余談12 ミーナの伴侶と初恋2
ミーナを連れた男は出会った通りから程近くの建物に入っていった。
パリではごく普通のアパートで、男はそのうち2フロアを自宅として使っているようだった。
「さぁ、ミーナ、寛いでくれよ。本宅はレンヌにあるんだが、君を探してパリにも滞在してたから」
嬉しそうに男はミーナを居間のソファに座らせるとお湯を沸かしはじめた。
「落ち着いたらレンヌに行こう。やっと僕にも伴侶を迎えられる、と連絡しておかないとね」
鼻歌交じりのご機嫌な男は手際よくお茶の用意をした。美しい仕草に、素晴らしい茶器。
普通の女性ならうっとりと夢見心地になりそうな雰囲気である。
「ギヨム様…」
ミーナに名を呼ばれ、歓喜に瞳を耀かせた男は紅茶を持って彼女の横へ腰掛けた。
テーブルへ茶器をトレイごと置くと、彼女の腰を強く抱き寄せる。
「どうしてた?せっかく伴侶としてヴァンパイアに迎えたのに逃げてしまうのだから、僕はずっと寂しかったよ」
甘い声。
優しい雰囲気。
そして官能的なキス。
すべてが蕩けるようでいて、ミーナには細かい針で刺されるような微かな、けれど確実な痛みを覚える行為。
ギヨムと呼ばれた男はかつてミーナがアランに恋する乙女であったときに、夢を与える約束のもと、一夜を共にした相手だった。
そしてミーナの、本来敬愛すべき造り手でもある。
けれど純潔を手折られただけのミーナは伴侶とされる前に逃げ出したのだ。
アラン恋しさに。
ヴァンパイアだと自覚してからギヨムに対しての、形容しがたい欲望は常にあった。
だから逢いたくなかった。
逢わないために城からも出なかった。
パリにも足を踏み入るようなことはしなかった。
ギヨムの伴侶となればアランへの気持ちを絶ちきらなければならないのが、ミーナには堪えられなかった。
誰に聞いても伴侶を超えるものはない、と言われたが、ミーナは人であるときに、すでに人生で一度の初恋を、それも忘れ得ない、まさに燃えるような初恋をしてしまっていた。
ヴァンパイアの本能がいかにギヨムを求めようとも、ミーナはアランだけを想い続けていたのだ。
でもだからこそ、ミーナはギヨムに逆らえなかった。唇を重ねることも、腕に包まれることも、吐き気がするほど嫌なのに、身体の奥底から歓喜と快楽が沸き上がって、己でも制御できない感情に押し流されてしまうのだ。
人であるミーナとヴァンパイアであるミーナが心のうちで葛藤するかのように。
そして未だにどちらにも軍配は上がってはいない。
「どうして僕から逃げたのかな?」
思う存分、唇を合わせ、彼女を抱きしめ、匂いを堪能したギヨムが蕩けた瞳をミーナに注いだ。
それを受け止めることすら嫌悪するのに、彼女は視線を絡めて、甘い吐息を吐いていた。
なんとも艶やかで官能的な音がギヨムの耳を心地よく刺激する。
「私には慕う人がいます。ギヨム様の伴侶にはなりたくないのです」
言葉では精一杯の拒否をしているのに、彼女の身体はギヨムに凭れ掛かり、その手は彼の腿の上を滑らかに滑っていた。
それにちらりと視線を投げてから、ギヨムは朗らかに微笑んだ。
「それは面白いね。君以外に僕の伴侶はいないのだから、君の伴侶も僕だけのはず。君の気持ちだって僕にあるはずだよ」
その証拠に、と彼はさらに熱く深いキスをミーナに捧げた。嫌だと思うのに、彼女の唇は彼を受け入れ、次第に身体がうねりはじめる。
彼女の指がギヨムをもっと欲しいと強請るように艶かしく彼の背中を這った。
「ほらね」
得意気に顔を離してから彼は示した。
確かにミーナはギヨムを求めている、と。
けれどいくら身体が熱く滾ろうとも、心は零下にまで冷えきっているのも確かだった。
俯瞰した己が、燃え滾るのはヴァンパイアであって、ミーナではない、と強く主張しているのが、彼女には聞こえていた。
やはり伴侶にはなれない、と揺るぎない気持ちで改めて感じた心を依代にミーナはギヨムと対峙した。
その頃、アランはアヴィニヨンにいた。
一向に逸朗の姿を確認できないまま、南下し続けてきたが、さすがにこれはフランスではないな、と判断を下したところだった。
確かにこのとき、逃避行中のふたりはキプロスにいたのだから、アランの勘は正しかった。
