伯爵令嬢は子爵令息と婚約解消をする
ある日の夕暮れ、貴族の令息令嬢達が集まる全寮制の学園の教室で令息達の何人かが集まって賭けポーカーに興じていた。
「ほい!フルハウス!」
「だぁ~!今日はお前の1人勝かよ!」
「あーもう!今日はこれで終わりだ!終わり!」
「明日から昼は暫くパンだけだ~!」
学生が賭け事など禁止されていたが彼らはたまに放課後の教室に集まっては実家から送られてくる仕送りを賭けて勝負していた。
彼らは貴族の子息とはいっても家を継ぐ嫡男ではなく次男三男といった気楽な立場同士でこの学園の中ではあまり模範的な生徒ではない分類だった。
今回の賭けはその中の1人、ラウス子爵家の三男レオナルドが1人勝ちをおさめたようで彼は薄茶色のサラサラの髪をかき上げながら満足そうに掛金を回収していた。
そのレオナルドに仲間の1人が声をかける。
「レオ、お前卒業したらどうすんの?」
「あ?騎士団就職。それ以外に道があると思うのか?」
「ねーわな。俺らの頭じゃ文官試験に受かるわけねーしな」
貴族の子弟は18歳で学園を卒業したら余程のことが無い限り騎士団か文官として就職する。嫡男であれば次期当主として就職しなくても良かったが、次男三男は20歳で成人を迎えれば家を出されるため自分で金を稼ぐ必要があった。
「でもレオはサリス伯爵家に婿入りするんじゃなかったか?」
「まぁな」
「んじゃ態々騎士団なんてむさ苦しい所に就職しなくてもいいんじゃねーの?」
「俺は暫く独り身を謳歌したいんだよ」
「うわぁ、さすがモテ男は言うことが違うね」
「るせぇ」
「お前って無駄に外見だけはいいもんな!」
「中身は鬼畜なのにな!」
ギャハハッと笑い声がおきる。
笑われた本人は三白眼で睨みつけるが悪友たちは慣れているため意にも介さない。
「俺が知ってるだけでもお前に遊ばれた子って両手じゃ足りない人数いるよな?」
「遊んでねーし、向こうが勝手に寄ってくるんだよ」
「うわ、典型的なモテ男の科白だ。しばきてぇ~」
「レオの婚約者ってお前の女遍歴知ってるはずだよな?何も言ってこねーの?」
「知らねー。興味ねーし」
「レオ~、お前あの美人の婚約者の何が不満なわけ?」
「そうそう!美人で、しかももれなく伯爵家までついてくる超優良物件だぜ?」
「別に。ウザいだけだし。一緒に散歩しようだとか、お菓子作ったから食べてくれとか」
「お前、かりにも婚約者だろ?つくしてもらって嬉しくねーの?」
「押しつけがましくてイラつく」
「贅沢!お前バチが当たんぞ!」
「そうだよなぁ。いらんなら俺にくれ!」
「あぁ熨斗つけてくれてやるよ!」
「マジで!?」
「婚約解消できたらな!」
「お前、マジで言ってんの?」
「フッ、マジでもどうせ無理だろ?政略結婚なんだから」
「つーかお前、本当にあの婚約者の何がそんなに嫌なんだよ?」
興味津々といった体で問われたレオナルドは端正な顔に嘲笑を浮かべた。
「…胸…」
「「「「はあっっっ!!!???」」」」
「ツルペタじゃやる気になんねーの!」
「「「「ぎゃはははっ!ひでーー!」」」」
「お前らだってマスカットじゃ欲情しねぇだろーが!」
「マスカットって酷くないか!?ぷははっ!そんなにねーの?」
「ないね!下手したらデラウェアだ」
「お前ブドウの種類詳しいな!アハハハハ!」
「どうせならメロンの種類を詳しくなりたかったね!」
爆笑する仲間たちと共に笑い時計を見ると時刻はまもなく18時になるところだった。
「うおっ!やべー!もうこんな時間じゃん!」
いつの間にか日が落ち辺りはすっかり暗くなり始めていることに気が付いてそそくさと帰り支度を始める。
男子、女子に限らず寮の管理人は門限に煩い。破るとすぐさま実家に連絡されるので慌てて教室を後にして階段を駆け下りる。
だから誰も気が付かなかった。
