言葉というやつのありがたみを、痛いほどに思い知らされた
さて、まずは――
しゃがみ込んだままで、謎言語で蛇共と話し込んでいるお嬢ちゃん。そこにいきなり声をかけることはしない。普通に後ろから呼びかけたつもりが、相手がビクリと反応する、などとは、たまにある話だ。
お嬢ちゃんを驚かせた結果、蛇共を刺激してしまう、などともあり得ない話ではない。
これでも何十年もこの道で食ってきた身の上。些細な用心を怠った結果、割高の報いを受けさせられた。そんな話は飽きるほどに聞かされてきた。付け加えるなら、俺自身も嫌というほど理解――いや、体験させられてきた。
だから初めに、軽く小さく、パンパンと手を叩く。
「クゥレフィト」
そして、目論見通り――というほどに大げさな話でもないが――振り向いてきたお嬢ちゃんに目を合わせて膝を落とす。蛇共の警戒がひとつ上がったような雰囲気もあるが、今は無視しておく。お嬢ちゃんの害になるような真似をしないのなら、襲ってくることないだろう。多分。
「なあ、お嬢ちゃん」
伝わっている訳がないと分かった上で声をかけ、指の一本を立てる。
「タットフィト」
軽く指を振ったのは、お嬢ちゃんの意識を指先に向けさせるため。それを目線から確認しつつ、ゆっくりと指先を俺の顔に向けて、ひと呼吸だけの間を取ってから俺の名を言葉に出す。
「……ティーク」
内容は端的にそれだけ。余計な前置きやらは一切入れない。ここで「鏡追いのティークだ」などと言った場合“カガミオイノティークダ”までを名前と誤解される恐れもある。何を馬鹿な、とも思わぬでもないが、何せ言葉がまるで通じない相手。面倒を避けるための手間は惜しむべきではない。
「クゥレ……」
お嬢ちゃんはパチクリと瞬きを繰り返す。表情から「何言ってるんだコイツは?」ってところだとあたりを付けておく。まあ、すぐに伝わるとは思っていない。
「ティーク」
だから、一度空に向けた指先を俺の顔に戻して繰り返す。
「ティーク」
さらにもう一度。ここでお嬢ちゃんの顔にも変化が起きた。ハッと何かに気付いた様子。そして、
「ティー……ク」
こちらに指先を向け、恐る恐ると俺の名を口にし――その一言でもって俺の古傷を殴りつけてくれやがった。
「そういうこと、か……」
名を伝えるという、差し当たりの目標は果たせた。だが、お嬢ちゃんの返答が俺の中に連れて来たのは、鈍い痛み。
だから、このお嬢ちゃんの声が引っかかっていたのか。
口にしていたのが謎言語だったから、すぐには気付けなかった。そして、聞きなれた単語――俺の名が出てきたことで、ようやく理解できた。
このお嬢ちゃんの声。雪解けの水を思わせるような透き通った声は、アイツにそっくりなのか、と。
アイツ――40年も前に俺がこの手で送り、俺の今の生き方を決定付けて、そして――俺が未だに未練がましくしがみ付いている女と。
「ティーク」
「あ、ああ。ティークだ」
とんでもない奇襲をしてくれたお嬢ちゃんだが、感傷は押し込めて意思の疎通を進める。
「ティーク」
もう一度、同じように名乗り、今度は指先をお嬢ちゃんに向ける。
「……クゥレフィト」
さっきから何度か口にしてる言葉だな……。 “クゥレ”とは、「うん?」とか「よう!」とか「ああ!」あたりの、特に明確な意味を持たない言葉なのか?“フィト”も何度か出ているが……こちらもよくわからぬな。
「ティーク」
そんなことを考えつつ、同じことを繰り返す。
「クゥレ!」
また、お嬢ちゃんの表情が変わる。今度は2度目で気付いてくれたらしい。
「ケイト!」
「……嘘、だろう」
そして自身を指差して告げた名前。それは、またしても俺の古傷をぶち抜いてくれるものだった。
ったく……なんて偶然だ……
アイツと同じ声の持ち主だったお嬢ちゃんは、よりによってアイツと同じ名前と来たものだ。これは……何があってもこのお嬢ちゃんを見捨てることはできなくなったな……。仮にだが、領主のひとりふたりを敵に回すことになろうとも。
腐っても自分自身のこと。それくらいには理解してるつもりだ。理性が何を言ったところで、このお嬢ちゃん――ケイトを見捨てるなんてことは感情が許してくれないだろう。決して、断じて、何があろうとも。
「クゥレフィト」
不思議そうに見つめてくるお嬢ちゃん。俺の反応を不可解に思ったのか?
「いや、なんでもない。…………ケイト」
お嬢ちゃんの名を返すのに空いた多少の間は、上っ面だけの踏ん切りを付けるのにかかった時間。
「……ケイトフィト。キーシュ!」
何かを考えるように一瞬動きを止めたお嬢ちゃんは、ブンブンと首を振る。
解釈を間違えたのか?そういや、“キーシュ”もさっきから何度か言ってるようだが。よく使われる言葉なのか?横の首振りと合わせて使っているということは……否定を意味しているのか?
「ケイコ」
「うん?」
繰り返された名乗りに違和感があった。
「……ケ、イ、コ!」
今度はゆっくりと、ひとつずつ音を切りながら口に出してくる。
ああ、そういうことか。
そのおかげで俺も理解できた。歳食って耳が遠くなるというのは、まだ俺の身には起きていない……と思いたい。ただ、なまじ声が同じだったことで、先入観だか思い込みだかが湧いていたのだろう。そういうことにしておく。
「ケイコ?」
その名を――60年以上生きてきて初めて耳にする名を復唱する。あるいは、極めて珍しい名前だったことで、無意識が余計な修正をいれていたのかもしれぬか。
珍しいという意味では“元凶”やその探し人にも匹敵しそうな……いや、響きといい、“コ”で終わるところといい、通じる部分もあるような気もするが……。まあ、それは今は置いておくか。
「ラペット!ケイコ!」
ともあれ、俺のオウム返しに対するお嬢ちゃんの反応は縦の首振り。つまり、お嬢ちゃんの名前は“ケイコ”で確定と見ていいだろう。“キーシュ”の例からすると……“ラペット”は肯定ということになるのか?まあ、どちらも決めつけるのは早計か。
それはさておくとして。
やれやれ……
いろいろあったとはいえ――思った以上に疲れた。人付き合いの基本中の基本。互いの名を伝え合うだけでこれほどとは。言葉というやつのありがたみを、痛いほどに思い知らされた。
これが、お嬢ちゃん――ケイコとの出会いだった。