1 はじまりの邂逅
人生いろいろあるけれど、「それ」との邂逅は一生忘れることのできないものだろう。
俺は結城大輔。
「それ」を見た当時はまだ20歳になったばかりだった。先のことなんか何も考えずに適当に勉強して適当に選んだ私立大学にとりあえず入って、まさに青春を謳歌するかのごとく、そのときにしか楽しめない時間をおおいに楽しんでいるだけの、ごくごく平凡な大学生をやってた。
といっても理系学部を選んだせいで、翌年から実験実習が始まろうとしていたし、塾の講師のアルバイトも年明けから少なくして、1年ほど付き合ってた彼女との時間も減ってはいる状態だった。
俺は大学院への進学を希望していて、彼女は就職活動の始まりで、それぞれに充実しているかは別にして忙しかったんだ。
勉強がしたくて大学院を希望していたわけでなく、理系学部ならとりあえず大学院いっとけよ、な雰囲気に流されていただけなのだが、そのときはそれが正しいと思っていた。
ま、就職にも有利だしな、と入学当時からの付き合いの悪友5人で言ってただけなんだけど。確かに有名私立でもなく中堅どころの大学だったから、せめて大学院に行くくらいはしておかないと不利にはなるのかもしれない、程度には危機感もあったと思う。
そんな俺が年末も近い年の瀬に、実家に帰ることもなく、同じように帰省しなかった悪友5人と楽しく居酒屋はしご酒していた夜のことだ。
何件まわったんだろう、一人二人と脱落していくうち、気付けば俺だけがご機嫌で路地裏を鼻歌交じりで歩いていた。
俺の周りには誰もおらず、でもそんなことは気にせずに
「さぁ次はどこ行くよ?」
と声をかけたとき、はじめて自分がたった一人で、歩いた記憶もない路地に入り込んでいることを知った。慌てて周囲を見回したけれど、常にいるはずの酒豪の友人までおらず、ましてやビルに挟まれた狭い路地にはスナックひとつもなく、ただ壁が続いているだけだった。
「マジか……」
明かりのない路地に立ち、軽くパニックを起こしながら呟く。
どこにいるかよりも、どうやってこの路地に入り込んだのか、どうでもいいことを酔った頭で考えていた。
何時なのか、前を見ても後ろを見ても、大きな道路へと続くはずの明かりも見えず、そこはひたすら闇夜だった。
酒で酔ってもなければ、悲鳴をあげていたんじゃないか、というほどの真っ暗闇。
「マジか……」
同じ言葉をもう一度呟き、思わず見上げた、そのときだった。
ビルとビルの狭い間を真っ黒の何かが飛んでいた。
音もなく、飛んでいた「それ」が見上げる俺の視線に気付いたのか、ふっと下を向いた、
そこには深紅の光るふたつのもの。
「え……」
ゆっくりと光るものが細められ、そして闇に溶けるように一瞬で消えた。
「えぇ?」
驚き、固まった俺の上にはビルに囲まれた狭い夜空あるだけ。
星もなく、月もなく、薄曇りの雲に街の明かりがうっすらと反射しているだけの、路地より幾分明るい夜空。
何を見てしまったのか、それとも飲みすぎたゆえの幻覚か。
軽く頭を振って、もう一度見上げたとき、こめかみの奥でチリリと小さな痛みが走った。
「っ!」
めまいがするような気がする、なんだか吐き気までしてきた気もする。
早く帰ろう…
俺はどっちが自分のマンションのある方角かもわからないまま、帰った。
床から天井まで続く大きな窓から柔らかな陽の光が差し込み、その暖かさにゆっくりと目覚めを誘導される。
ふっくらとしたベッドの上にはシルクのシーツ。
肌触りのよさに、思わず顔を擦り付ける。するとふんわりとローズオイルが香った。
寝起きにはまだ眩しい陽光を遮るために挙げた腕は光沢のある生地と見事なレースに包まれていて。
「お目覚めになられましたか?すぐにお湯をお持ちいたします」
薄絹で出来た天蓋の向こうから聞こえ、すぐに湯を運んできたのか、チャプチャプと音が耳に響く。ゆっくりと起き上がれば、それを察知した女官が天蓋を上げた。
鏡が用意され、ふとそれに目を向ける。
そこには明るい茶色の髪に縁どられた、艶やかな肌をした女性がいた。
ぽってりとした唇はほころぶクラッシックローズのようで、スッと通った鼻筋と先を見据える瞳が、その意志の強さを表していた。
「はぁぁぁぁぁ?!誰だよ???」
