余談12 大パニックの末の逃避行
逸朗と大輔はベッドに入って額をくっつけあっていた。もちろん、額だけではなく、身体もぴったりと密着させてはいたが。
そしてどちらからともなく、声に出さずに笑うと、お互いにしか聞こえないように細心の注意を払って囁いた。
「明日だね」
「そうだな、やっと、明日だ」
ぐっと寄せて逸朗が唇を合わせた。
優しくもあり、荒くもあり、大輔は幸せに溺れそうになる。
「俺が先に出ればいい?」
「いや、私が先に出る。下にタクシーを待たせておく。荷物は…」
「わかってる、手荷物だけ、持ってく。あとのは買い揃えてあるんでしょ?」
愛おしげにくしゃりと髪を乱して、逸朗は柔らかに笑んだ。
「そうだ、ゴードンに内緒で用意するのが本当に大変だった!」
常になにか行動するときはゴードンに指示している逸朗なので、己で動くことには些か不馴れだった。調べるのも、予約するのも、そこへものを買い付けておくのも、かなりの手間と時間がかかることを知った。
が、それすらも幸せな時間だった、と思って顔が綻んだ。
「ありがとう、すごく楽しみだ」
大輔のその一言に苦労が泡のように散っていく。
逸朗は貴い伴侶の額にキスを落とすと、部屋の灯りも落とした。
「おやすみ」
呟いたのはどちらなのか、あとは規則正しい寝息が闇のなかで重なった。
翌朝、逸朗の部屋は大パニックに陥った。
階下から出勤してきたマカナが朝食を作っているとき、ふらりとキッチンに来た大輔が
「ランチは要らない。朝はサンドイッチを持たせてくれる?ラボでやらなきゃいけないことがあるんだよね」
と声をかけてきたので、彼女はパンケーキからサンドイッチに変更して、それをランチボックスに入れた。珈琲もポットに準備して大輔に渡したとき、今度は逸朗が声をかけてきた。
「マカナ、私は早めに出勤する、そうゴードンに伝えておいてくれ」
「承知しました」
答えたマカナはどうやら朝食は食べないらしい、と判断し、ダンカンとジョシュアの分だけを用意することにした。
ゴードンもマカナも自室で済ませているからだ。
ふらりと出ていった逸朗を追い掛けるようにサンドイッチを持った大輔も出勤していき、マカナは手持ち無沙汰に部屋の掃除をし始めた。
しばらくしてダンカンがやって来て、くるりと周囲を見回した。
「大輔さまは?」
掃除機の稼働音で聞こえなかったマカナが首を傾げた。
一瞬、ダンカンが片手で眼を覆い、天井を仰いたが、すぐに真顔に戻って大輔の部屋をノックした。
「大輔さまならもうラボへ行かれましたよ」
その様子を見たマカナが掃除機を止めてダンカンへ声をかけた。弾かれたように彼が振り向き、慌てた様子で大輔の部屋へと突入していった。しばらくして、
「ジョシュア!」
電話で怒鳴っているのか、ダンカンの上ずった声が部屋から漏れてきた。
その声音にマカナは急に不安になって胸を押さえた。
「おまえが夜に付く、て俺は聞いてて、はぁ?そんなことは、大輔さまから、あぁ?!」
最後にくそっ!と悪態を付いて電話を切ったダンカンが足音も荒々しく出てきた。
「ウィリアム様は?」
その眼がいつになく鋭く周囲を探り、はじめて眼にするダンカンの様子にマカナはひっと息をのんだ。
「ゴードン様は?」
「逸朗さまは大学へ行かれました。ゴードン様に伝えるように言われて。ゴードン様はまだいらしてません」
震える彼女を眼にして気の毒そうに眉を下げたのも一瞬で、ダンカンは大きく舌打ちをした。
そのとき、エレベーターの扉が開いてジョシュアが入ってきた。
「どういうことだ?」
「わからん!来てみたらどちらもおられない」
そしてダンカンがジョシュアの胸座を荒々しく両手で掴み、
