太郎川
この辺りで一番大きな川に太郎川と呼ばれる川がある。
太郎川という名前は地元の人たちが呼んでいる俗称のようなもので、実際は別の名前で地図に記載されている。
この地方では昔から河童伝承が残されており、この川の名前も河童の河太郎かわたろうの字からの由来らしい。
その昔、この辺りでは匪賊の被害が後を絶たず、村人は困り果てていた。
周辺一帯を治める権力者に泣きついても助けてもらえなかったため、最後に縋ったのが村のすぐ近くを流れる川の神であった。
古くからこの川には龍神が住むと言われ、いたずらに川を汚すと大水・洪水に襲われることがあったことから、畏敬の念を集める存在として扱われた。
村の守護をお願いすることの引き換えに、年に一度、村を挙げての祭りを開くことを約束する旨を書いた紙を小舟に乗せ、川の上流から流したのである。
川の流れに乗って下流へと進んでいく小舟が不意にピタリと川の半ばで止まると、小舟を中心に渦を巻き出して小舟がその中心へと沈んでいく。
これを見た村人は龍神が願いを聞き届けてくれたと思い、その場に跪いて感謝を捧げたという。
その数日後、村をまた山賊が襲い、再びの略奪に村人が震えたその時、川の中から猿のような毛むくじゃらで、子供程の大きさの見たことも無い生き物が飛び出してきた。
村を襲っていた山賊たちを次から次へと叩きのめしていき、倒した山賊を一人残らず尻子玉を抜き出してふぬけにしてしまう。
ただ見ていることしかできなかった村人に、自分は河太郎という龍神の使いで守護の約束を果たすために遣わされたと話した。
自分達を助けてくれたことに深く感謝し、その河太郎を歓待して土産を渡して川へ帰っていくのを見送ったという。
その際、土産の一つであった野菜のキュウリを大層気にいった様子だったので、村で行われる祭りでは必ずキュウリを川に流すのが風習として長く残されることになる。
この祭りで流されたキュウリは下流で回収され、村人達で食されるのだが、不思議なことに必ず回収されるのは半分ほどの量だけで、もう半分はどこを探しても見つからないのだそうだ。
これが村人達にとっては龍神の仕業と分かっているため、毎年捧げるキュウリの量は増えていったと言われている。
時折ふらりと現れる河太郎の子孫ともしばらくは交流があり、村人は彼らを河童と呼ぶようになっていった。
現存している資料によるとその後も約束は守られ、戦国・江戸・明治と時代が流れてもこの村に災いが降りかかることは無かったと残されている。
第2次世界大戦期、一度だけこの村に焼夷弾が投下されることがあったのだが、すぐに村を覆うように発生した雨雲から降り注いだ雨により火は消され、視界の確保が出来なくなった爆撃機は早々に退散していったため、被害はほぼ無かったのだそうだ。
このことがあって、村人の龍神への信仰は未だに保たれ、祭りが欠かされることはない。
川に流されたキュウリの行方についてだが、現代では川の複雑な流れによって川底に堆積してその内少しずつ流されていくというのが定説となっている。
戦時中の焼夷弾を消した雨についても、村のある場所が盆地であるため湿気が溜まりやすく、比較的雨の降りやすい時期が重なった偶然とされた。
これらは有名大学の研究チームの調査によって結論付けられたのだが、その後、同大学の再調査によって矛盾が指摘され、レポートの取り下げによってふたたびこの村の伝承の謎は未解明のままとなっている。
さて、なぜ俺がそんな村の伝承について語ったのかというと、その伝承に出てきた河童に勝負を挑まれてしまったからだ。
「にぃ~しぃー、大角山ぁ~。ひぃ~がぁ~しぃー、荒ぁのぉ川ぁ~」
ハナがそれらしく呼出の真似事をして力士風に少し変えた名前を呼び上げる。
太郎川の上流にある川辺に土俵っぽく整備されている場所があり、俺はそこで西方に立ち、東方には航の父親の進が立っている。
土俵の真ん中では軍配を持った航が立っており、行司役をしている。
眠りに入る寸前に父親に連れ出されてきたため、眠そうにしているのが同情を誘う。
既に時刻は深夜を回っており、土俵の周りを篝火が4つ、等間隔に焚かれているのが唯一の光源となっている。
土俵を挟んで向こうに立つ進は既に本来の河童の姿に戻っている。
篝火に照らされた俺と進は白の褌姿だ。
猿のように体毛が濃くなり、先程見た時とは明らかに違う褐色の肌が全身を覆っているように見える。
唯一顔だけは変わっておらず、しかし頭頂部には河童特有の皿と思しき肌のくぼんだ箇所があった。
「遠野さん、なるべく怪我が少なく済むように気を付ける。だから全力でかかってきてくれ」
「怪我を負うのは確定なんですね。こちらもあまり余裕はないので使える手は全部使わせてもらいますよ。よもや卑怯とは言いませんよね?」
俺の言葉にニヤリと笑って自信満々といった風に頷いた。
