今夜は早めに寝ようか、少し前まではそんなことを思っていたわけだが、そこはすでに諦めた
「相棒というか……あなたの愛の棒、素敵でしたよ」
「「……………………」」
目の前に立っていたのはケイコお嬢ちゃん――まだ幼さの残る少女であり、その口から発せられたのはあまりにもあまりな発言。場に下りてくる沈黙は、お世辞にも心地が良いとは言えそうもなし。
俺が言葉を失ったのは困惑から。多分だが、ミヅキも似たようなものだろう。
今しがたに聞かされたセリフは、冗談にしては下品が過ぎる。付け加えるのならば、外見上の年齢にも似合うようなものではない。
ミヅキが吹き込んだのではなかろうな?そんな線も浮かばないではなかったのだが……
「でぇえええ!?」
それはミヅキ本人により、芝居とは取れぬ驚愕の叫びをもって即座に否定される。
「ちょ……!?イスズ伯母さんってば、急に何言ってくれちゃってるのさ!?」
ふむ。
続くのは、泡を食ったような問いかけ。その一部分は、俺の中にあったとある仮説を確信に変える。
イスズ、というのはよくわからぬが……
ミヅキが“伯母さん”と呼ぶ。そんな対象には、心当たりがあった。まして、ついぞ口にしたものは、この世には俺以外に知るものなぞ居ないはずのセリフ。
本当に、世の中というやつは何が起きるかわからないものだ。
よもや、あの時の有言を実行しようとはな……
俺はアイツのことを高く評価しているつもりでいたが、さらにその上を行かれたというわけか。まったくもって……どこまでも底が知れない女だ。
「はぁ……」
本当に……ここまでやられた日にはため息しか出て来ない。
「ため息の数だけ幸せは逃げていくらしいですよ?」
「はぁ……」
そんな涼やかな指摘に返してやるのは、ため息の上乗せ。
誰のせいだと思っているのやら……。この40年……いや、そうじゃない。
浮かんだ思考を訂正する。
お前と出会ったその日から、お前のおかげで吐かされたため息がどれだけあったことか。
「もう一度――」
「ああ、拳骨は結構ですからね」
「そうかい」
先の発言にかけて、「拳骨を落としてやろうか」と言いかけてみれば、先回りで出鼻をくじかれる。
そんなやり取りが――たまらなく懐かしい。
ああ。そうだな。間違いようもない。
そして、受け入れさせられていた。理屈ではなく、恐らくは感情でもない。心だとか魂だとか、そういった部分で。
「……40年ぶりになるのか」
「ええ」
「そうか……」
「ええ」
新しい私があなたのもとに帰るその時まで。
あの日、アイツはそう言った。
「帰って来てくれたのか」
「ええ。帰って来ましたとも」
軽く息を吸う。なにせ40年ぶりのこと。よもや、このような形でその名を呼ぶ機会が巡って来ようとは、それこそ夢にも思わなんだぞ。
「ケイト」
「ティーク」
名を呼び、名を呼ばれる。
我ながら単純なものだと、呆れてしまうところだ。
たったそれだけのことで、心から満たされていくような気がした。
すっかりと忘れていたとはな。あの頃は、いつもこんな気分でいられたというのに。
「ふふ」
おぼつかない足取りで俺の隣に座り、寄りかかって静かに目を閉じる。その重さが心地いい。
浮かぶ表情が幸せなものと思えたのは、多分俺の独り善がりではないのだろう。
「……アレ?」
「うん?どうかしたのか?」
幸福感、とでも呼ぶべきものに浸っていると、いつの間にやら近くにあった椅子に腰を下ろし、一部始終を眺めていたミヅキが首を傾げて、
「なんか、予想してたのと違うような……」
そんな、訳の分からぬことを言い出す。
「また“てんぷれ”がどうのという話か?」
「いや、そうじゃないんだけど……」
ミヅキが奇矯なことを言い出す時、小さくない割合で出て来たことなのかと問うてみれば、返って来るのは否定。
「なんていうかさ……。オジサンってば、その人がケイトサンだってことは理解してるんだよね?」
「ああ」
「つまり、感動の再会なわけだよね?」
「……だろうな」
感動、と呼ぶべきかはさて置くにせよ、少なからず心を動かされている自覚くらいはある。
「その割にはあっさりしてるなぁ、なんて思ったから」
「そういえば……ある程度の許可はもらいましたけど、そこまですら行っていませんでしたね」
「ふむ?」
