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一歩前進

 

 少年は待機と言われたから神殿の広間に立ち尽くしていた。

 何をしろともいわれていないので、ただ立っているというそれだけだ。

 そうしていて、どれくらいの時間が過ぎただろうか立っているのは苦痛ではないので気にならなかった。

 雪が降る夜に屋外に出されて直立不動で一夜を過ごしたこともある少年にはただ立って待っているだけなどは何ほどのことも無い。


『少年よ、腹は空いていないか』


 不意に声が聞こえてきたので少年は頷く。

 そんな風に聞かれて腹が減っていると言った他の奴隷は二度と空腹を感じなくて済むようにしてやると言われて殺されたのだが、腹は減っていないと言って餓死した奴もいれば嘘をつくなと言われて殺された奴もいるので、どんな答えをしてもたいして変わらないと理解している少年は素直に自分の状態を認めた。


『少年じゃなくて名前で呼んだ方が良いスよ。現状じゃあの子と信頼関係築かないとマズいんすから』


『それは後で良いっすよ、とりあえずメシでも食わせて歩み寄りをするんですから。……さて、少年よ、腹が減っているのなら食事を与えよう』


 その声が聞こえた直後、少年の目の前、神殿の床の上にパンが置かれた。


『もっと良いものを――って廉価版じゃ無いんスよね』


 声の種類が二つに増えたが少年は気にしない。

 余計なことを気にすると碌なことにならないことを少年は知っていたし、余計なことを考えることを主人に禁じられていた。


『さぁ、少年よ、そこにあるパンを食って腹を満たせ』


 声が聞こえてきたが、少年はどうするべきか悩む。

 生まれてから少年は一度もパンを食べたことはない。生まれた時から食事は薄いスープと僅かな穀物を煮た粥のみであり、パンは主人が食べるものであって奴隷が食べるものではなかったからだ。

 奴隷が食べるものではないと、これまでの人生で教え込まれたものを命令されたからといって口にすることには抵抗があった。


『とにかく食え! さっさと食って体力を取り戻すんだ!』


 声は強い調子で少年に言う。

 その言葉の強さに少年は自分の意に反して体が勝手に動き、床に落ちているパンを拾い、それを口に運ぶ。

 命令されれば動かずにはいられない奴隷として生きてきて染みついた癖が少年に行動を起こさせたのであった。


 少年は口元に運んだパンの端を噛みちぎる。

 少年の世界においても、それは極めて低い質の硬い黒パンであったが、それでも少年にとっては初めての味であった。

 味も香り劣悪で美味いとは言い難い代物であったが、少年にはこの上ない美味。

 ドロドロと煮崩れした穀物の粥では感じられない麦の風味と噛みしめれば噛みしめるほどに口の中に広がっていく仄かな自然の甘み。

 人生において甘味などは一度も口にしたこと無い少年にとって、その味は衝撃的であった。


 生まれて初めて知った美味を少年は貪る。

 重ねて言うが、普通の人生を生きてきた者にとっては決して美味い物ではない。

 だが、少年の人生においてはこの上なく美味いものであった。


 ほどなくして少年はパンを全て腹に収める。

 生まれて初めてのパンの味を覚え、少年は食事によって満たされるという感覚を初めて味わった。

 だが、気持ちは満たされても、少年の空腹は収まっていない。

 むしろ、腹に食物が入ったことで、腹が空腹を自覚したのか大きな音を鳴らす。


『よし、もっと食え! 完全に満腹になるまでだ!』


 声が聞こえ、直後にいくつものパンが少年の前に置かれる。

 飢えと美味い食事という物を理解した少年は目の前に置かれた食事を前に自分を抑えることに困難を感じ始めていた。

 それでも少年は主人の命令が無ければ食べない。だから、少年は主人が自分に命令してくれることを願うのだった。


『よし、命令だ。目の前のパンを食え』


 その声が聞こえた瞬間に少年は目の前に置かれたパンに飛びつき、それを食い散らかす。

 貪るようにパンを口に運び、それを噛みしめ味わい、少年は自分の中に何かが満たされていくのを感じ取っていた。

 それは空腹感は当然の事だが、それよりも体の奥の説明できない不明瞭な部分だった。だが、それが満たされていくのがとてつもなく心地よく、その心地よさに身を任せてしまいたい衝動が少年の心を占めていた。