隣の教室に噂のレオナルドの婚約者サリス伯爵令嬢メルディーネが息を潜めていたことに。
◇◇◇
寮の門限を破って帰ってきたメルディーネに管理人は目を丸くした。
というのも入学して3年、彼女は品行方正な生徒として通っていて門限を破ったことなど一度もなかったからだった。
「辞書を教室へ忘れてきてしまって…」
そう言った彼女の顔は蒼白になっていて今にも倒れそうだった。
教室から帰る途中で体調でも悪くなったのかもしれないと判断した管理人は今回は厳重注意のみとして部屋で休むよう言い渡した。
部屋へ戻ったメルディーネはベッドへ横になると呆然と天井を見つめていた。
脳裏に浮かぶのは自分の婚約者のこと。
風に靡く薄茶色の髪と濃い緑色の瞳。陶磁器のような白い肌にスっと形のよい鼻、薄い唇は不敵に弧を描き、いつも人を見下すような冷めた顔をしているくせに、笑うとくしゃりと相好が崩れて可愛らしくなる。
彼の顔と教室での言葉を思い出し胸がズキンッと締め付けられた。
レオナルドと初めて会った時にメルディーネはひと目で恋に落ちてしまった。
子爵家の息子だと聞いていたけれど王子様かと思ってしまうほど綺麗な男の子だった。
その頃はまだレオナルドも純真な子供で緊張して父の背中に隠れていたメルディーネに優しく声をかけると一緒に遊んでくれた。
お互い10歳という子供ですぐに仲良くなった2人に両家は婚約の話を進めた。メルディーネしか子がいないサリス伯爵家にとっても子爵家の三男であるレオナルドにとってもお互いうってつけの相手だったため2人の婚約はとんとん拍子に決まっていった。
婚約が決まってからも2人はしょっちゅうお互いの家を行き来して遊んでいた。
あの頃は本当に仲が良かった。
関係に綻びが見えてきたのは学園に入学して少し経った頃だった。
レオナルドは廊下ですれ違っても挨拶をしてくれなくなった。
昼食を一緒にと誘えば露骨に嫌な顔をして拒否されたし交わす会話も辛辣なものになっていった。
そして入学して1年が過ぎた頃、レオナルドに彼女が出来たと噂が立った。
嘘だと思った。でもそれから程なくして、たまたま街へ買い物に出掛けたメルディーネはレオナルドと学園で見かけたことがある女性が一緒に歩いているのを目撃してしまった。
その日は部屋に戻って泣きながらどうして?と繰り返していたメルディーネだったがレオナルドを問い質すことは出来なかった。
彼から嫌いだと言われるのが怖かった。
政略結婚なのはわかっていたがメルディーネはレオナルドのことが好きだった。
レオナルドの気持ちが自分にないことを思い知ったが、彼の婚約者でいたかったから浮気のことは父へ報告せず自分も知らないふりをすることにした。
その後もレオナルドはしょっちゅう違う子と付き合っては別れるを繰り返しているようだった。
いつかは自分の方を振り向いてくれるかもしれない。
結婚したら昔のように笑い合える日がくるかもしれない。
メルディーネはそんな淡い期待を込めて彼に嫌がられない頻度で声をかけたりしていたつもりだったのだが…。
天井の一点を見つめて大きく深呼吸をする。
上半身を起こし俯くと自分の太腿が目に映った。
視界を邪魔することなく太腿が見えるということはつまりその前に障害物がないことを意味しているわけで。
「ツルペタ…」
ボソッと呟いた声はかなり低い声だった。
貴公子然とした佇まいのレオナルドの隣に相応しい女性になりたくてこれまでスキンケアも化粧も身だしなみも随分頑張ってきた。勉強だって淑女の振る舞いだって彼のために努力してきた。
彼の気持ちを振り向かせようと必死だった。
今までだって嫉妬心を無理やり抑え込んで頑張ってきたのに、よりにもよって彼はメルディーネにとって最大のコンプレックスだった貧乳のことを友人達とバカにしていた。
