子供が必要以上に気にすることではないさ
苦労して――というほどではないが、ほら穴を塞いでいた岩を砕いて出て来てみれば、その場にいた俺以外の誰もが呆然としていた。形容するのなら“ポカン”といった言い回しがよく似合いそうな表情で。
驚きが大きすぎて理解が追い付いていない、といったところか。
そう解釈する。まあ、無理もあるまい。足元に散らばる欠片の量から察するに、問題の岩はそれなり程度には大きかったということだ。
それを俺――大柄でもなければ、剛腕の持ち主にも見えぬ老人――があっさりと砕いて見せたのだから。
ま、いいけどよ……
むしろ俺としては都合がいい。理解が追い付く前にこの場から失敬させてもらおう。
目の前に居るのは、村長を含めた村の男たち。それと宿の女将も。声をかけるべきなのは――
「村長サン。今更聞くのもアレだが、この岩は壊してしまっても良かったのか?」
「あ、ああ。それは問題ないですけど」
「なら、ここの後始末は任せてもいいか?昨日の揺れと関係があるのかはわからぬが、山道の方でも崩れそうな場所があったのでな。すぐにでも確認しておきたい」
当然ながら、これは今思いついたばかりのでっち上げ。
「え……あ、はい」
「なら、さっそく行くとしよう。ほれ、お嬢ちゃんも」
「……クゥレフィト。ティークフィト」
お嬢ちゃんも呆気に取られているようだが、今は無視させてもらう。
「女将。出る前に火は消してきたのだろうな?」
足止めも兼ねて、女将にも声をかける。
「あ、ああ。もちろんだよ」
「そうかい。それは結構。肝心の水汲みだが、ここまで来たんだ。そちらは任せてもいいな?晩飯までには戻るのでな。今日も美味い飯を頼むぞ」
そこまでをほぼ一方的にまくし立て、お嬢ちゃんの手を引いて走り出す。向かう先は、ユグ山方面だ。
さて、ここまでくればひと安心か。
出口が見えてきたあたりで歩調を緩める。幸いにも、あの場に居た連中が追いかけて来る様子も無く、上手く逃げのびることが出来たらしい。
まあ、先送りにしかならぬことだろうが、何かの間違いでこのまま有耶無耶になってくれたのなら儲けものだ。
急いだ理由には蛇共の件もあるとはいえ、俺は周りから持ち上げられるのが苦手な性分なのだから。
そういう意味では、俺の悪名が届いていないらしいこの村は居心地がよかったのだがな。
「悪かったな。急に、引っ張って、来てしまったな」
「クゥレフィト……ダいじょうぶ」
大きな負担にならない程度に速度を抑えていたとはいえ、走ることを強要していたのは事実。だからその件を謝れば、少し考えた末に返してきたのはそんな言葉。ゆっくりとではあるが、意思の疎通もできるようになってきているらしい。
「ありがとうな。さて、このまま、もう少し、歩くぞ。……蛇」
ユグ山を指差し、
「村に来るのは」
村の中を指差し、
「マズいだろう?」
首を横に振る。
「クゥレ!」
“蛇”という単語をわかっていたお嬢ちゃんも、それだけで納得したらしく、ポン、と手を叩いていた。
「なら、行くか」
「ここらでいいだろう」
そうして歩くことしばらく。足を止めたのは、昨日の昼下がりに蛇共と別れた場所。村からはそれなりの距離もあり、ここまでならば蛇共が大群でやって来ても騒ぎにはならぬだろうと言える位置だ。
山頂の砦からユグ村を目指すのであれば、ほぼ確実にここを通る。行き違いにもなるまいて。
俺の足で普通に歩くと……片道が1時間程度だったか。仔蛇共は大急ぎで行くだろうし、やって来る蛇共も大急ぎと考えるのが妥当。ならば、連中が来るまでにそう時間はかかるまいな。
それでも、待ち時間が暇なのは事実だが……。いや、ちょうどいいといえばちょうどいいのか。
考えてみれば、水汲みに行く直前、やろうとしていたことがあった。幸いにもここは屋外。蛇共が来るまでの退屈しのぎにもなるだろう。
「ケイコ」
「クゥレフィト」
お嬢ちゃんに声をかけ、そこかしこに生えている1本の木に歩み寄り、
「叩く」
木に軽く握り拳をぶつける。
「叩く」
同じ動作をもう一度。
「叩く」
さらに繰り返す。
「……クゥレ!」
何かに気付いたお嬢ちゃんが声を上げ、
「タたく」
そう言って、木を叩いた。
「ああ、そうだ」
俺ももう一度木を叩き、
「叩く」
そう言ってやれば、
「タたく」
お嬢ちゃんも、そう言って嬉しそうに木を叩く。
どうやら伝わったらしい。
考えてみれば、昨夜にも似たようなやり方で物の名前を教えたのだったか。ならば、この調子で続けるとしようか。
「よし。次は……っと、ようやくおいでなすったか」
“叩く”と同じ要領で簡単な動作を示すアネイカ言語を教え、その数が10を超えた頃、少し離れた地面が蠢いたように見えた。
「セイル!」
その正体を見るや、笑顔で声を上げたお嬢ちゃんが駆け寄る。やって来たのは待ち人ならぬ待ち蛇。やはりと言うべきか、お嬢ちゃんが閉じ込められたということで、大半――全て、と考えるのが妥当かもしれぬが――を連れて来たらしく、蛇の大群と言えるような団体様だった。
あれが、お嬢ちゃん本来の笑顔なのだろうな……
花咲くような、なんて言い回しが似合いそうな表情に思う。俺や女将と話していても笑うことはあるお嬢ちゃんだが、その時の顔はどことなくぎこちないとでもいうのか。意識して作っているような印象があった。
その一方で、屈託のない――年相応に無邪気な顔も何度かは目にしていた。
ついさっき、湧き水を見た時であったり……たった今、蛇共に気付いた時であったり、だ。
できれば俺に対しても……って、何考えているのやら……
浮かんで来た思考に苦笑してしまう。アイツと重なるお嬢ちゃんであることは事実なのだろうが……まさか、蛇相手にやっかみを抱く日が来ようとは、夢にも思わなかった。まったく、長生きしているといろいろなことがあるものだ。
「リーディ。シユア マクスタ。ストウ、ティーク アクリスフェク。……ラペット。……ラペット。クゥレ、セイル ティル ティーク……」
そんな俺の内心を知る由もないお嬢ちゃんは、嬉しそうに蛇共と言葉を交わす。何度か俺の名を出しているようだが。
「ピュリク、クープ シュラー オフラル……」
まあ、お嬢ちゃんの為人を見る限りでは、妙なことにはなるまいが。
「クゥレ、ティーク」
「うん?」
そんな――我ながら馬鹿げたことを考えていたら、さらに俺の名が聞こえた。目線や口調からして俺を呼んでいるようだが。
って、おい!
