遠い日々・順調な時は何で順調だったのかも考えておくべき、か
その時の俺は深く、深く落ち込んでいたんだと思う。それはもうドン底まで。少しでも気が晴れればと屋根に上がり、良く晴れた空を眺めても気分は曇天色で。心を満たしていたのは、後悔と自責と自己嫌悪と苛立ちくらいのもの。だから――
「ティーク」
「……」
雪解け水のように透き通った声がすぐ隣から聞こえる。
「ティーク」
「……」
ケイトに名を呼ばれても応える気力すら湧かず、
「ティーク」
「……」
ケイトに肩を揺さぶられても振り向くこともなく、
「ティーク」
「……なんだよ」
ケイトに正面から見つめられても、投げやりな言葉を返すだけ。
「……はぁ」
そんな様を見てケイトはため息をひとつ。呆れられたのか、はたまた――
いっそのこと、見限ってくれても構わない。いや、見限ってくれた方がすっきりするんだろうか?
そんな、後ろ向きもここに極まれりといったことすらも考えていた。
「時と場合は考えるべきだと思いませんか?」
「わかってるよ!」
全ての非は俺にあり、ケイトには何の落ち度もない。いや、むしろ……ケイトが機転を利かせ、身体を張ってくれたおかげで、俺は今こうして生きていられるんだとも自覚していた。形だけの師弟関係とはいえ、情けないことこの上無しだ。
それなのに、礼のひとつも言えず、逆に怒鳴り返してしまう。全くもって、どこまで見下げ果てた男なんだろうか。自分がこれほどのロクデナシとは知らなかった。
「いいえ」
そこに降りて来るのは、静かで穏やかな否定。
「あなたは何もわかっていない」
「ああ!そうだろうさ!だからこんなことになったんだろうが!お前に言われなくて……!?」
なおも見苦しくわめく俺を黙らせたのは、指の一本。見苦しく激昂する俺とは対照的に、ゆっくりと、そっと、静かに。口元に当てられた指先が言葉を奪い去る。
「もう一度言いますよ。あなたは、何も、わかっていない」
言い聞かせるような落ち着いた口調。それが、熱くなった頭に染み込んで、ゆっくりと冷ましてくれた。
「そうだろうな」
だからなのか、今度は素直に受け入れられた。
「大体がですね……まだ真っ昼間じゃないですか。黄昏れるなら日暮れ時。黄昏れ時まで待つべきなんです。私の言ってること、間違ってますか?」
「そっちかよ!?」
クスリと微笑んで言ってきたのはそんなこと。
確かに、俗に言うところの『黄昏れる』という状態だったのは事実だろう。が、それをわざわざ指摘されるとは思っていなかった。だから、反射的にツッコんでしまったのも、無理からぬことだと俺は思う。
「そうですけど?」
俺の内心を知ってか知らずか『この人何言ってるんです?当り前じゃないですか』と書いてあるような顔で不思議そうに問い返してくる。
「雰囲気って、大切だと思いません?」
「……ったく」
「ま、いいですけどね」
漏れて出たのは苦笑。
そんな、微妙に間の抜けたやり取りをするうちに、幾分か心も軽くなっていた。いや……
軽く、させられたんだろうな。
付き合いはすでに1年になる。それくらいには、こいつのことを理解している自信はあった。他者を踊らせることに関しては、異常なまでに長けている女なんだ、と。
「ふふ。へしょげているあなたもいいですけど、笑っている方が気分的には楽だと思いますよ。それが苦笑いだったとしても、ね」
そして、この1年間。ただの一度も口で勝てたことはない。連敗記録がまたひとつ、更新されていた。
「けどな……」
おかげで、と言うべきなのか、いくらかは気分も上を向いてきた。今ならば、多少は思考もまともに泥沼からは這い出せたとも思う。
「俺が下手を打ったのは事実だ」
報酬に釣られてヤバい仕事を引き受けて、野暮用があるからとケイトに隠してひとりで突っ走って、その結果として騙され嵌められて殺されかけた。
「そのせいでお前まで……」
半ば死を覚悟し、内心でケイトに詫びを入れていたところに駆けつけてくれたのもケイトで。そのおかげで俺は命を拾うことができた。
結果だけを見れば、上々と言えるだろう。
だが、鏡追いに危険は付き物、全ては自己責任。なんてのは言い訳にもなりはしない。