今までもレオナルドから凹凸がないとか色気がないとか散々言われてきたメルディーネはせめて人並み位の大きさになりたくて牛乳をがぶ飲みしたり豆製品を食べたり、怪しい薬にまで手を出したこともあった。
結果、盛大に腹を下したり蕁麻疹が出たり高熱を出して寝込んだりと散々な目にあったことは彼女の黒歴史だ。
「結局遺伝だからどうしようもないって諦めたのよね…」
祖母も母親も叔母もみんな絶壁だったことに気づいてからは無駄な努力をすることは諦めて貧乳のことはあまり考えないようにしていたが自分の黒歴史を思い出して乾いた笑いが浮かんできた。
所詮男はみんなメロンやリンゴ、あわよくばスイカがいいのだ。
努力したってこればかりはどうしようもないのに、レオナルドは友人達と一緒に自分の胸をバカにしていた。面と向かって言われるのも辛いが隠れてバカにされているとは思わなかった。
メルディーネの心の中で何かが壊れる。
「いくらなんでもデラウェアはないでしょ?」
そう言葉にしたら何だかずっと彼を想ってきた自分が馬鹿バカしくなってきて声を出して笑ってみる。すると段々可笑しさがこみ上げてきてメルディーネは咽るまで泣きながら笑い続けた。
ひとしきり泣き笑いした後のメルディーネの心はここ数年の曇りがなくなったように晴れ晴れとしていた。
初恋だから大好きだからこそ繋ぎとめようと必死だったが、「もういいや」と一度思ってしまえば本来メルディーネは切り替えの早い人間だった。
その夜、メルディーネは黒い笑みを浮かべながら複数の手紙を認めた。
◇◇◇
レオナルドは機嫌が悪かった。
今までは数日おきに何かしら話しかけてきていたメルディーネが一切コンタクトを取ってこなくなったからだ。
卒業式間近だったので忙しいのかと思ったが廊下ですれ違っても目も合わさない彼女に友人達からも心配されたが平然を装い清々したと軽口をたたいてさえいた。
が、実の所レオナルドの胸中は穏やかではなかった。
メルディーネは美人だ。滑らかなストレートの長い濃紺の髪にぱっちりとした水色の瞳、瑞々しい肌は透き通るほど白くきめ細やかで小さなバラ色の唇は紅をささなくても色鮮やかで艶やかだった。
そんなメルディーネがモテない訳はなかった。
彼女は入学早々から男子生徒の人気が高くレオナルドは内心ハラハラしていた。自分の婚約者を他の男が色気のある視線で見ることが耐えられず、メルディーネを賛辞する言葉が出てくると決まって彼女を悪し様に言うようになっていった。
またメルディーネは穏やかな雰囲気だが芯が強く頭も良い。それに彼女は生徒会の仕事もしていて教師達からの評判も高かった。
あまり学業の成績が良くないレオナルドにとって婚約者のメルディーネの評判は思春期の彼を拗らせるのに十分だった。
そのせいで本当は彼女を大好きなくせに冷たく接してしまう自分がいた。半ば当てつけのように違う女性と付き合い、噂を聞いた両親が注意してくることもしばしばあったがそれも面白くなく無視を決め込んでいた。
容姿だけはいい己に近寄ってくる女は後を絶たず何人もの女性と付き合うレオナルドはかなりの遊び人として悪評が立っていった。
一方メルディーネは自分の良くない噂を知っているだろうに咎めもせず定期的に交流を持とうとさえしていた。幼い頃に一緒に遊んだ時の笑顔のまま自分の機嫌を伺うメルディーネの優しさにレオナルドは完全に胡坐をかいてしまっていた。
それに伯爵家の一人娘であるメルディーネは自分を婿に迎える以外に選択肢はないと高を括っていたのである。
結局メルディーネと会話をしないまま卒業式の日になってしまっていた。
式が終われば卒業生だけで記念パーティがあり婚約者がいる者はエスコートして参加するのが決まりだった。
だが当日になってもメルディーネはエスコートの要求をしてこなかった。