「おまえが夜も付くから休んでくれ、て大輔さまが言ったんだぞ!」
と叫んだ。
それには首を振ったジョシュアが乱暴にダンカンの手を払うと、視線も鋭く睨み付けた。
「僕はなにも言われてない。だからおまえがいると思っていつも通りに帰ったんだ」
ふたりが睨みあったまま、唇を噛み締めているとまたもやエレベーターの扉がゆったりと開いた。
ゴードンが穏やかな様子で出勤してきたのだ。
「おはようございます」
挨拶をしつつ、部屋に流れる不穏な空気に彼は状況を察知したのか、眉根に深く皺が刻まれた。
「どうしました?厄介な感じですが…」
問われたふたりはどちらが口を開くか、無言で押し付けあったが、結局ダンカンが肩を落として答えることになった。
ジョシュアとしては思い当たる節があり、できれば秘していたかったのだ。
「それが大輔さまもウィリアム様もいないんすよ」
弱々しい声。
悄然と項垂れた姿にマカナは胸が痛くなった。
「すみません、私がしっかりしてれば!」
言い差したマカナにゴードンはにこりとしてから、手で黙るように制した。
「では、よくわかるようにどなたか説明してくださいませんか、ちゃんと落ち着いて、ですよ」
その場にいる3人が、ふぅ、と息をゆっくりと吐いた。そしておずおずとマカナが手を上げた。
「では、マカナから聞きましょう」
「私が来たときにはおふたりともいらっしゃいました。大輔さまからご朝食はラボで食べると言われましたので、サンドイッチを作ってランチボックスで持っていって貰うことにしました。逸朗さまは早く大学へ行かれるとのことをゴードンさまにお伝えするよう言い置いて出掛けられました。そのあとダンカンさんが来て…」
「なるほど、では、ジョシュア」
「はっ!」
「大学へ坊っちゃんがいるか確認をお願いします」
「承知しました」
一礼のあと、ジョシュアは逃げるように出て行った。
「ダンカンは大輔さまの臭跡を追えますか?」
「やってみるっす」
やはり一礼してから彼も颯爽と去っていった。
警察犬のようなことができることに違和感を覚えつつ、驚愕しているマカナの肩をゴードンは抱いた。
そしてソファへと彼女を座らせた。
「大丈夫ですよ、絶対に見付けてみせますから」
にこやかな雰囲気とは裏腹に、彼の瞳は不気味に紅く光っていた。
護衛ふたりに指示を出し、マカナも落ち着きを取り戻したと判断したゴードンはまず逸朗の部屋を確認した。
いつもの場所に彼の携帯が置いてある。書斎に入り、いくつかの抽斗を開けていく。
何個めかの抽斗を引っ張り出して、ゴードンは大きく顔を歪めた。そして珍しく舌打ちを漏らす。
次に寝室に戻り、クローゼットを探ったが、お気に入りのスラックスと薄手のニットが消えているだけだった。
首を軽くふるりと振ってから、ゴードンは大輔の部屋へと足を運んだ。
入ってすぐ、ベッド上にきちんと並べて置いてあるものに眼が引き寄せられた。
そこには彼の携帯と、彼の字で几帳面に書かれた封書があった。
封書の宛名はゴードンだ。
またもや舌打ちを鳴らしてから、遠慮なく、けれど神経質に封を切った。
なかからはぺらりと一枚だけの手紙が出てきた。
なんの変哲もないレターペーパーに数行の文字が踊っているだけの、色気も素っ気もないものだが、その内容がゴードンの怒りを煽った。
2週間以内には帰ります。逸朗とふたりだけで過ごします。
探さないでください。
心配もしないでください。
たぶん、大丈夫です。
大輔
「たぶん、では大丈夫とは言わないのですよ、大輔さま。完璧に安全でも、わたくしはおふたりだけなんて、絶対に認められませんからね」
静かに唸り、ゴードンは手紙を握り潰した。
その拳は微細に震え、力の入った肩が盛り上がった。