ミヅキが言わんとすること。ケイトには理解出来たらしい。が、俺にはさっぱりだ。
「つまるところはですね……情熱的に抱き合っての口づけとか、そのままの勢いでベッドに……とか、ミヅキさんはそんな期待をしていたわけですよ」
「ああ、そういうことか」
「いや……期待まではしてなかったけど……。まあとにかく、そういうこと」
「そうは言われてもな……」
内面に意識を向けてみれば、喜びに分類される感情で満たされていることは疑いようもない、のだが……
「そういった衝動は感じないな。いや、当時の感情を思い出してはいるのだが、妙に落ち着いてもいるというかなんというか」
「奇遇ですね。私もです。ケイコさんの身体でそういうことをするのもどうかということで自制が働いているのかもしれませんね」
「たしかに、ありそうな話か」
感情はあるのだが、理性の方が優先してしまっている。俺もケイトも、似たようなものだったらしい。
「数年ぶりに再会する恋人たち、というのはこれまでにも何度か目にしたことはあったが……」
そんな記憶と今の自身を照らし合わせてみる。そこで見た連中と今の俺たち。違いがあるとすれば――
「老いた、ということだろうかな」
「老いた、ということでしょうかね」
俺とケイトが考えた理由は、見事に重なってしまう。
「あー、うん。よーくわかったよ。納得したわ。このふたり、間違いなくそういう関係だわ」
何故に、なのかはわからぬが、ミヅキが納得したというのならば、それでいいということにしておこうか。
それはさて置くとしても……
多少は気分も落ち着いた。そうなれば、気になるところはいくらでも湧いてくる。
「聞きたいことは山ほどある、ですか?」
「ああ」
またしても俺の思考に先回りをかけてきやがる。とはいえ、そんな感覚も徐々に思い出してきた。あの頃は、それこそ日常的にやられていたことだったのだから。
「私としても、あなたが過ごしてきた40年間については大いに気になっていますけど、それは後に回すとしましょうか。私のことについては、隠し立てをするつもりがなければ理由もありませんし、洗いざらい話すつもりでいますけど、差し当たりは……どこから話したものでしょうか、ね?」
そこで言葉を切り、穏やかな笑みを伴い、試すように目を合わせてくる。
「お前のことだ。俺の考えなぞ、とうにお見通しなのだろうが……」
「いえいえ。私に出来ることといえば、予想とか想像とか、そのあたりがいいところですよ」
「どうだかな。お前が読心を心得ていたとて驚かぬ自信はあるが。……まあいい」
こういったやり取りも楽しくはあるが、話を進めるとしよう。ミヅキがケイトに向ける目からは敵意のようなものをひと欠片すらも見て取れないあたり、心配は不要とは思えなくもないのだが、
「ケイコお嬢ちゃんは無事なのか?」
とはいえ、この点だけは有耶無耶というわけには行くまいて。
「もちろんです」
「そこはあたしも保証する」
「そうかい……」
そんな返答に安堵している自分が居た。
もしもの話ではあるが――帰るための代償として、ケイトがお嬢ちゃんを犠牲にしていた、などということになっていたのなら、平静でいられた自信はなかったところ。
「というかですね、ケイコさんにおかしなことをしでかした日には、他の蛇たちに殺されますって。私としても、命の恩人に仇を返すような恥知らずな真似は勘弁願いたいところですしね」
「…………なるほど、そういうことか」
ケイトの正体が見えて来た。
「あの白子蛇が、お前だったんだな?」
問いかけではなく、付加疑問。
「ええ」
それに対してケイトは静かに頷き、
「でぇえええ!?」
なぜかミヅキは驚愕の声を上げる。
「ミヅキさん?」
「あまり脅かしてくれるな」
「いやいやいやいや!?」
そう窘めるのだが、ミヅキはブンブンと首を振るばかり。
「なんでそこまでわかっちゃうわけよ!?まだ何にも言ってないよね!?」
「たしかに直接は言っていなかっただろうが……」
「間接的には言いましたよね?」
「ああ。少なくとも、材料は揃っていた。お前のことだ、そのあたりも意図してのことだろう?」
「はい。気付いてくれなかったら立つ瀬が無くなるところでしたよ」
例えば――他の蛇たちという言い回し。わざわざ“他の”と付け加える理由は何か?
