すき焼きソング
俺は鍋のなかでぐつぐつしている肉と野菜を眺めながら、どうして刑事になんかなってしまったのかと溜息を吐いていた。
東京のすき焼きには入っているのを見たことも無い大きな輪っかの車麩というものは美味しそうに茶色に煮え、ひと目で良い肉とわかる牛肉はとろけるぞと俺を誘惑してくる。それなのに、今村とした飯の前の事件の話で、俺は公園に遺棄されていた俵共生の遺体状況を思い出してしまったのだ。
布団袋に入れ込まれて酸素抜きにされていたが、腐敗がそれで止まるはずもなく、茶色い汁をにじませたおかしな煮物状態の死体でしかない。
俺はよく吐かなかったと、そこで吐かなかった自分を今責めていた。
そこで吐いていれば、そこでの感覚はそこで終えられていたはずなのに、と。
吐き気を催す記憶という仕事を、俺が自宅に持ち込む結果になっちまったじゃねえか。目の前の愛人が作ったすき焼きで想起される記憶をよ。
「すき焼きは嫌いだった?」
鍋の作成者、俺の公認の彼女が俺を伺う上目遣いという凶悪な行為どころか、脇をきゅっと閉じてのお祈りポーズみたいな恰好で俺に窺って来た。
俺の胃液は彼女を目にした事できゅっと収まり、その代わりとして下半身がきゅっと動いた。
なぜならば、彼女のそのポーズが、年若い彼女が胸が大きい人であると俺に再確認させる姿そのものであり、エプロンをまだつけている所もあざといな、なんて感想を抱いたからだ。
だけどな、俺はまだまだそれを味わえねえんだ。
俺の為に隠しておいてくれ。
いや、裸じゃねえから隠してはいるか。
いやいや、ニットから突き出す胸は隠しているからこそ危険だ。
「なおくん。何でも言って。」
俺の脳内のお喋りなんか絶対に言えないので、俺は彼女ににっこりと笑い返すだけに留めた。
はにかんだ笑顔で俯きやがった。
ちくしょう、お前は何でまだ十七歳なんだ。
「尚君、俺に取り分けてくれる?君が取らなきゃ俺は食べさせてもらえないらしい。俺の金で買い足した高級肉が目の前でぐつぐつしているのに!」
「お父さんたら!」
あああ、平和だな。
俺は上司で恋人の父親の器を預かろうと手を伸ばしかけ、俺におずおずと器を差し出してきた小さな相棒に気が付いた。
「ほらよこせ。ちびおはやっぱ肉だな。肉。」
「しいたけは入れないで。あと、春菊も嫌いです。」
「お前は意外と男らしいよな。嫌なものをズバズバ言える。」
「尚君はそういうの嫌いですか?」
「いや。俺はお前が面白いと思っているよ。」
豆腐と肉ばかりに花型人参を乗せただけの器を幼児に手渡すと、その幼児は俺のなつきが俺にするよりも俺の胸を抉りそうな視線を俺に向けた。
上目遣いはなつきと同じだが、そこにギリギリの縋りつく何かがあるのだ。
俺が一番見たくもない瞳の中の光というか、瞳の奥にあるはずの闇というか。
だから俺は当麻の頭を撫でてその頭を下げさせた。
俺を好いて呆れてくれるのは最高だが、俺に縋っちゃいけねえんだよ。
「お父さんは僕が嫌いだし。」
「のわけねえだろ!」
炬燵での俺の斜め左横の位置に座る男が吼えた。
俺は吼えた男から器を取り上げると、適当に盛ってそいつに手渡した。
「うるせえよ。でけえ声出してんじゃねえ。」
「いや、だってさ。可愛い当麻が。」
「わかってんよ。だけどな、おまえはデカブツで怒鳴ると怖いんだよ。」
「よく言うよ。お前こそチンピラみたいな恰好で近隣の皆様を脅えさせている不良刑事じゃねえか。俺がどんだけお前のために頭を下げていると思ってんだ。」
「え、でも。尚君はチンピラの時もカッコいいって、ええと、」
「お前!なつきの前でチンピラみたいなこともしたのか?してんのか?」
「お父さん!」
「ほら、なつき。お前こそ器を俺にかせ。で、お前こそ俺に取り分けてくれよ。」
なつきは一瞬で押し黙り、また人形みたいなぎょろめになって俺をはにかみながら見つめるという存在に変わってしまった。
これも自分が招いた事だと思うが、俺はここで少し寂しい感じも抱いていた。
出会った時の俺達は、いや、なつきは、俺には辛辣だった。
俺はそここそ楽しかったんだよな、と懐かしく思い出したのだ。
そう、ひたすらに俺を愛する、そんなのは俺には少々荷が勝ちすぎるのだ。
「お肉もう少し下さいです。豆腐はなしで。あと車麩も入れて。」
「当麻。お前マジ男らしいよ。」
「ありがとうです。でも、だから僕はだめですか?お父さんはお母さんじゃない女の人の方へ行ってしまいました。」
俺は今村に視線を向けた。今村は額に手を当ててしまったという素振りで顔を隠しているが、両目が恐ろしい輝き方をしている。恐らくも何も、妹と甥に今後は近づくな的な脅しぐらいは当麻の父にしていたのだろう。
ヘタを打ちやがって。
俺は取り分けた肉と車麩の上に花型人参を乗せると、今村の行動のせいで結局は物凄く傷ついているちびに向き合い、器を彼に差し出しながら言ってやった。
「お前は面白いやつだよ。スベスベマンジュウガニに毒があるって、お前に会えなきゃ知らないままだったよ。」
当麻は器を受け取りながら嬉しそうに笑い、それから俺を凍らせる一言を言い放った。
いや、俺の上司刑事である今村こそか。
「お父さんは海老は僕には毒だって覚えてくれないのにね。」