実にいろいろあったのだろうと、今更ながらに俺は思っている
初投稿です。今日はある程度区切りの良いところまで投稿して、明日以降は毎日20時投稿を予定しています
常日頃から認識している奴がどれほど居るのかなぞ知らなければ、さして興味も無い。それでも、“言葉”というやつは中々に便利なシロモノなのだと俺は思う。
そして、そのありがたみは、通用しなくなった時に初めて気付ける類のものではなかろうかとも、俺は思う。
まあ、俺が勝手にそう思っているだけのこと。俺の勝手な認識を誰かに押し付けようとも全く思わぬのだが。
そんな便利な“言葉”の中でも、他の追随を許さない程に万能だと、実在……いや、現存する唯一の“魔法”なのではなかろうかと、俺が勝手に思っているものがある。
その“言葉”がどれ程の力を持つのか?例えのひとつを挙げてみるのならば――
不格好な出来損ないの自作鉄杖1本を手に故郷を飛び出して、飯のタネとして流れの鏡追いを選んだのが14の時だったか。
まあ、鏡追いなんて洒落た名前が付いているが、実質的には何でも屋――傭兵や賞金稼ぎの真似事から山菜採り。果ては牛小屋の掃除から迷子の猫探しまで――なのだが。
そういえば……
『鏡追いって、いわゆるところの冒険者ですよね。一番上が“えすきゅー”でしょうか』などと言っていた女がいたか。当時の俺にも今の俺にも、その意味はまるでわからぬが。少なくとも、“冒険”と呼べそうなことをやった経験は俺には無い。“えすきゅー”とやらの意味は見当すらつかぬ。
ともあれ、なんだかんだでかれこれ50年以上もこの稼業を続けてきたわけで、“頭潰し”とかいうなんとも物騒な二つ名――まあ、俺の所業を思えば無理からないとは思わないでもないが。命名してくれやがった阿呆曰く、『我ながら上手い事を言ったと思う』とのこと――を押し付けられている身の上だ。
そんなわけだから、くぐってきた修羅場の数なぞ覚えていない。死神に首根っこを掴んでもらえたことも――多分両手の指に余るくらいにはあったことだろう。いちいち数えたこともないが。
最近だと――2年ばかり前にカシド湖の領有権を巡った小競り合いで堰を切られた時あたりか。 “水源を奪われるくらいならぶち壊してしまえ!敵も殺せるなら、一石二鳥だろう”。
そんな馬鹿げた発想を現実にしてしまったことには、呆れ混じりとはいえ感心させられたものだ。常識というやつは、枷にもなり得るのだと――
っと、話が逸れたか。昔語りが長くなるのは年寄りの悪癖、なんて話をどこかで聞いた覚えはあったが、俺も例外ではなかったらしい。
そんな、無駄に歳ばかりを重ねた俺の人生。その全てを――
『いろいろあった』
というひと言だけで表現できてしまえるのだから。
そして、俺の人生で何度目になるかもわからぬ転機だったであろうその7日間も、実にいろいろあったのだろうと、今更ながらに俺は思っている。
「本当に、いろいろとあったものだ。なあ、お前さんもそうは思わぬか?」
しみじみと思いながらで、振り向くことなく問いかける。存在はすでに気配で捉えていた。
「ティーク」
俺の名を呼ぶのは、ひとりの同業者。
空を見上げれば、雲がほどよく日差しを遮ってくれる。今日という日には何とも相応しい。そんな、恰好の日和だった。