『パンを食べ終わったら寝ろ! 次は起きてからだ!』


 声はそれきり聞こえなくなった。

 命令は食事に夢中になっているが少年はちゃんと命令を聞いている。


 なので、食事を終えるなり少年は眠りについた。

 寝る場所は神殿の硬い床の上。だが、神殿の中は暖かい空気に満たされており、それに加えて生まれて初めての満腹感と満足感に包まれた少年は、その人生においてはじめて安らかな眠りにつくことが出来たのだった。


 ――どれくらいの時間が過ぎたのか少年は目を覚まし、起き上がる。

 体の調子は生まれてこのかた感じたことがないくらいに好調だった。


『では、今日もダンジョンの攻略をしてもらう。まずは階段を下りてゴブリンを倒せ』


 少年は聞こえてきた声に従って動き出す。

 ダンジョンもゴブリンも少年は理解できていなかったが、何をすればいいのかは理解している。

 少年は軽やかな足取りで階段を下りて行く。


 それなりの長さの階段を下りると、そこは通路の入り口となっている。

 何度もそこを通り抜けている少年は臆することなく、その道を進む。


 入り口の先は細長い通路で両脇は石が積まれた壁だ。

 その通路をある程度、進めば怪物が出てくるということを少年は何度も体験している。そして、何度も何度も怪物に殺されたことも、その際の苦痛も憶えている。それでも少年は臆することはない。

 苦痛は少年の人生においては常に共にあるものであり、恐れて避けるような物ではない。だから怪物に何度殺されようと怯むことなどは無い。


 ほどなくして現れる怪物。

 それこそがゴブリンなのだが、少年は知る由も無い。

 少年は声から貰った鉄の剣を片手に持ち、ゴブリンに近づく。


 間合いを図るということも無く、少年は不用心に距離を詰める。

 その動きに対し、先に攻撃に移ったのはゴブリンの方だった。

 ゴブリンは一気に距離を詰めて手に持った棍棒を少年に向けて振り下ろす。


 少年は戦いの素人だ。

 前へと歩いている状態から相手の動きを見て即座に反応し、回避できるような足捌きも体捌きも出来るわけがない。なので、当然だが攻撃を食らう。

 振り下ろされた棍棒は少年の頭に直撃し、その威力と衝撃が少年の体を大きく揺らした。

 今までならば、それで少年は動けなくなっていた。そして一方的にゴブリンに殴られて殺されるというのがこれまでのパターン。


 ――だが、今回は違う。


 栄養面では充分ではないが空腹を満たすのに十分な食事を摂り、熟睡して体を休め英気を養い、心身ともに充実している少年はその程度では倒れない。

 体を大きく揺らしながらも少年は足に力を入れ、その場に踏み留まり反撃の剣を振る。


 型も何もなくただ振り回しているだけの剣。

 普通に戦っていたら、目の前の最弱のゴブリンにすら躱されたそれだが、少年に対し追撃の体勢を取り、回避が不可能な状態でならば、いくら少年の剣が下手でも避けることはできない。


 直後、少年の剣が追撃を行おうとしていたゴブリンの胴体にカウンター気味に叩き込まれた。

 刃を立てて動いている相手を斬ることが出来るほどの腕の無い少年の剣はゴブリンを斬ることは出来ず、衝撃を与えるだけであったが、それでも鉄の棒に殴られたと思えば無傷とはいかない。