例えば――お嬢ちゃんが命の恩人であるということ。その上で、今の今まで現れなかったこと。
そのあたりを考えれば、自ずと答えは見えてくるというもの。
「……このひとたち頭おかしいよ」
「失礼な奴め」
「失礼なひとですね」
昨日と今日で何度か起きたものとよく似たやり取りが繰り返され、
「って言うか、オジサンが頭おかしい由来が見えた気がする。このふたり、絶対似た者同士だ……」
これまた失礼な形で勝手に納得される。
「ま、いいけどよ……」
「ま、いいですけどね……」
とはいえ、俺もケイトも、そんなものを気にしてやるほどにお人好しであるはずもなし。
「繰り返しになるが、お嬢ちゃんが助けた死にかけの白子蛇。アレが、お前だったんだな?」
だからさっさと話を進めることにする。
「ええ。正確には、アレが私……かつてあなたと同じ時を過ごしたケイトの生まれ変わった姿、といったところでしょうか」
「それで、何がどうなっている?」
生まれ変わり、という部分はとりあえずそういうものだということにしておくとして……今ケイトが居るのは、お嬢ちゃんの心の中だったはずだが。
「あなたが言った通り、ケイコさんに救われなかったなら私はあの世に逆戻りしていたことでしょうね。今はすっかり元気になりましたけど」
お嬢ちゃんの中が蛇共にとってどのようなものなのかは聞いている。その通りならば、瀕死だったあの白子蛇――ケイトが全快したと言われても、一応の納得は出来る。
「意識が戻ったのはついさっきですね。それでケイコさんと話していて、思ったんですよ。ケイコさんの心の中に居るのなら、一時的にでも身体を貸してもらえないかな、って」
「試してみた結果が、御覧の通りというわけか」
「そういうことです。ちなみに、他の蛇たちも試したようですが、無理だったみたいです。ここからは想像になりますけど、人間だったことがある私だから可能だったんじゃないかな、と」
「それでも、満足に動くことができる、とは行かなかったらしいな?」
ここに来た時、ミヅキに手を引かれていたのはそう言った理由からだろう。
「ですね。話すのはともかくとして……正直、普通に歩くのも難しいといいますか……。ともあれ……そんなわけで、さっきまで3人で話していたんですよ。あなたも知っているようですけど、かつてあなたと共に過ごした私もミヅキさんと同じくニホンからの転生者でしたし、ケイコさんとも同郷。共通の言葉がありましたので」
「ふむ」
そんな事情であれば、お嬢ちゃんは無事と見てもよさそうか。
「とりあえず、一度ケイコさんに代わりますね。その方があなたも安心出来るでしょう?」
「たしかにな。そうしてもらえるか?」
「心得ました」
そうして目を閉じ、
「ダンナ」
すぐに目を開くと、そんな風に俺を呼ぶ。
なるほど、こうして見れば差は歴然か。
ケイトが話していた時は一見穏やかでありながら、どこか油断ならぬ雰囲気を湛えていた。一方で今のお嬢ちゃんは、純粋そのものと言った風。
むしろ、その差を違和感程度にしか掴めなかった先ほどの俺が間抜けだったとすら言えそうな話だ。
「ダンナ、わタシ だイジョウぶ。イスズ レティラ」
その口ぶりには、無理に耐えているような色は皆無。
「ご安心頂けましたか?」
そして、ケイトと代わったのだろう。口調だけでなく雰囲気までもが変わる。
「ああ。もっとも……お前が本気ならばお嬢ちゃんどころか、ミヅキまで丸め込んで思い通りに操る程度のことはやりかねないのだろうが……」
「まあ、それは否定しませんけど……」
「いやいや、そこは否定しようよ。というか、何気に怖いこと言ってるんですけど……」
「だが、こいつがやらかした過去の所業を思うとな……」
