存外に活発な性分なのかもしれぬな、このお嬢ちゃんは
さて、まだ晩飯までは時間があるが……どうしたものか。
鏡追いの名の由来を話し終え、俺とお嬢ちゃんだけになった食堂で考える。やること――アネイカ言語を教えるということ――はあるわけだが、意味の分からぬ長話を聞かされたばかりのお嬢ちゃんに引き続きでの座学というのは、退屈ではなかろうかとも思えるわけで、少しばかり気も引ける。
だったら……場所を変えるか。
湧いて出たのは、そんな思い付き。だが、案外悪くないのかもしれぬ。簡単な動作――“叩く”とか“押す”あたりであれば、実践しつつ繰り返せば理解してくれるだろう。そして、“走る”や“跳ぶ”を示すのであれば、屋外の方が都合もいい。建物の中で無闇に騒ぐのもどうだろうかという話だ。
「少し、待ってて、くれるか?」
「ハい」
手振りも交えてお嬢ちゃんにそう伝え、女将の気配がある厨房へ。実際に足を運んだことは無いが、構造から察するに、この宿の裏手には手頃な場所があるはず。
「女将。ちょいと――」
「ああ、ちょうどよかった。少し頼まれてもらえるかい?」
が、場所を使わせてくれと頼もうとした矢先に返って来たのは、先回りでもされたのではないかと思えるようなセリフだった。
「……聞くだけは聞こうか」
出鼻をくじかれた気もしないではないが、それは呑み込んでおく。間が悪い、というやつだ。珍しい話でもない。
「水を汲んできてほしいんだよ。桶に1杯でいいからさ。いやね、自分で行くつもりだったんだけど……すっかり忘れてて、鍋を火にかけちゃったからさ」
「そういうことか」
うっかり、というやつか。よくある話ではある。
付け加えるならば、ほんの数分、火から目を離したがために、住む場所やら財産やら身内やらを失う、などというのもよくある話。かと言って、一度火を消してから用事を済ませて、それからまた火を着けるのも面倒。そんな折、ちょうどよく俺がやって来た、というわけだ。
ま、いいけどよ……
それくらいであれば、別段構うことでもない。
「寄り道しながらでいいのなら、引き受けるぞ」
坊主から聞いた話の裏付けを取るのに、トナンには用があったところ。それに、光の柱絡みで今日のところは何も見つからなかったことも、村長に伝えておいた方がいいだろう。
「それでもいいからさ。お願い出来るかい?」
「あいよ」
「じゃあ、これに頼むよ」
差し出してくるのは、小ぶりの木桶。水で満たしても、難無く片手で持てるくらいだ。
「そうだ!せっかくだし、ケイコちゃんも連れて行ってあげなよ。せっかくこの村に来たんだ。一度くらいはあの光景を見ておかないと」
うん?
何やら妙なことを言い出す。
「あの井戸がそこまで大層なものだったとも思えぬが……」
村の真ん中にある広場。さらにその真ん中にあった井戸。何度か脇を通りはしたが、何の変哲も無ければ何の面白みも無い。これと言った特徴も無い水場でしかなかった。というのが俺の認識なのだが。
「いや、そっちじゃなくて……って、すまなかったね。まだ言ってなかったよ。この村にはね、湧き水があるんだよ。井戸の方が近いんだけどね、湧き水を使った方が料理は美味しくなるのさ。あたしひとりなら横着してもいいんだけど……」
「客が居るのなら、ということか」
食べ比べをしたわけでもなし。どれ程に差が出るのかはわからぬが、女将の作る飯が美味かったのは事実。俺としても、飯が美味いのは、実に結構なことだ。
それに、わざわざ言うくらいだ。それなりの光景なのだろう。だったら、お嬢ちゃんに見せてやるのも悪くない。
「それで、場所はどこなんだ?」
「村長の家から近いんだけど……そうさね……」
「それだけわかれば十分だ」
どの道、村長のところにも行く予定だった。ならば、そこで聞いた方が手っ取り早いというものだ。
「ケイコ。少し、出かけるから、付いて、きてくれ」
「ハい!」
声をかけ、手招き。そうすれば、お嬢ちゃんは察してくれる。
「ここか。なるほど、わかりやすい」
「クゥレ……」
トナンへの聞き込みは残念ながら収穫無しに終わり。報告のついでに村長から聞いた目的の場所は、徒歩で30秒程度とのこと。程なくして、俺とお嬢ちゃんは切り立った崖にぽっかりと開いたほら穴の前にやって来ていた。この奥に湧き水があるということらしい。