 ゴブリンは攻撃を食らった腹を抑えてうずくまっていた。


 棍棒を食らったことで額から流れ出る血を拭いながら少年はゴブリンに近づく。

 そして、剣を振り上げ、うずくまっているゴブリンに向けて振り下ろした。


 少年の振り下ろした剣はやはりゴブリンを斬ることは出来ずに殴りつけるに留まる。それでも確実に効いてはいた。

 それによって、ゴブリンの方もこのままではやられるということを理解したのかうずくまっていた体勢から飛び起き、決死の反撃としてやけくそに棍棒を振り回す。


 多少の腕があり、少し冷静に対処すれば躱すことなど容易いのだが、多少の腕も無い少年には躱すことは出来ず、ゴブリンの振り回す棍棒が何度も少年の体に当たる。だが、少年はそれでも一瞬たりとも怯まない。


 今までは怯んでいた。だが、それは痛みによるものではなく衝撃に体が負けていたからだ。

 心身が充実し、衝撃に耐えられるようになれば、少年は何発食らおうと怯むことはない。

 苦痛には慣れている。だから、少年は苦痛に対して止まることはない。どれだけ攻撃を食らおうが止まることなく剣を振る。


 それは直感的な物か苦肉の策か少年の剣はゴブリンの振るう棍棒を交錯するタイミングで放たれていた。

 攻撃の最中は簡単に躱せない。なので、少年の未熟な剣でもゴブリンに当たる。そしてゴブリンの棍棒も少年の体に当たる。

 少年も躱すことは出来ないのだから相手の攻撃に合わせれば自分にも相手の攻撃が当たるのは当然だ。

 攻撃するたび、少年の体に傷が増えるが、少年はそんなことは気にも留めずに攻撃を繰り出す。


 苦痛など意に介さない少年はひたすらに攻撃する。だが、ゴブリンはそうではない。

 両者の攻撃が交錯する回数が増えるにつれて段々とゴブリンの方の攻勢が弱まっていき、少年の無茶苦茶に振り回す剣だけがゴブリンの体に叩き込まれていき、ついにはゴブリンの攻撃の手が止まると、ゴブリンは地面に倒れ伏す。


 まだゴブリンに息はある。

 少年は剣を握り直し、柄を強く握り締めると、その剣を倒れたゴブリンに振り下ろす。

 何度も何度も振り下ろし滅多打ちにする。

 どうすれば息の根が止まるかなど分からない少年には加減などは分からない。だから、ひたすらに剣を叩き込む。やがて息が上がってくるが、少年はそれでも手を止めない。

 既にゴブリンは死んでいるのだが、そんなことは少年には分からないので少年は死体を殴り続けていた。


 だが、それも不意に止まる。

 少年が剣を叩きつけていたゴブリンの死体が急に光の粒子となって散っていったからだ。

 それが自分の死んだ時の光と同じことに少年は気づかなかったが、目の前からゴブリンが消えたことは分かった。

 そして、ゴブリンの消えた後に紫色の液体の入ったガラスの小瓶が転がっていることも。


『ゴブリンを倒したことで手に入るドロップアイテムは回復薬だ。それを飲んで傷を癒してダンジョンの更に奥へ――じゃないな。とりあえず進んで、ゴブリンとかが出たら倒せ』


 ゴブリンを倒したものの少年の体は傷だらけであった。

 少年は声に従って、落ちていたガラスの小瓶を拾うと、それをそのまま飲みこんだ。


『は? おま、おまえ! 何やってんの!? 飲めって言ったけど、何で液体の方を――』


 中の液体を飲めとは言われていないので、少年はガラスの小瓶をそのまま飲んだ。

 運良く、喉に詰まるということは無かったが、当然回復薬の効果は無い。

 飲めば魔法的な効果が発揮されて傷が治る回復薬だが、瓶ごと飲み込んでも回復効果は無い。回復効果があるのは当然だが液体の方だ。


 少年は全身に傷を負ったままダンジョンを更に奥へと進んでいくのだった。




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