レオナルドは訝しんだが卒業式の後もメルディーネが話しかけてくる様子はなく友人達と話している間に彼女の姿を見失ってしまっていた。
憮然としながら1人パーティ会場へ入場したレオナルドに既に会場入りしていた幾人かが興味深そうな視線を投げかける。
婚約者をエスコートしていない自分へのあからさまな嘲笑と受け取って内心舌打ちをしたレオナルドだったが彼の眼はすぐに1人の女性を捕えた。
鮮やかな青糸の刺繍が施された白に近いベージュのドレスと瞳と同じ水色のリボンで髪を結ったメルディーネの清楚な美しい姿は遠くからでもよく目立った。
楚々とした制服姿の彼女も可愛らしいが艶やかなドレス姿も素晴らしい。
そんな彼女をエスコートできなかったことが悔やまれるし、周りから嘲りの笑いをされたことにも腹が立って、文句の一つでも言ってやろうとレオナルドはメルディーネの元へツカツカと足を進めた。
どうせ自分のことが好きなメルディーネのことだ。自分が不機嫌な態度をとればすぐにご機嫌とりに必死になるだろうと思っていた。
「メルディーネ」
「はい?」
レオナルドの不機嫌な声にメルディーネはくるりと振り返る。
澄んだ水色の瞳にレオナルドを映したメルディーネはドレスの裾を少し上げてお辞儀をする。
「レオナルド様、本日はご卒業おめでとうございます」
「あぁ。ところでそのドレス少し派手じゃないか?」
同学年のメルディーネだって卒業するのにレオナルドから祝いの言葉は出てこない。
ドレスだって良く似合っていると言いたかったのに嫌味しか出てこない自分に嫌気が差す。だが周囲の男共が頬を染めながらメルディーネの姿を見惚れていることがレオナルドは不快だった。
「凹凸の少ない身体でそんな派手なドレスを着たら無いものがもっと強調されるんじゃないか?」
鼻で笑うレオナルドにメルディーネはにっこりと微笑み返した。
控えめな胸がコンプレックスらしいメルディーネはこの嫌味を言うといつもなら悲しい顔をして俯いてしまうのだが今日は違うらしい。
違和感を覚えて眉を寄せたレオナルドにメルディーネは微笑んだまま言葉を告げた。
「私の凹凸についてはもうレオナルド様がご不快に思う必要はございませんわ」
「は?」
「レオナルド様は豊満な女性がお好きのようですものね」
「いや、別に…」
「これまでお付き合いをされた方も皆さん立派なものをお持ちでしたものね」
「メルディーネ、何を言っているんだ?」
これまでメルディーネはレオナルドが付き合ってきた女性のことなど一度も話をすることはなかった。しかし今、彼女は自らその話をしている。しかも話題は彼女が嫌がるコンプレックスの胸についてだ。
思い返してみれば確かにレオナルドへ言いよってきた女性は胸が大きかった。ということは自分はメルディーネに巨乳好きだと思われているのかとレオナルドは焦る。そりゃメロンやリンゴは好きだがマスカットだろうがデラウェアだろうがメルディーネだったら何でもいいのだと友人にツルペタ発言をしたことは棚に上げてレオナルドは冷や汗を垂らした。
焦るレオナルドにメルディーネは微笑みを崩さない。
「そんなレオナルド様に私が理想の女性をご紹介いたしますわ。皆さま、どうぞこちらへ!」
メルディーネの言葉に現れたのは3人の女子生徒だった。
レオナルドは現れた女子生徒に唖然とする。
1人目の女子生徒はとにかく丸かった。比喩ではなく丸かった。運動会での恒例競技である『大玉転がし』の大玉が自力で歩いてきたような体型でもはや胸と腹と尻の境目はわからない。丸い身体に丸い埋もれた顔の女子生徒はレオナルドと目が合うとニッタリと笑った。
「私の身体が目当てなんですって?はあ~男を魅了する巨乳を持つと苦労するわぁ~」
それ巨乳と称してもいいの?何食ったらそんなに丸くなれんの?