「……ああ、そんなことでしたか」
「いや、そんなことって……」
何かがひとつでも違っていたなら、俺だけでなくケイトまでが屍をさらしていたところだった。俺が手傷を負ったのは自業自得としても、ケイトが無傷で済んだのは幸運に恵まれただけのことだ。普段は神なぞ信じはしない俺だが、今だけはそのことを感謝したい気分ですらあった。
「鏡追いに危険は付き物、全ては自己責任。でしょう?それに、あなたが無事だったこと、心から嬉しく思いますよ。そう考えれば、無茶をした甲斐もあるというものです」
ふんわりと微笑んで口にしたのは、言い訳にならないと俺が考えたこと。
騙しが上手い女だとは理解させられている。けれど――
「何で俺を責めない?」
今のケイトが嘘を言っているとはまるで思えない。
「はぁ…………」
そんな問いかけへの答えは、深い深いため息。
「何でそんな面倒なことをしなきゃならないんですか。やる価値があるならまだ我慢もしますけど、無駄以下の無意味以下ですよ、それって。私にとってもあなたにとっても、損にしかならないのに」
「いや、流石にそれはどうかと思うぞ」
「どうしてです?だって――」
甲にある真新しい傷を包み込むように、そっと手を握られる。日頃から鉄杖を振るって食い扶持を稼いでいるその手は、ところどころに武骨な硬さがあり、それでいて男の俺には無い柔らかさも備えていた。
間近で俺の目を覗き込む瞳は静謐な翡翠色で、湛えられた穏やかな光は俺の奥底までを見透かすんじゃないかと錯覚してしまう。
「あなたは反省しているじゃないですか」
そして、告げられる透き通った声は、慈しむように、どこまでも優しかった。
「そんなこともわからないような節穴じゃないと思うんですけどね、私の目は」
「そ、それはそうだろうが……」
一度の失敗であの世に行く、なんてのは鏡追いの間ではよくある話だ。
ならば、失敗から生き延びた鏡追いがするべきは――事実を睨み据え、そこから自身の糧となるモノを掴み取ること。それが出来ないようなら、遠くない内に死神の世話になることだろう。
だが、それはそれとしても――
「俺のせいでお前にまで危ない橋を渡らせちまった。そのことは、どれだけ責められても文句は言えない、ですか?」
「……なんでそれを!?」
俺が考えていたことに、ケイトは先回りをかけて来やがった。
いや、たしかに恐ろしく頭の切れる奴ではあったんだが。
「はぁ……。ま、いいですけどね……」
わかりやすくため息を吐かれてしまう。
「そんなことだとは思っていましたけどね。確かに、私には今回の件であなたを責める資格はあるのかもしれない。ですけど……」
「ですけど?」
「今回の件であなたを責めない資格だって、私にはあると思いますよ。というかですね、それを奪うとか言い出したら怒りますけど。いえ、むしろぶん殴る」
「……それはそうだろうが」
殴る云々はともかく、言っていること自体は何も間違っちゃいない。
「でしょう?それなら、どうするかは私が決めること。私としてはですね、その……あれです……す、す……」
「す?」
何やら急に口ごもりだした。
「好きな!……ひとに、無駄な嫌がらせなんてしたくないんですよ」
わざわざ押しかけ弟子になってまで付いてくるくらいだ。好きと嫌いで線引きしたのなら、嫌いの方に入ってはいないだろうが……
「なら、嫌いな奴には?」
「もちろんやるに決まってるじゃないですか。かけていいと思える手間暇の範囲で全身全霊かけて」
思い付きでの質問に返してきたのは、ためらいの切れ端すら見えない、清々しいほどの即答だった。
「嫌いな奴に嫌がらせするのって、すっごく楽しいですよね」
そして、実に良い笑顔で恐ろしいことへの同意を求めて来やがる。
今のところは、俺は嫌われていないらしい。なら、それでよしとしておくか。正直なところ、ケイトに嫌がらせの標的とされる奴には同情しないでもないが、そこは不運だったなご愁傷様、ということにしておこう。
「私はね、こう思うんです」
にこにこ笑いを引っ込め、真面目な表情になったケイトが空の彼方を見つめる。
「反発ほど反省を妨げるものは無い、って」