「ティークと組んでいた頃は、散々やってきましたからね……。そこを突かれると言い返せないと言いますか……。ですから――」
言葉を切り、表情を引き締める。
「ケイコさんに受けた恩。仇で返すようなことはいたしません。示せる根拠はありませんが……信じてはいただけないでしょうか?」
「そうさな……。たしかにお前は、騙し欺き陥れなぞは息をするようにやってのける奴だったが……」
「オジサンってば、恋人のことなのに滅茶苦茶に言うね……」
ミヅキが呆れ気味に言ってくるが、事実なのだから仕方あるまい。
「差し当たりは、その言葉を丸呑みしておこうか」
「……丸呑み、ね。それは、思っていても黙っておくべきなのでは?」
その言い分も道理。こういったことを、わざわざ相手に聞こえるように言ってしまうなぞ、普通であれば阿呆の所業だ。
「ま、それは別にいいんですけど」
「別にいいんだ!?」
またもやミヅキが声を上げるが、それもさて置く。
「仮に隠し立てをしたところで、お前ならば即座に見抜いてきそうなところなのでな」
「いえいえ、さすがにそこまでは。私など、一介の元鏡追いに過ぎませんよ?」
「どの口が言うのやら……」
あれから40年。あれやこれやと経験を重ねてきたが……否、経験を重ねてきたからこそと言うべきか。今ならば、当時以上にケイトの恐ろしさがよくわかるというもの。
俺とて、騙そうとしてくる輩を逆に陥れることも幾度とやってきた身の上だが、そんな今でも、ケイトの影を踏める自信は無く、敵うなどとは夢にも思えない。
「……っと、いけませんね」
「……そうさな。いつまでも楽しく遊んでいるわけにも行くまいか」
「ほぇ?どういうこと?」
「別に俺とケイトが険悪をやっていたわけではない、ということだ」
「ええ。私たちにしてみればいつもの遊びですし。とはいえ、久方ぶりということもありまして、つい夢中になってしまいましたね。置き去りにしてしまったこと、お詫びいたします。ミヅキさん、申し訳ありませんでした」
「俺も詫びよう。済まなかった」
なんだかんだと言ったところで、少しばかり、ではなしに舞い上がっていたのだろう。
「え?えぇ……?」
そう。今のようなやり取りは、俺たちの日常だった。互いの揚げ足を取り合う、とでも呼べそうな行為ではあるが、ケイト相手ならば楽しいというもの。負けが込んでいた点だけは腹立たしくもあるが。
とはいえ、その中で思ったことも本心ではあったのだが。
付け加えるのであれば、ケイトがお嬢ちゃんをどうこうする心配なぞ、あの白子蛇がケイトだと知った時点で跡形も無く吹き飛んでいた。
俺の知る誰にも勝る悪辣さを備えていたケイトだが、筋の通らぬ真似を何よりも毛嫌いしていた。そんなケイトのこと。受けた恩の大きさからすれば、可能な限りはお嬢ちゃんの味方であり続けようとするだろう。
それこそ……お嬢ちゃん自身が外道に堕ちるようなことにでもならぬ限りは。
「さて、逸れた話を戻すとしようか」
差し当たり、お嬢ちゃんに類が及ぶ心配は消えた。そうなれば、次はケイトにまつわるあれやこれやを聞き出したいところ。
「ええ。先も言いましたが、洗いざらいを話すつもりでいますよ。ですけどその前に……」
「なんだ?」
「申し訳ないんですけど、もう一度だけ、脇道に逸れさせてくださいな」
「ま、いいけどよ……」
今夜は早めに寝ようか、少し前まではそんなことを思っていたわけだが、そこはすでに諦めた。間違いなく、長い話になるだろう。
「で、どこの脇道に入るつもりだ?」
「ええ。3人で話していた時も気になったんですけど……私とケイコさんの名前って、紛らわしいですよね?」
そうして言ってきたのは、昨夜にも聞いたような内容だった。