レオナルドは食われると戦慄した。
2人目の女子生徒は胸バーンの腰バーン、くびれキュっのメリハリボディで派手な化粧をしたそこそこの美人だったがとにかく体臭がキツかった。紹介するメルディーネもかなり距離を取っており時折顔を背けて息をしていた。自分の体臭に気づいていないのか女子生徒は悪臭を漂わせながら投げキッスの仕草をした。
「私とヘブンへ行きたいのは貴方?相手にしてあげても良くってよ?」
ある意味天国へ行きそうだ。もう臭過ぎて目まで痛い。
レオナルドは一口ゲロを飲みこんでやり過ごした。
3人目の女子生徒は小柄で華奢な身体だが巨乳で確かにスタイルは抜群にいい。しかしその上についている顔がホームベース型でかなりデカい上に、どうやったらその配置になるんだ?という程に顔のパーツの位置がめちゃくちゃだった。東洋の遊戯である『福笑い』のおかめでもこんなにおかしな配置にはならんだろう!?というツッコミなどどこ吹く風で女子生徒は歪な口を更に歪ませ笑った。
「顔はまあまあねー。まあ付き合ってあげないこともないけどー」
お前が他人の顔の評価をするな!語尾を伸ばすな!相方のひょっとこと何処かへ行け!
レオナルドは頭を抱えたくなった。
そんなレオナルドを他所にメルディーネはにこやかに微笑み続ける。
「巨乳好きと言われてもレオナルド様がどのような巨乳がお好きなのかわかりませんでしたので、嫌っている私と正反対の方をご用意しましたの。…まあ!レオナルド様ったらあまりの理想のお相手に言葉も出ませんか?」
メルディーネの言葉に遠巻きに見ていた周囲の生徒たちが騒めく。
強烈な3人の女子生徒にレオナルドは唖然としていたのだがメルディーネの言葉で周囲は見惚れていると勘違いしたらしい。
自分を見る周囲の目が好奇と哀れみに変わったことを知ったレオナルドはこんなのが好みだと周囲に誤解されるわけにはいかないとメルディーネに詰め寄ろうと手を伸ばした。
だがメルディーネが素早く後ろへ跳躍したためバランスを崩しよろけてしまい体勢を整えようと空を彷徨ったレオナルドの右手は大玉の胸(の辺り?)を掴み、左手はホームベースの胸を掴んで顔は強烈な体臭を漂わせる胸にダイブしてしまっていた。
黄色い声を上げる3人に周囲はレオナルドが我慢できずに手を出したのだと思い蔑むような眼差しを向ける。悪臭に辟易しながらもレオナルドは女達を押しのけ周囲を睨みつけた。
「ふ、ふざけるな!これは誤解だ!!大体俺にはメルディーネという婚約者がいるだろうが!俺は婚約者一筋だ!」
声を荒げるレオナルドにメルディーネは冷ややかな視線で告げた。
「まあ、レオナルド様からそんな殊勝なお言葉が聞けるとは思いませんでしたわ。今まで散々巨乳の彼女をとっかえひっかえしてらしたくせに。でも今更ですわね。私と貴方様との婚約は昨日正式に解消されましたのよ?ラウス子爵から聞いていませんの?」
メルディーネの言葉にレオナルドは目を見開いた。
そういえば昨日手紙が来ていたようだが今日のエスコートのことが気になって放ったらかしにしていたことを思い出す。実家からだったのでどうせまた小言だろうと思っていたのが悪かった。
「婚約…解消…?」
「ええ。私からの卒業祝いですわ」
「な…何で…?」
「だってずっと私のことが嫌いだったのでしょう?」
「それは…」
「ウザいって言ってらっしゃいましたもんね」
「そんなこと言った覚えは…」
「一ヶ月位前、放課後の教室で貴方がご友人達と話しているのを拝聴いたしましたの」
「え?」
「ごめんなさいね。あそこまで疎ましく思われていたなんて知りませんでしたから。もっと早く直接仰ってくださればよかったですのに」
「いや、あれは…」
まさかあの会話を聞かれていたのかと青くなるレオナルドに横から爽やかな声がかかる。
「お取込み中、失礼」
「マーティン様!」
声をかけてきたのは黒髪の誰もがよく知る人物だった。
だがレオナルドは彼との直接的な面識はない。成績優秀・品行方正な彼と素行不良なレオナルドでは同学年といえども隔たりがあったのである。