「……どういう意味だ?」
「そうですねぇ……。さっきのあなたはすでに反省していたわけですよね」
「ああ」
それは間違いない。
「そこに私がこんな風に言ったとしましょう。『何やってるんですかあなたは。何も考えずに思い付きで行動してたら駄目でしょう。反省してるんですか?ホントにもう……ちゃんとしてくださいよ』と。さて、問題です。あなたはどうするでしょうか?」
そのもしもを想像してみる。
「『いちいちお前に言われなくてもわかってる!余計なお世話なんだよ!』ってところだろう、かな」
かなり癇に障る言い方だ。俺に非があるのは事実だが、それでも怒鳴り返したんじゃないか、と思う。
「ですよね。筋道立てて考えればわかることなんですけど、私が挙げたのって、絵に描いたようなクソな言い方なんですよ。何やってるんだ?こっちがヘマやらかしたのなんてわかってるっての!何も考えずに思い付きで動いてる?そっちこそ、考え無しの思い付きで人を駄目扱いするな!反省?今やってるところだろうが!勝手に決めつけるんじゃねぇよ!ちゃんとしろだぁ?お前こそちゃんと考えてモノを言えってんだよ!ったく、何もわかってないくせによくもまあそこまで偉そうに的外れなこと言えるなぁ!?あんたはそんなに偉いのか!?偉かったら何言っても許されるのか!?どたまカチ割るぞクソ野郎が!」
「な、なぁ……ケイト?」
「あ……すみません。つい……」
自分が示したという失敗例を説明する内、興奮しだしたケイトだったが、恐る恐る名を呼んだらすぐに我に返った。
過去によほどのことがあったのか?相当腹に据えかねてたようだが……
そう思える程に、ケイトの激昂ぶりは生々しかった。
「いろいろと嫌なことを思い出してしまって。本当に、そのあたりを分かっていない阿呆の相手を昔から散々させられてきたもので。何でもいいからベラベラ喋ることが意思疎通なんだ。なんてことを考えるクソ共が多くて困るんですよね、ホント」
「昔から……?」
今の口ぶりだと、何年も前からと解釈出来るんだが……。こいつの歳を考えると……子供の頃からって話になるんだが……。
それに……
「お前はやけに騙し合いに強いが、それも関係があるのか?」
考えてもみれば、そこらへんも年齢――重ねることができた経験の上限と噛み合わない部分がある。頭が切れるのは事実だろうが、それを差し引いてもケイトは騙し合いに強すぎる。
「えーと……そのですね……。あまり詳しくは聞かないでほしいんですけど……」
「……なら、聞かないでおく」
話したくない過去のひとつふたつは、誰にでもあることだろう。鏡追いなんぞやっていれば殊更に。俺にとっての、故郷を飛び出す前のことがそうであるように。
「ありがとうございます。良家なんてそんなものなんですよ、ということにしておいてもらえませんか?」
「あいよ。それで、反発が反省の妨げとかいう話だったか?」
苦笑気味の頼みを引き受け、逸れかけた話を戻す。
「そうでしたね。さっきのクソな例ですけど、反省しているひとに対して上から目線の決めつけだけを根拠にしたようなクソッタレな戯言は言うべきじゃないと私は思うんです。下手に刺激してしまうと……」
まだ普段のケイトらしからぬ汚い言葉は残っていた。さっきの思い出し笑いならぬ思い出し怒りは、中々に根の深いものだったらしい。
「反発……ふざけんなてめぇブチ殺すぞ、なんて感情が先に立って、失敗から学ぶ機会まで流れてしまう、ってことか」
「ご明察です。同じ理由で、必要以上の自責も無駄だと思っています。まあ、これも私の勝手な考えではあるんですけどね」
「謙遜するな。俺の故郷でそこかしこに蔓延ってたような、地位やら権力やらにふんぞり返って罵声を吐くしか能が無い輩に見習わせたいくらいだ」
あるいは、故郷で関りがあった連中の中にそんな――ケイトのような考えを出来る奴がひとりでもいたのなら、俺は今でも鉄を叩いて暮らしていたのかもしれない。
まあ、それも善し悪しか。その日暮らしの今も気に入っているんだから。
「やっぱり、こっちにも多いんですよね。そういうクソって。どこの世界でも変わらないというか……」
うん?