臭跡を追って行ったダンカンが戻り、大輔の部屋で憤怒も露に肩を揺らすゴードンの背中を見て、思わず後退りをした。
「どうでしたか?」
気配で気付いていたゴードンが低く問うが、ダンカンは首を振って返した。
「マンション出たとこで消えてるっすね。そっから車を使ったみたいっす」
「…でしょうね」
ちらりとベッドの上の携帯に眼をやり、GPSも使えないか、とダンカンが嘆息したとき、ジョシュアから着信があった。
『そこにゴードン様は?』
「いる」
それだけを伝えて、ダンカンはゴードンへ携帯を渡した。ちらりと画面を見て、ジョシュアからだと知った彼はスピーカーに切り替えた。
「わたくしです。坊っちゃんは大学に?」
『いえ、本日から3週間の休暇を取られておりました』
なんと用意周到なことか、口のなかで呟いた。
「部屋のパソコンは触れそうですか?」
『先ほどなかを確認しましたが、全て消去されております。ログすらも辿れませんでした。ただ、大輔さまとお二人分のパスポートのコピーがシュレッダーの途中で引っ掛かっておりましたので…』
「やはり海外渡航が有力ですね」
抽斗にパスポートがなかったことを確認済みだったゴードンはにやりと黒く笑うと、すぐにジョシュアに戻るように命じた。そして各地の一族への連絡に奔走するため、階下の自室に戻っていった。
残されたダンカンとマカナは身を寄せ合うようにして、ソファに座り、次の指示を待つことにした。
こんなときなのに、ふたりとも妙にほのほのとした雰囲気で、真顔ながらに頬を染めて、ある意味幸せそうに見えなくもなかった。少なくとも戻ってきたジョシュアがその姿を目撃して、思わずにたりと笑む程度には平和な絵面だった。
しばらくしてゴードンから平穏極まりないヴァンヘイデン家のヴァンパイア全員に緊急メールが一斉送信された。
その内容に、平和を享受しつつ退屈に欠伸を噛み殺していた一族のものたちは色めき立った。そしてみなが一様に動き出す。
こんな面白いものを見過ごしてなるものか、と皆がみな、口許を弛めながら各地へと飛んでいく。
各地の一族に告ぐ。
ウィリアム様が逃亡。大輔さまと逃避行。
すぐに捜索開始せよ。ただし接触は許さない。
発見後、直ちに警護監視体制に入れ。報告は逐一せよ。
それを同じとき、ダンカンはマカナと読んでいた。
その文面にマカナは楽しそうに笑い、ダンカンに囁いた。
「ゴードン様もなかなか粋な計らいをされますこと」
マカナの嬉しそうな笑顔にダンカンは耳を真っ赤に染めて、もごもご呟き、堪えられないように顔を背けたが、その仕草を可愛らしいと感じる彼女も頬を赤らめていた。
今日もどうやらヴァンヘイデン家は平和である。
その夜、ジョシュアは自室のデスクで各地のヴァンパイアから届くメールの整理をしていた。
共有メールとして全員で確認できるようにしてあるので、少しずつふたりが目撃されてない地域が地図上で黒く塗り潰されていく様を眺めながら、漏れる苦笑を堪えているときだった。
登録のないアドレスからメールが届いた。
すぐにジョシュアは顔を輝かせながら開く。
案の定短い文面が眼に飛び込んできた。
いまキプロス
たったそれだけ。
それでもジョシュアはそれが大切な己の主からだとわかり、そして約束を違えることなく連絡してくれたことに歓喜した。
携帯を胸に抱き、眼を閉じれば主の太陽のような弾ける笑顔が浮かんできて、彼をほのほのと暖かく包み込んだ。
「どうか、つかの間のお時間を楽しく過ごされますように」
そして彼の従順なる騎士はメールを名残惜しく感じつつも、消去した。
窓からは煌びやかに誇る満月が煌々と室内を照らしていた。