彼はマーティン・ミゲルといい侯爵家の令息でこの学園の生徒会長を務めていた。
少し長めの漆黒の髪と切れ長の青い双眸をした美男子であり女子生徒の憧れの存在である彼は浮いた噂がなく超堅物として知られていた。
そんな人物が何故自分へ話しかけてきたのか解らずに困惑しているとマーティンはレオナルドへは見向きもせずメルディーネの手を恭しく取り甲に口づけた。
「遅くなってごめんね。メル」
「いいえ。最後の生徒会長のお仕事お疲れさまでした」
「君をエスコートしなければいけなかったのに…残念だった」
「大丈夫ですよ。私も生徒会の他の皆さんも準備で先に来ていましたし」
「それでも私は君をエスコートしたかった…」
「もう、仕方ないですね。これからずっと一緒にいられるじゃないですか」
「ああ、式が待ち遠しいよ、私のメル」
マーティンはメルディーネの手を引き寄せるとそのまま腰を抱き彼女の濃紺の髪へ口づけた。
堅物の生徒会長の甘い振舞いに周囲の生徒らが目を瞠る。
レオナルドも目の前で繰り広げられている事が信じられず硬直している。
一体何故彼はメルディーネを私のメルなどと気安く呼び愛しそうに腰を抱いているのか理解できなかった。
自分の髪へ口づけの雨を降らせるマーティンを笑顔で宥めてメルディーネがレオナルドへ向き直る。
「私、マーティン様と婚約することになったんです」
「…え…!?」
目を見開いたレオナルドへマーティンが余裕の笑みを浮かべた。
「前々からサリス伯爵には打診していたのだがね。君との婚約が先だからと拒否されていたのだが、彼女から婚約解消の話を聞いてね」
「貴方はミゲル侯爵家の嫡男なはずだ。それとも貴方は侯爵家の跡継ぎの地位を捨てて伯爵家に婿に入るつもりか?」
「そうだよ。私はメルと結婚できるなら爵位などどうでもいいからね。幸い我が家には跡を継げる弟もいるし」
「まさか…」
あっけらかんと言い放ったマーティンにレオナルドは言葉を失う。
マーティンは微笑んでいたがその青い双眸は全く笑っていなかった。
「両親は私の意志が固いことを知って折れてくれたしサリス伯爵も随分悩んだみたいだが娘が幸せになるのならって承諾してくれたよ。君が婚約者のメルにあるまじき非道な行いをしていたことも伯爵はご存じだったようだしね」
青くなるレオナルドとは対照的ににっこりと微笑み見つめ合うメルディーネとマーティンにレオナルドは胸が締め付けられそうになりながら、藁にも縋る思いでメルディーネに詰め寄った。
「…メルディーネは…マーティン殿のことが…好き…なのか?」
「さぁ?まだわかりませんわ」
「へ?」
「でもどうせ政略結婚をするのなら私を好きだと言ってくれる方にしようと思いまして」
「な…んだよ…それ…」
「ですから政略結婚です。ミゲル侯爵家と繋がりができることは我がサリス伯爵家にとって利になりますし、今回の婚約解消の件でもマーティン様には随分とお世話になってしまいましたの」
「メルと結婚できるのならあの位のこと何でもないけど?」
「うふふ。ありがとうございます」
勝手に自分との婚約を解消したメルディーネと侯爵家を笠に着て彼女を横から掻っ攫っていったマーティンにレオナルドは怒りがこみ上げたが彼女が口にした政略結婚という言葉にふと気が付いた。
そもそも自分の親がいくら侯爵家の命令だとはいえそう簡単に婚約解消を了承するとは思えない。この国では王族や公爵家といえども先に結んだ婚約を無下に解消させることを法律で禁じていた。そう考えるとこの話はメルディーネが自分に嫉妬をさせるために起こした狂言ではないかと都合よく解釈してレオナルドは不敵な笑みを浮かべた。
「政略結婚がそんなに簡単に破棄できるわけないだろう?我がラウス子爵家がそんなことを了承するとは思えない」
「ですからマーティン様にお世話になったと申し上げていますでしょう?」
困ったような笑顔を作るメルディーネに未だ勘違い中のレオナルドはヤレヤレといった態度で首をすくめる。