こっち、という言い回しは妙だが……良家の中と外ってことなのか?
まあ、それは置いておくか。
大した問題でもないだろう。
「お前が俺を責めない理由はよくわかった。ちなみにだが――」
それを問うのは軽い好奇心から。
「失敗を反省しないクソ野郎相手にはどうするんだ?」
その場合はどうなるのか?責めれば反発し、放置すれば反省しない。どう転んでもロクなことにはなりそうもない。
「見捨てます。私の害になるようなら、潰します」
「おっかない奴め……」
迷うことなく即答しやがった。
「なら、俺も肝に銘じておくべきか。お前に見捨てられ、潰されるようなクソに落ちないように、な」
正直なところ、ケイトを敵に回してしまうのは勘弁願いたい。
「それが出来れば苦労しませんけどね。こういうのを弱みって言うんでしょうね……」
「うん?」
「あ、いえ!何でもないです!それよりも、先のことを考えましょうよ!」
ケイトらしからぬ、というべきなのか、あからさまに話を変えようとしているのは俺でも分かった。
「そうだな」
それでも、あえて乗ることにしたのは、必要な時が来たら自分から話してくるだろうと。ケイトならばそれくらいは当然のようにやってくるだろうと考えたから。
「……だからですね、思うんですよ。上手く行かなかった理由を考えるのも結構なことですけど」
「順調な時は何で順調だったのかも考えておくべき、か。確かにな。上手く行っていることを当然と考えて思考を止めていたら、上手く行かなかった時にその理由を考えても的外れなものになってしまうこともあるってことか」
「ええ。いつもいつもそんなことばかり考えていたら疲れますけど、行き詰った時だけでも、思い出せれば役に立つと思うんです。って……もうこんな時間ですね」
「だな。いつの間にやら……」
反省会に夢中になる、というのもおかしな話だが、そうこうする内に空の青は茜に染まっていた。
「黄昏れ時、ですね。どうします?今から黄昏れるのでしたら止めませんし、なんだったらお供しますけど」
「遠慮しておく」
「そうですか。あなたと黄昏るのも、少し興味はあったんですけど、ね」
「お前、自分が何言ってるか理解してるのか?」
「さて、どうですかね?」
「まあいいさ。黄昏るのはやめにする」
そんな気分はとっくに失せていた。無意味に自責するでなく、失敗から目を背けるでもなく、今後に生かせるようにはなっていた――と思いたい。
他でもない、お前のおかげでな。ったく……どっちが師匠で弟子なのか分かったもんじゃない。いや……
一応、発端としてはケイトが押しかけ弟子になったことなんだろうが、最初からそんなものは形だけでしかなかった。それならば、もうやめるべきなんだろうかな。
「なぁ、ケイト」
「なんです?やっぱり黄昏れたくなりました?」
「そうじゃない。真面目な話だ」
「……聞かせてください」
それだけで、表情を引き締める。なんだかんだで聞き分けてくれるんだよな、こいつは。俺の弟子なんてのは、役不足にもほどがある。
「一応形の上では、お前は俺の弟子ってことになっているわけだが……それはもう終いにしよう」
「……………………え?」
「うん?」
反応が返って来るまでには妙に長い間があって、返って来た反応は――ケイトらしからぬ呆然としたもの。
「もしかして、私って迷惑ですか?」
続く言葉もまた、俺にとってはまるで理解出来ないものだった。