて悪かった、辛い思いをさせて悪かった、おまえのおかげでこうしてベッドの上で死ねる幸せを得た、ありがとう。
父は何度も何度も同じことを繰り返して息を引き取ったのだ。
父親に対してあった多少の蟠りも霧散した。
そしてヘンリーは素直に泣いて父親を見送ることができた。
なにもかも、あのとき逸朗が声をかけたことから始まったのだ。ヘンリーには感謝しかなかった。
「俺はウィルみたいに伴侶にも出会ってないし、アランのように妻を娶る気もないけど、生涯かけて、自分の命をかけてでも傍で永遠に仕えたいと思える主と出会えた僥倖には本当に感謝してるんだ」
そう言葉にして、ヘンリーは鮮やかに微笑んだ。
結局書いてしまいました。余談シリーズ。
楽しんで貰えたなら幸いです。
読んでくださり、ありがとうございました。