「メルディーネ、いい加減茶番はやめたらどうだい?君の子供じみた遊びに付き合うほど俺は暇じゃないんだ」
レオナルドはそう言うとメルディーネを引き寄せようと腕を伸ばした。彼女が自分以外の男の腕の中にいるなんてこれ以上耐えられなかった。
しかしその手はマーティンによって払われる。
不愉快を隠そうともせず眉を顰めてマーティンを睨むと彼は蔑むような冷酷な色をした瞳でレオナルドを睨み返した。
「私の婚約者に気安く触れるのはやめてくれないか?君とメルの婚約解消についてはラウス子爵と話がついている。私が調べた君の今までの行いの証拠を突きつけたら子爵は黙って同意したよ。むしろ慰謝料を支払わずに済んでホッとしてるんじゃないかな?」
そう言ってマーティンが懐から出してきた書類を広げてみせる。婚約解消を了承した旨が記載されたそれにはラウス子爵のサインがしっかりと記入されていた。
レオナルドは漸くここで婚約解消が事実だと認識する。
呆然とするレオナルドにメルディーネは苦笑した。
「本当に…今まで婚約を引き延ばしてしまってごめんなさいね」
「うそだ…」
「私、レオナルド様が初恋で大好きだったから…でももう解放してあげますわ」
「…いやだ…」
「え?」
「解放しなくていい!婚約解消なんて…っつう!!」
レオナルドがそこまで言った所でマーティンの革靴の先端がレオナルドの膝下に高速で叩き込まれた。
所謂『弁慶の泣き所』を攻撃したマーティンの長い足はメルディーネが気づかないままに元の位置に戻され悠然と佇んでいるが青い瞳はレオナルドへ向けられ余計なことを言うなと雄弁に語っていた。
苦痛に顔を歪めるレオナルドにメルディーネは首を傾げた。
「レオナルド様?」
「メル、どうやら彼は気分が優れないようだ」
「そうですね。では私達はこれで失礼します」
「待て!メルディーネ!君は俺のことが好きなんだろう!?」
慌ててメルディーネを引き留めたレオナルドは足の痛さに少しよろけてしまい彼女の前に蹲る。メルディーネは少しだけ屈みながら彼にだけ聞こえる小さな声で呟いた。
「自分のコンプレックスをバカにする人間をいつまでも好きでいられると思う?胸の大きさで女性を選ぶなんて最低。死ねばいいのに」
抑揚のない低い声で一瞬何を言われたのか理解できなかったレオナルドが仰ぎ見た先にあったのはメルディーネの冷たい微笑だった。
彼女と初めて会ってから今日まで一度も目にしたことのない氷の微笑みと暴言にレオナルドが息を呑むとマーティンがメルディーネを引き寄せ労わるように彼女の輝く濃紺の髪を撫でながら囁いた。
「さぁ、もう行こうメル」
「はい。マーティン様」
氷の微笑を消して花が咲くように微笑んだメルディーネの腰をマーティンは抱き寄せ愛しくて堪らないというように彼女の髪へキスを贈る。その青い瞳は時折嘲笑うかのようにレオナルドへ向けられていた。マーティンの手がメルディーネの頬を撫で首筋を辿るとメルディーネは「んっ」と小さく可愛らしい声をあげて拗ねたように彼を見上げる。
「メルは感じやすいんだね。本当に可愛いな」
「もう!マーティン様ったら、からかわないでください」
「からかってなんかいないよ。君がこんなに魅力的だから自制がきかなくなる」
堪え切れないというようにマーティンはメルディーネの額へキスを落とす。
その青い瞳はレオナルドへ向け「胸はデカさより感度だろ」と雄弁に語っていた。
「愛しいメルディーネ、早く私のことを好きになってくださいね」
「…もう、結構…好き…ですわ」
目を見開くマーティンの手を取って照れたように口を尖らせたメルディーネだったが、くるりと踵を返すとレオナルドへ向かいそれは見事なカーテシーを作ってみせた。
「さようなら、私の元婚約者様」
泣き出しそうな顔をしたレオナルドに背を向けてメルディーネは彼女を愛してやまない婚約者と共に優雅に立ち去って行く。
呆然と座りこんだレオナルドの側には獲物を狙うように瞳をギラつかせた3人の女子生徒が彼を取り囲むように鎮座していた。
こうして伯爵令嬢と子爵令息の婚約は解消されたのである。