10 逸朗、ヴァンパイアになる
ゆったりとワルツが流れる大広間。
シャンデリアのろうそくの明かりが空気を揺らし、煌びやかに着飾った多くの人々が歓談する騒めきの中、縫うようにして上段の玉座に座っている女王に向かって歩く。
ふんわりと広がったドレスが大勢の人を避けるように歩くには不向きで、何度か無作法に当たってしまい、小声で詫びなくてはならなかった。
それでも女王への挨拶はしておかなくてはならない。
これは宣戦布告にもなり得るのだから。
わたくしにもあの座に座る資格がある。血縁がある。そして国を治める頭脳もあるのだ。
にもかかわらず、わたくしはこの国ではない国を治めている。
わたくしがあの座にあれば、フランスもイギリスもスコットランドもすべてを治めることができるものを……
燃え盛るような野心をにこやかな微笑みに包み込み、わたくしはやっとの思いで玉座へと辿り着く。
そして出会ってしまった。
胸に秘めた身を滅ぼすような野心など吹き飛んでしまいそうなほどの思慕を、その視線を受けた瞬間に抱いてしまった。
彼は女王の後ろに控え、言葉もなく、それでいて熱く滾るような瞳をわたくしに向けていた。
少し面長の白磁のような肌を持った男。
線の細い長躯に似合わないほどの大剣を腰にさし、色素の薄い柔らかそうな銀髪をかき上げた男。
瞳は薄い茶色で、鋭い眼差しはなにもかもを見通してしまいそうな、それでいて憂いをたたえ、凄まじい色香を放つような、その視線の前にいて平静を装えるものなど皆無ではないかと思わせる。薄い唇はうっすらと開いており、それが笑みだと気付くまで、少し時間がかかるほど笑顔の作り方が不自然だった。
そんなことすら魅力になる男がわたくしの前にいた。
あぁ、囚われる。でもわたくしは囚われるわけにはいかない。
それでも触れて触れられて、愉悦に身を任せて溺れたい欲望に身体が熱く熱く燃え上がっていくのを抑えることはできなかった。
「……!」
地下鉄の規則正しい揺れが俺を目覚めさせた。
また夢を見ていたのか、と思いながら、高鳴る胸を手で押さえた。
鼓動が早く、少しだけ呼吸が荒い。
周囲にわからないように、ゆっくりと深呼吸をしてから、いまどのあたりにいるのだろうと思った。乗り過ごしてないといいけれど。
電車のスピードが落ち始め、次の駅名がアナウンスされる。
乗り過ごしてないことを確認して、俺は安堵した。
早く帰りたかった。
どこに?
自問自答。
逸朗の部屋に向かっているのだが、そこに帰りたいと思うこと自体に違和感を覚えた。
それでも間違いなく自分は早く帰りたいと思っていた。
逸朗のそばに帰りたいのか、ただ疲れてしまって早く寝たいのか、自分自身の感情がわからず、俺はなんだかぐったりとした。
きっと疲れているんだろう、今日は長かったし、いろいろとありすぎたから。
目的の駅で降り、ほとんど駅直結のマンションへと足を運ぶ。
エントランスで部屋の番号を押して、中へと入った。
逸朗が待っているだろう部屋に向かいながら、彼女と過ごした有意義な時間を忘れていた。
そう、頭の片隅にもなかった。
彼女と話したこと、笑いあったこと、キスをしたこと。
思い返すこともなく、迎えてくれた逸朗に俺はにっこりと笑ってみせた。
「おかえり」
微笑む逸朗の後ろに大輪の薔薇の花が咲き誇るような雰囲気を感じ、俺は少しだけ頬が紅潮するのがわかった。
なんだか突然、恥ずかしくなって思春期の中学生のように素っ気なく逸朗の横を通り過ぎた、そのとき……
獣が呻くような唸り声を耳にした。
弾かれたように振り向いて、俺はそこにあり得ないものを見た。
苦し気に長躯を曲げた逸朗の髪が黒髪から色素の薄い銀髪へと変化していく。
何もない空間を掴むかのように折られた指先には禍々しいほどの尖った爪が生えていた。
呻く唇から零れるように見えた歯には音を立てて生えるかのように牙が輝き、前髪の隙間からちらりと覗いた瞳は深紅に爛々と光っていた。
あの夜に邂逅した闇夜に輝く深紅の光、ふたつ。
射るように、その光が俺を見据え、そして消えたかと思った一瞬で、俺は囚われた。
凶器たる爪が喉元に食い込み、わずかな血を流させる。
爛々と輝く深紅の瞳は俺の目の前にあり、牙を覗かせた唇を真っ赤な舌がちろりと舐めた。
言葉もない。
息さえもできない。
なにが起きているのかも理解できない俺は囚われたまま、しかし恐怖もなく、陶然として目の間にいるものを眺めていた。
「ウィル!!!」
ヘンリーの叫びがして、直後俺は自由を得た。
少々乱暴に突き放され、居間のソファのほうへと体を投げ出される。ヘンリーは囲い込むように逸朗を抱きしめ、俺のほうは見ずに隣室に行くように指示した。なのにヘンリーが抱きしめている生き物の美しさに恍惚と見惚れ、俺は動くことができなかった。
ちっ!とヘンリーが舌打ちをする。
「ウィル!しっかりしろ、大輔ならここにいる」
毒々しいほどに輝いていた深紅の瞳が揺れ、虚ろな表情へと変わっていく。
「ここにいるんだ、ちゃんと大輔はここにいる!」
強くヘンリーが言い聞かせるたびに、逸朗の瞳は黒く変化し、それにともなうように爪も髪も見覚えのある形へと戻っていく。
「大輔…大輔から…匂いが……」
その言葉を受け、ヘンリーが俺を一瞥する。
「あぁ、確かにそうだな、でも今はここにいる」
「いる、そうだな、ここにいる」
そして逸朗が大きく息を吸って、完全にいつもの姿になった。
やっと安心したかのようにヘンリーは肩で息をつくと、逸朗を離した。
「大輔、シャワー浴びてきてくれ。話はそのあとだ」
いつもの茶化したようなしゃべりかたではなく、厳しい声音でヘンリーに言われ、俺は夢から覚めたように立ち上がった。ヘンリーがシャワールームを顎でしゃくって教えてくれたので、おとなしく従った。
従うことしかできなかった。