それに呼応するようにして、蛇共が一斉に鎌首をもたげる。
蛇共からは剣呑な雰囲気は感じ取れず、お嬢ちゃんからも敵意は伝わってこない以上、そういうことではないんだろうが……
「アりがとウ」
そんなことを考えていると、礼を意味する言葉を口にし、頭を下げて来た。
おいおい……
さらには、蛇共までもが頭を下げてくる。なるほど、鎌首をもたげたのは、お辞儀――だと思う――の予備動作だったらしい。なんとまあ、人間臭い動きを見せる蛇共だ。
「どういう意味だ?」
が、それはそれ。あらためて礼を言われる理由というのがどうにもピンと来ない。だから、そのことを伝えるために首を傾げて見せる。
「セイル ドウラ ジェク ファイバ」
“ドウラ”は“食べる”だったな。…………ああ、そういうことか。
蛇共に野犬の死体をやったことの礼、だろうな。律儀な蛇共だ。飼い主に似たのか。
「どういたしまして、だ」
ともあれ、礼は素直に受け取っておくとしよう。
「クゥレ、ティーク。ザフ、ティーク イクスタゲ ハーガフィト」
さらにお嬢ちゃんは言葉を続ける。
俺に何かを言っている……いや、フィトで終わっているということは、何かしらの問いかけなのだろうが、今の俺には理解することは出来そうもない。
「すまぬが、何を言いたいのか、まるでわからぬ」
だから、正直にそう返すよりない。首を傾げる仕草を付けておけば、わからないということは伝わるのだろうが。
「ラペット。イレス ラグレス リート。ゴウ……キーシュ、サイオ、タヌ ミスティ。イクス、ペティグア クープ ラグレス……」
やはりというべきか、使える単語が少なすぎるのだろうな。まったくわからぬ。だが……
表情というやつは、時に言葉よりも雄弁となるもの。そこから見えるのは、申し訳ないとか、後ろめたいとか、そんな色だ。
思えば、出会ってすぐの山下りでおぶった時も遠慮がちだったか。
「子供が必要以上に気にすることではないさ」
どうせ俺の言葉も今は通じていないだろう。だから、行動をひとつ付け加える。
『矜持が高い相手には逆効果にもなりますけど、子供が落ち込んでたり泡食ってたりビビったりしてる時って、頭を撫でてやれば大概はどうにかなるものですよ』
これもアイツ由来の知識ではあるが、事実でもあるということを俺は経験上知っていた。
「ティーク……」
お嬢ちゃんも例外ではなかったようで、少しだけ表情が明るくなった――ように見えた。
「ティーク」
俺の手を自身の手で包むようにして、目の前に持って来る。得物を振るうことでできる硬さとは違う。多分だが、洗い物やらを日々続けることで荒れたような手の平は、それでも男の俺には無い柔らかさがあった。
「イクス……イーン デア、アット ラウム ティーク イスバ トーナフェク」
静かに紡がれる言葉には、不思議と重さがあった。
「サイオ……フィジク クープ シュラー ディー ラグレス ストウ……。ピュリフ シュラー オゥグ」
真っ直ぐに向けられる目には、不思議と力があった。今口にしているのは、軽い気持ちでの言葉ではないのだと認識させられる。
「ティーク」
発音が多少マシになってきたのは、それなりの回数を口にしていたからなのかもしれぬ。
心からの言葉というやつは、よほど的外れな中身でない限り、それなり以上に聞き手の心に響くというのは、たまに聞く話。
ケイコお嬢ちゃんの声は、俺にとって誰よりも特別な存在だった女と同じもの。だから、俺が影響を受けやすいとは認識していたつもりだった。
「アリガトウ」
それらの事情を踏まえてもなお、そのひと言は俺の心に突き刺さる。
そして――
先ほど軽くとはいえ望んだこと。混じり気の無い笑顔を向けられて、跳ね上がる脈拍を抑えることは出来そうもなかった。