ちなみに、道すがらに出くわした村の連中は、誰もがお嬢ちゃんに対して好意的だった。野盗共に捕まっていたというでっち上げと、お嬢ちゃん自身の礼儀正しい振る舞いが理由なのだろう。あるいは、この村の連中がお人好し揃いというのもあったのかもしれぬが。
昨日は他人に怯え気味だったお嬢ちゃんも、伝わらない言葉で自分なりに応えている様子だった。
それに、こちらのほうでは収穫もあった。
お嬢ちゃんは何度も“ラメレク”をそれだけで口にしていた。状況からして“初めまして”か“こんにちは”のどちらかと判断でき、面識がある村長相手にも使っていた点からして、後者で確定だろう。
「さて、入ってみるか」
「ハい!」
ほら穴を指差して声をかければ、返って来たのは肯定。だが、やけに元気がいい。顔を見やれば、目を輝かせているように見える。
こういうの、好きなのだろうか。存外に活発な性分なのかもしれぬな、このお嬢ちゃんは。
ちょっとした探検気分といったところか。確かに、その気持ちはわからぬでもない。見るのが始めてだったなら、キードの坊主あたりも喜びそうなところだ。
足を踏み入れる。全身に感じるのは、外よりもひんやりとした空気。薄暗くはあるが、視界に困るほどでもなく、10秒も歩けば、そこが最奥だった。
「……これはまた」
薄暗い中で足元に広がるのは、ベッドに換算して2台分程度の小さな泉。外から差し込んでくる陽光を反射しているのか、水面に光が瞬く。
さして深くはないようだが、それを差し引いても随分と透き通った水らしく、底の岩肌までを見通すことが出来た。
どこからか種でも飛んで来たのか、ほとりには緑の草地が広がる。花も咲いており、薄青色の花弁はほのかに光っているようだった。暗所に育つ植物には発光するものがあると聞いたことがあったが、実際に目にしたのは初めての事。
「言うだけのことはある、か」
多少の手間を引き換えても、確かにこれは見ておく価値がある。この場所を教えてくれた女将には内心で最大限の感謝を送っておく。
「ミアース……」
隣から聞こえる声に意識を引き戻されるくらいには、俺も見惚れていたらしい。
そんな声の主もまた、惚けたような表情で泉を見つめていたのだが。
「ウース!」
せっかくの感嘆に水を差すのも無粋、ということで黙って待つことしばらく。俺を見上げるお嬢ちゃんは頬を紅潮させ、声色は興奮したものだった。
俺は興奮を覚えるとまでは行かないが、これは感性の差というやつなのだろうかな。あるいは、これもまた老いるということなのかもしれぬが。
「もう少し寄ってみるか」
「クゥレ、フィーユオゥド!」
転落して溺れる、なんて危険は薄いだろうが、ゆっくりと泉に近づく。本来の目的は水汲み。そうしなければ果たせるものでもない。当然ながら、花を踏まないように気を付けつつで。
そっと桶を浸し、汲み上げる。手に触れる水は、随分と冷たかった。
料理に使うということは、当然飲めるのだろうな。
桶で揺れる水を手ですくい、口に運ぶ。
「……美味い」
半ば無意識に出て来たのはそんな感想だ。どこがどう美味いのかと問われれば返事に困る。が、間違いなく俺の舌はこの水を美味いと感じていた。
「……ティークフィト。ミウルフィト」
2度3度と繰り返すうち、お嬢ちゃんも気になったのか、恐る恐る桶に手を伸ばし――
「ミウル!」
声に乗っている感情はわかる。“ミウル”は美味い、だろう。
「セイル ティル タップ ソゥフ。ミウル ワスン」
さらにお嬢ちゃんがなにやらを言うと、仔蛇共までが服の中から這い出してきて、手の平に汲んだ水に口を付け始めた。蛇の舌がどんなものなのかは知らぬが、仔蛇共にとっても不味いものではないのだろう。
うん?
そんな様を眺めることしばらく。何やら妙な感覚がやってくる。
これは、揺れ……か?足元……じゃない。……上からか!?マズい!
唐突に、勘がけたたましい警鐘を鳴らす。
「ケイコ!」
「クゥレフィト!」
突き動かされるままにお嬢ちゃんの腕を掴む。抗議も疑問も今は無視だ。
「すぐに――」
ここを出るぞ。そう言いかけたところで、発しようとした言葉が途切れさせられる。
言葉を中断させたのは、足元からやってくる大きな揺れ。そして、俺の声量を大きく上回る轟音だった。