大きな街に着く度にゴードンへ「いないメール」を送っていたアランはふと北上しているミーナがどの辺りまで動いたのか、確認してみようと、思い立った。
しかし、パリに向かったはずの彼女が一度もゴードンへ報告メールを送っていないことがわかった。
すでにアランは一昼夜を超えて走り続けて580キロを走破している。ヴァンパイアならではの体力があるからできることで、人なら有り得ないことだ。
当然ミーナもリールまで到達していてもおかしくないだけの時間が経っていた。
うまくすればルーアンくらいまで行っていたとしても驚きはしない。彼女も立派なヴァンパイアなのだから。
ふいに胸来する不安感に急かされるようにアランはGPSで居場所を探った。すぐに反応があり、ミーナはパリで足留めされているようだった。
やはりおかしい…
しかも探し回るのではなく、1ヶ所で留まっている。
アランは焦慮に駆られた。
あのミーナに何かあれば寂寥感で気が狂うのではないか、と考えただけで寒気に襲われる。
アランはバイクを翻すと、コーモン空港まで飛ばした。
飛行機をチャーターするようにシモンに怒鳴り付けながら、彼はできる限りの速さで走り抜けた。
シャルル・ド・ゴール空港に着くと、すぐに待たせていた車でパリ市内のアパートまで走った。
そこからミーナは動いていない。
玄関前に立ち、アランはアパートを見上げた。
そしてそっと周囲を窺う。
すでに時間は遅くなり、辺りに人影はない。それを確認してから彼はするすると壁をよじ登っていった。
最上階の窓まで登り、なかを覗けばミーナが見覚えのある男と並んでワインを飲んでいるのが見えた。
アランは暫し逡巡した。
もしも彼女にとって大切な時間を過ごしていたのなら、アランの勘違いで邪魔はできない。
けれどあれが意に添わぬものならば、是非とも助けなくてはならない。
そう考えながらも、どこか見覚えのある男にアランは首を傾げた。あれは誰だろう、そしてなぜ記憶にある顔なのか…
思ってアランはやっと思い出した。
あれはどのくらい前だろうか。
150年くらいは経っただろうか。
パリに住むヴァンパイアとしてあまりにも相応しくない所業をなしたと本部から指摘され、一族からの追放を言い渡された男だった。
確か名前はギヨム。
いやギヨームだったか?
何人もの女性を血を使って誑かし、彼女らの夫や恋人を無惨に嬲り殺し、さらに子供がいれば無闇矢鱈にヴァンパイアへと変貌させた咎を一族からの追放で済ませてはならない、と当時のアランはかなり強く主張したのだが、本部がそれを許さなかった。
逸朗が苦悩する彼を見て、抹殺してやろうか、と動いたので、アランは慌てて己の感情を隠した。
本部の判断に楯突くのは不味いと思ったからだった。
それもこれもギヨムが得たはずの伴侶に逃げられ、失ったという大義名分があったからだった。
伴侶を失えば、どんな立派なヴァンパイアでも己を見失う。
だから処置は寛大にするべきだ、という配慮だった。
あのときの逸朗にその気持ちを理解することはできなかっただろう。けれどアランは伴侶を亡くした辛さを誰よりも血によって刻み込まれているのだ。
仕方なくアランは彼を許し、レンヌに屋敷を構えることにすら眼を瞑った。だがヴァンヘイデン家の屋敷のあるところには出入りはさせない、という約束だったはずだ。
もちろんそれはパリも含まれる。
幾分か悩んだが、アランはギヨムをパリから追い出すために、そしていつもは屈託なく笑うミーナが俯いたまま表情を失っていることもあり、さらに多少の憂さ晴らしもあって、乱暴に窓を蹴破って乱入した。
ミーナにうっとりと見惚れ、ワイングラスを傾けていたギヨムが唐突に現れたヴァンヘイデン家当主の登場にワインが溢れるのも厭わずに立ち上がった。
「アラン様!」
ふたり同時に叫ぶが、ギヨムは恐怖から、ミーナは歓喜から、だとわかり、さらにアランは勢い付いた。
「ギヨム」
ぎろりと威圧的に視線を送る。
「ギヨム、その名からヴァンヘイデンの名を取られた男よ」
もう一度、低く太く彼は呼んだ。
ひっ、と短い悲鳴をあげ、ギヨムは腰から床に落ちた。
「おまえは確か、ヴァンヘイデン家領地が禁足だと、追放された身ではなかったか?」
アランの言葉にミーナは驚愕に眼を見開いた。