唐突な寝起きで心臓がバクバク早鐘を打っている。自分の顔を触って、うっすら指にちくちく当たる髭を感じて、心底からホッとした。
「夢か……めっちゃリアル」
小さく呟き、そして頭痛に顔を歪めた。
「ヤッバい、やっぱ、飲みすぎたかなぁ、めっちゃ痛い」
頭を抱えながら起き上がり、冷蔵庫から水のペットボトルを取り出して飲む。
冷たい水が喉を通り、少しだけ気分が晴れた気がした。
大学自体はすでに長期休暇に入っている。
本来なら冬期講習で忙しいはずのアルバイトも減らしていたため、今日はない。
何気にみたスマホの画面には彼女からのメールのポップがあり、
本日、暇なし。会いたいとは言わないで。
の文字が浮かんでいた。
思わず苦笑を漏らし、「りょ」とだけ返す。
彼女とは合コンで知り合い、その翌日にメールで付き合いたいと連絡があった。
それがきっかけで付き合い始めて1年あまり。
お互いにいまだに「好きだ」との言葉もないまま、あっさりとした関係を築いている。
それを不満に思うことはないが、やはり物足りなさは感じている。
だったら自分から積極的に甘えたりすればいいのに、それをすれば離れてしまう気がして結局つかず離れずの距離を保ったまま今に至る。
好きなのだろう、と思うけれど、愛されているだろうとは思えない。
そして愛しているのか、と言われるとそれも自信がない。
会えば楽しいし、それなりに気分も乗る。
向こうも乗れば、肌を合わせることもあるが、特別それを求めることもない。
わりとドライな感情だった。
友人に話せば
「やりたい盛りのハタチの言葉じゃない!」
と悲しがられるのだが、真実なのだから仕方がない。
相性が悪いとも感じないから、単純にお互いそういう気質なんだろう。
おれが枯れているわけではないはずだ。
どうせすることがないなら、二度寝を決め込もうとベッドに倒れこんだとき、スマホが鳴った。
昨夜一緒に飲んだ友人の一人、晃だ。
「おう…」
「起きてたか?」
「いや、今から二度寝予定」
「そっか、じゃ、いいよな」
人の予定はまるっと無視か?と心の中でツッコむ俺には構わずに晃は話し続ける。
「昨日さ、ほとんど記憶なくってさ、気付いたらお前いないし、ちゃんと帰ってるか心配してたんだ」
「悪い、俺も途中の記憶マジ、ない」
ため息のように言葉が続く。
「だろうな、ちょっと飲みすぎたよな、ホント、久しぶりでやっちゃった感満載」
軽く笑った後、
「それよりさ、聞いた?文学部のほうでさ、超イケオジの先生が入ったって噂でさ、アキちゃんなんか、キャーキャーゆってて」
アキちゃんとは晃の彼女。
ちなみにアキラなんだよね、アキちゃん。
おんなじ名前だね、って意気投合したのがきっかけで付き合ったらしい。
アルバイト先の先輩後輩の関係。でも歳は一緒。
「ハーフらしい、ってしかわかんないんだけど、顔もスタイルも半端ないんだって。授業受けてる生徒の9割女子とか。パンキョーだったら俺も受講したい!」
理系学部の俺たちは一般教養の講義なら文学部の授業も選択できるけど、そうでなければ受けられない。しかも理系学部は男が多いから、9割女子の空間にはかなり興味がある。
晃の気持ちもわかるが、だからといってどうしろと?
「んで、パンキョーなの?」
「知らん」
「調べとけよ!」
「パンキョーなら受ける?」
晃の言葉に少しだけ考える。
「ま、今のところ単位に困ってないから受けてもいいけどね」
カツカツでない分、2講座くらいは専門でない分野の講義を取る余裕はある。
かといって、特別面白くもないものをイケオジに目をハートにしている女子目当てに受ける気もない。
「講座はなんなの?」
「よくわかんないんだけどさ、歴史とか言ってたよ。ヨーロッパのほうの、で、映画を通して歴史を見る、とかなんとか。2回に分けて一つの映画を観るんだって。それはそれで面白そうじゃん?」
「確かに。んじゃ、パンキョーなら受けるわ」
「調べとく、じゃ、おやすみ~」
二度寝をすることは理解していたようだ。
それなら、とスマホをマナーモードにして悠々と睡眠をむさぼることにした。
この会話がヨーロッパ歴史学准教授、鈴木・ヴァンヘイデン・逸朗との出会いのきっかけだった。