雲と煙草と もしかしたら海。
“営業戦略会議”
半年に一度、全国にある支店を統括している圏域六ヵ所の支部で各々行われている会議がある。
普段なら関わる事のない、各地域の事業所の営業担当者が集められる。会議自体は午後一時から三時間程度で終わるのだが、その後繰り広げられる雑談が、何より苦痛だった。早く帰りたい。しかし会議以上にこの雑談が重要である事を知っている奴等は、誰一人帰ろうとしない。支店長クラスの人間は、常に支部長の座を狙っている。ここで支部長に気に入られておけば、引き抜きがほぼ確定する。
体育会系の体質が抜けきらない社風は嫌いではない。が、好きでもない。
舌打ちとため息を吐き捨てて会議室を一人抜け出し外に出る。引き留める者は誰もいない。会場から二百メートル程だろうか、離れた所にあるコンビニまで、カメのようにノロノロと歩く。気持ちを落ち着かせたかった。
あの場に、居なければならない訳ではなかった。
コンビニ入り口の反対側の正面に設置されている喫煙場所にそのまま向かい、歩きつつポケットから煙草を取り出し箱を軽く上に向けて振ると一本だけ巧い具合に飛び出してくる。その飛び出してきた煙草を咥えながら箱から抜き取る。喫煙場所に着いてライターを取り出し、風もないのに煙草とライターの先を左手で覆いながら火を付ける。深く吸い込み、一瞬息を止めてから吐き出すと、いくらか気持ちは落ち着いた。煙草のおかげなのか、有害物質を取り込む為に行った深呼吸のおかげなのかは分からない。
泳いだ目の先には、雲がゆっくりと流れていた。地上では感じる事が出来ない風は、遥か上空で吹いているのだろうか。それとも空気の流れが雲を移動させているのだろうか。留まる事のないそれは、次第に形を変えていく。
吐き出す煙を雲に重ね合わせながら、崩れる雲の様子をただぼんやりと見つめていると、煙草の灰はいつの間にか落ちそうに下向きに垂れていた。落としてしまわないように静かに灰皿の上まで移動させ、人差し指で軽く叩くと、灰はほろりと落ちて灰皿に張ってあった水の中で、広がりながら沈んでいった。
店から中年の女性が出てくると、直後に女性はこちらに冷ややかな視線を投げつけた。その後から出てきた小学校低学年くらいの女の子は、キョロキョロと周りを確認しながら「くさっ。」っと言って、車のある方へと走って行った。女性は嫌味ったらしく咳を3回程してから車に乗り込んだ。
喫煙者に人権などない事は承知している。しかし、此処に喫煙場所があるから吸っているだけで、自分は悪くない。悪い事は、していない。と、自分に言い聞かせる。
ようやく消えかけていた苛立ちが再燃する。短くなった煙草をまた思い切り吸い込むと、先端はチラチラと赤味を増して灰を作り出す。
何に対してこれほど苛立つのか──
実りのない会議やその後の雑談を嫌っていた同僚は、肩書きが上がる程に、入社当時の気持ちなど忘れてしまったかのように率先して媚びを売りに行くようになった。
そして殆んどの奴等はタバコをやめたか電子タバコに変えていた。時代の流れ……未だにその“当たり前の流れ”に乗れない自分の方がおかしいんじゃないかとさえ思ったりもするが、こうして苛立つ事が、自分の気持ちの答えに他ならない。
だからと言って自分が一体何をしたいのか……
流れにも乗れない、流れを変える事も出来ない、意地を張り続ける根性もない。煙たがられるだけで、何の役にも立たない。それはそれでいいと、諦めることも出来ないような半端な人間に、何が出来るのか。
再び見上げた空には、すでにあの雲はなく、人差し指と中指に挟まれた煙草は、ほとんどフィルターだけになっていた。灰皿に投げ入れると、僅かに残っていた火種がジュっと微かに音を立てて消え、沈んでいく。
薄い雲が散らばる空。3月の上旬、まだ冷たい空気の中にも日射しの暑さを感じるようになってきていた。何の前触れもなく落ちてきた雨粒に驚きつつ、何となしに右手を前に出してみる。細く弱々しい雨が掌に触れる。先ほどの雲の残骸かもしれない、そんな風に思える感傷だけが、今の自分には相応しいと思えた。
ははっ。不意に笑いが込み上げてきた。
全てを、今の全てを丸ごと海に投げ捨てたい。
今、海が見たい。唐突に浮かび上がってきたのは、大昔とも言えるほど前の記憶。
サーフボードに股がって、波が立つ瞬間を待つ。その一瞬を見極めて波を掻きこぎ出す。完璧なテイクオフ。出来る事ならロングライド。願っても叶わず結局はスープライダー。挙げ句の果てには波に飲まれて宇宙を見る羽目になる。失敗を恐れるどころか、失敗を楽しむ事さえできた──あの頃は。仕事と趣味は違うけれど。
あの波をまた、あの宇宙をもう一度、見てみたい。無様に回転しながら。リーシュコードだけが命綱で……。
そうだな。やっぱり、海行こう。
コンビニでコーヒーを買い、雲の残骸が舞う空の下に出てまた、歩き出す。
今度は少し、足早に。
秋の桜子さまより