美しい瞳が溢れんばかりで、こんな状況にもかかわらず、アランの胸がときめいた。
だから口を滑らせたのだ、とあとでアランは逸朗に言い訳をする羽目になるのだが、このときの彼はただ真実を言葉にしただけだった。
「何故、私のミーナを侍らせているのだ?」
光耀くばかりのアランが堂々たる態度で、己の眼前に立ち、己を束縛する男の腰を砕けさせて、あろうことか自分のものだと宣言したのだ。
ミーナの全身に火がつき、なにもかもを真っ赤に染め上げていく。驚愕が歓喜へと、そして愉悦へと変わり、その身体を抱きしめていないと震えが止まらないほどの悦びが彼女を包み込んでいた。
しかしギヨムも黙ってはいなかった。
パリにいることは罪になっても、己には掟というなにより強固な味方がある。
伴侶に手を出すものには死を。
「これはこれはアラン様はご存知ないようだ。ミーナは僕の見失った伴侶です。僕によってヴァンパイアと成り、伴侶となる女なんですよ」
勝ち誇ったように、けれど抜けた腰に力は戻らないままギヨムは顎をあげて言った。
それにアランは鼻をひくつかせてから、嘲笑した。
「…のわりには、ミーナからはおまえの匂いがないな」
「アラン様!確かに彼は私の伴侶かもしれません!」
ミーナが突然アランに駆け寄り、縋るように抱きついてきた。
彼女の言葉にギヨムは力を得たように頷き、アランは傷付いて、瞳を暗くした。
「けれど私がお慕いしているのは、昔から、あの炎のなか助けていただいた、あのときから、アラン様おひとりなのです!」
そして彼女は飛び付くように背の高いアランの唇に己のを吸い付けた。あまりのことの成り行きに呆然としたアランだったが、すぐに彼女を抱き上げた。そして愛おしむように、けれど貪るように彼女の唇を求めた。
まだ伴侶とはなっていない女だ。
死を賜る云われもない。
ふたりの交わす熱い想いが、その事実をギヨムに叩きつけていた。
「あんまりこういうので権力翳す、てのは俺の趣味じゃないんだけど」
ヘンリーが面倒を起こすなよ、と睨み付けながらアランに鋭い視線を投げる。
本部の統括を任せていたローガンから、ギヨムという半端ヴァンパイアからアランに対しての苦情申立があったと連絡があり、自分では判断できないから宜しく頼む、と丸投げしてきたのだ。
「なにも難しいことはないだろう?ミーナは伴侶にはなってなかったし、俺のことを愛してるんだから」
悪びれなく言ってにやりと笑う。
それがまた嫌らしくてヘンリーはうんざりした。
逸朗のデレデレ溺愛だけでも胸焼けがするのに、アランまでそれに輪をかけた恋愛バカになってしまったのだ。
辟易しない方が無理である。
「じゃ、そういう判断でやっとく。ウィルに言えばまた簡単に殺せ、てなるしな」
当の逸朗はキプロスからレバノンへ移った先で発見されており、その後は無事に陰ながらの警護が付いていた。
この件を伝えることもできるが、接触禁止令が発令されているので、遠くからにやにやと眺めるだけで誰も彼らの邪魔はしてない。
もっとも逸朗がその視線に気付いてないとはヘンリーは思ってはいないが。
こんなことのためにフランスまで来させるなよ、と最後に文句を垂れてからヘンリーはローガンに先ほどの見解を示したメールを送信した。
それに意地悪そうな笑顔を浮かべてからアランはヘンリーを小突いた。
「どうせ少し足を伸ばして高みの見学に洒落こむつもりで来たんだろう?」
図星だ。
ヘンリーはこのあとすぐにレバノンへ飛ぶ予定でいる。
なにかを言い返そうとヘンリーが唇を薄く開けたとき、
「アラン」
と、鈴の音のような軽やかで涼しげな声がアランを呼び、弾けるように彼が反応した。
美しく着飾ったミーナがアランの前まで駆け寄って、エメラルドと翡翠を散りばめた煌びやかなドレスを魅せるようにくるりと回った。
「とても綺麗だ」
蕩けるほどの甘い声。
アランの瞳が一層エメラルドグリーンに輝く。
「なんだよ、これから舞踏会か?」
聞いたヘンリーにミーナは艶然と微笑んだ。
「違うわ、ここでアランとだけ、踊るの」
彼女の夢がようやく叶った瞬間だった。
読んでくださり、ありがとうございました。
本当に長くてすみませんでした。
でもやっと幸せになってくれて良かったとホッと胸を撫で下ろしています。




