その味は心が決める、か
大きく息を吸い込めば、明け方のひんやりとした空気が腹を満たす。山麓の穏やかな雰囲気の中で空を見上げれば、早起きの小鳥がなにやらをさえずる。今日はいい天気になるだろうなと、そう思えるような空模様。そんな、爽やかという言葉を絵に描いたような中で――
「はぁ……」
俺の口から流れ出るのは、あまりにも周りに似つかわしくない。辛気臭く、どんよりとしたため息だった。
屋外で座ったままに夜を明かしたから、というわけではない。
ベッドで眠る方が格段に気分はいいだろう。
こんな眠り方では疲れも抜けきらないというのもあるだろう。
それでも、この程度はすっかりと慣れている。
「はぁ」
さらにため息をひとつ。
そうさせているのは体調ではなく、気分的なもの。精神的なものだ。
それらが、身体にまで影響を及ぼしているだけのこと。
だからなのか、いくらため息を吐き出してみても、腹の底で渦を巻き、淀んでいるものは、消える気配すら見せてはくれなかった。
軽く右手を握るだけでも、そこには違和感がある。
気怠い、というやつなのだろう。恐らくは、身体の動きも分かりやすく悪くなっているはずだ。
ここが戦場だったらよかったものをと、そんなことまで考えてしまう。
クサクサしていても仕方があるまいな。
懐から引っ張り出した小瓶を開ける。
朝っぱらからというのもどうかとは思うが、そこも今は目をつぶる。そして、
「……その味は心が決める、か。よく言ったものだ」
ここ数日はあれほど旨いと感じていたユグ村産の酒。それも、まるで味気が無かった。またひとつ、ため息の数が増える。
何故に俺がこんな思いをする羽目になったのかといえば、それは夢見が悪かったから。最悪だった、という方がより適切だろうが。
今しがたの夢に見たのは、俺がアイツと――ケイトと過ごした日々の中ではただひとつと言ってもいいであろう、苦い記憶。ケイトを失った日の記憶だった。
あれから40年が経つというのに……夢に見ただけでこのザマとはな……
自分が褒められた心根の持ち主だとは、毛の先ほどにも思ってはいなかったが、それでも見損ない直しそうになる。
ま、いいけどよ……
無理に振り払おうとしても、徒労に終わるのは容易に予想が付く。ならば、あの頃に思いをはせるのもいいだろう。
ケイトを失ったあの日。俺が選んだのは、手近なクズ共への憎悪で隙間を埋めること。何故にそんな選択をしたのかは今でもわからない。
ともあれ、浴びるように酒を呑んでは、クズ共を潰す仕事を引き受け、二日酔いのままに嬲り殺す。
そんな、酒と血に溺れるような日々。それでも返り討たれない程度には、腕があったということなのだろう。不本意ながら。残念なことに。
正直なところ、あの頃の俺は狂っていた――あるいは、狂いかけていたのではなかろうかとも思っている。
そんな折に訪れた転機は、ある意味では当然であり、自業自得とも呼べそうなもの。
クズ共にしてみれば、俺はこの上なく目障りな存在だったことだろう。そして、連中にも、クズなりのつながりというものはあったらしい。
結果、ひとりの剣士が連中に雇われ、刺客として差し向けられることになった。
鏡追いに限らず、荒事で食っている連中の大半は鉄杖を得物としており、剣を使うのは、立場上の見栄えを気にする輩――各地方の領主関連くらい。というのが世の中の常識だが、まれに例外も存在する。
それが、剣士と呼ばれる連中。
そいつらは、剣を振るうということに強い矜持を持つ者が多く、総じて腕も立つ。
俺を殺しに来たのも例にもれず、当時の俺を圧倒する使い手だった。
勝てたのは、不幸な偶然だ。追い詰められて苦し紛れに繰り出したあの芸当が、相手の剣を砕き、そのまま頭までを潰していた。
そして、殺し合いの熱が覚めた頭で思った。
全力で生きあがいて、その上で力及ばず。そんな死に方ならば、アイツと約したことにも反しはしないだろう、と。
それ以来始めたことがふたつ。
ひとつは、馬鹿が付く程にお人好しな正義の味方サマを演じ続けること。
そういう手合いが早死にするとは、散々言われている。心底からそんな人間になることは出来なかろうが、演技でも多少の効果は期待出来ると考えたから。
もうひとつは、死神が好みそうな仕事を好き好んで受けるということ。
これも目的は同じ。全力を尽くした上で果てるための手段。
何とも屈折した思考だとは承知している。
そして、そんな生き方を続けてきたにもかかわらず、今でもこうして生きているというのは皮肉が過ぎる。
ともあれ、40年先にまで夢でうなされることになろうとは、当時の俺には――それこそ夢にも思えなかった。
昨日今日と立て続けでアイツを夢に見たのは、間違いなくあのお嬢ちゃんの影響だろうが。
ケイトとよく似た名前を持ち、ケイトとそっくりの声を発するお嬢ちゃん。重ねるべきではないと、理屈ではわかっていても、勝手に重なるのだから困ったものだ。
まあ、ケイコお嬢ちゃんには何の非があるわけでもないのだろうが。
っと、噂をすれば、というやつか。
そうこうする内、ひとつの気配が近づいて来る。早起きの連中は畑に出ているであろう時間帯だが、こんな村のはずれにやって来るのは、俺に差し入れを持って来るケイコお嬢ちゃんくらいのものだろう。
「ティーク」
やれやれ……
名を呼ばれる。それだけで、わずかばかりに心身が軽くなった気がした。
まったくもって、俺の心というやつはどうなっているのやら。
目を向ければ、昨日と同じ。湯気の昇る木のカップを持ったお嬢ちゃんの姿。
「よう。今日も早起きだな」
「クゥレ……。タライト」
そう答えて歩み寄って来る。
“タライト”は昨日も朝に聞いたな。“おはよう”みたいなものだろう。
「ケイコ、タライト」
「……クゥレ!ティーク、タライト」
試しにオウム返ししてみれば、嬉しそうに返してくる。この使い方は正しかったようだ。
そして、そんな顔を見て、また少し淀みが晴れていた――
「ティークフィト」
「うん?」
のだが、手が届く距離までやって来て、ホットミルクのカップを手渡したお嬢ちゃんが見せたのは、不安げな目。
「ダいじょうぶフィト。ルボル カルムフィト」
俺の額に手を当てて来る。どうやら心配をされたらしい。
夢見の悪さに起因する不調は、上っ面にも表れていたということなのだろう。
「心配しなさんな。大したことじゃない」
少しでも安心出来ればと、頭を撫でてやるのだが、それでもお嬢ちゃんの表情は晴れず。
「……パシブ ディガ」
表情口調状況から予想はついた。無理はするな、とでも言っているのだろう。
言われるまでもない。俺――に限ったこととも思えはしないが――が無理をするのは、必要と判断した時だけだ。
お嬢ちゃんが心配するとなればなおのこと。
それに――
事実として、こうやってお嬢ちゃんと言葉を交わすうち、ゆっくりと調子は戻りつつあったのだから。
その後、“タライト”やら “オゥグ”やらを教えている内に山から蛇がやって来て、昨日と同じようにお嬢ちゃんと何やらを語らい――ほどほどで切り上げて宿に戻る頃には、夢見の残渣はだいぶマシなものになっていた。