「無論だ。古来より人間はそうやって妖怪に勝ってきたのだからな。今更あれもダメこれもダメでは妖怪の沽券に関わる。我等はいついかなる手にも立ち向かう。存分に使うと言い」
この言い方から晴十郎から聞かされたいくつかの対処法は役に立たないと判断し、残された手を思い出しながら土俵に上がった。
土俵際に立ってお互いに目線を合わせた時、俺から頭を下げて礼をする。
すると進も俺の姿を見て、少し遅れて頭を下げた。
この瞬間、俺は勝ちを確証した。
頭を下げた進の頭の皿から、水がこぼれて地面を濡らした。
これは河童の古典的な倒し方で、相撲を取る寸前に礼をするとそれを真似て河童も礼をして皿から水がこぼれて行くと同時に力が抜けてしまい、楽に勝てるというのが古い文献にあった。
河童の伝承には様々あったが、どれにも共通しているのは頭にある皿状の器官が渇くと力を失うというものだった。
そのため、河童は常に皿に水を溜めておくという。
その水が無くなってしまった以上、次第に力が抜けていく進に勝てると判断した俺は笑みを隠せずにいたのだが、何故か進自身も笑みを湛えており、力が抜けているようには見えなかった。
何故だと思っているとその答えが進の口から告げられた。
「弱体化しなくて驚いたか?皿の水を狙ってくるのは分かっていた。だからこれを使わせてもらったよ」
そう言って一旦背中に回した手で何かを取り出して、俺の方へと見せてきたのは薬が入ってると思われるチューブだった。
見せられたところでその正体に思い至らない俺に、進が説明してくれた。
「これは保湿ジェルだ。車で少し行ったところにあるドラッグストアで売っている。一本1500円、毎週金曜日は会員なら会計が5%OFFだ。よもや卑怯とは言うまいね?」
何やら余計な情報が多いが、それを抜きにしても驚愕が抜けきらない。
加えて、俺が言った言葉をそのまま返されグウの音も出ない。
まさか河童が皿の保湿というOLのような対策をとっていると思う者がいるだろうか、いやいない。
昔に比べて格段に進歩した技術によって弱点を克服した河童に、文献頼りの倒し方はぐ策としか思えず、そうなると取れる手はもはや数えるほどだ。
いや、正直に言おう。
最早手は一つしか残されていない。
顔に出そうな焦りを無理やりにでも引っ込め、目の前で皿にジェルを塗っている進に向ける強気の視線を崩さないでおく。
互いに仕切り線の前に立ち、蹲踞の構えを取り仕切り線に片手を置く。
よく誤解されがちだが、相撲の立ち合いのスタートは行事の掛け声から始まるのではなく、まず仕切り線に片手を置き、それから残ったもう片方の手を置いてお互いの目を合わせてタイミングを計って一斉にぶつかり合う。
なので相撲の場合のスタートのタイミングは立ち会う2人に任されるのだ。
俺と進の視線がぶつかり合い、気力が高まり最高潮へと達した瞬間、示し合わせたように地面を蹴ってぶつかりに行く。
一瞬にしてこちらとの距離を詰めてくる進の顔には満面の笑みが浮かんでおり、よっぽど相撲が好きなんだなと思わせられた。
俺の方へと突き出す様に伸ばされた手が届く前に、顔の高さへと上げた俺自身の両手を思いっきり叩き、相手に破裂音で衝撃を与える。
いわゆる猫騙しというやつだ。
河童相手に四つに組んでは勝ち目がないとは晴十郎から言われていたため、最初にこういった手を使って相手の勢いを削ぐ必要があった。
一瞬硬直した進だったが、過去にも使われたことがあるのか、すぐにこちらに突っ込んでくる勢いのままに両手が伸ばされてきた。
俺も当然これで終わるわけが無く、猫騙しで出来た極一瞬の隙を狙い、進の弾丸のような速さで迫る腕の下を潜り、脇を掠るように抜けていき進の後ろに回り込んだ。
実はこの時点で進は俺の姿を見失っている。
先程の猫騙しによって僅かな時間目を閉じてしまった進は、過去の経験によって腕を伸ばしたにすぎず、実際に俺の居場所は正確に把握しているわけではなかった。
丁度その眼を閉じている一瞬で今の立ち位置の入れ替わりが行われ、今俺の目の前には無防備な進の背中がある。
普通ならここから背中を押したり、褌を掴んで釣り上げて土俵の外へ等といった手を取るのだろうが、俺はそうはしない。
実は晴十郎から面白い話を聞いていたのだ。
河童の妖怪の特性として『掴む』という事象に関する伝承が多く残されている。
そこで晴十郎は河童が相撲を取る際にも、ただ地面に立っているのではなく、丸い土俵の内の地面を妖力を用いて掴んでいるのではないかと考えた。
なので、相撲の枠内での勝負となると持ち上げるは優に及ばず、動かすことすら困難なのではないかと推測された。
それを踏まえて俺がとる行動は投げるでも動かすでもない。
ピタッと進の背中に張り付くように立ち、腰を落とすのに合わせて膝も曲げることで、進の膝裏に自分の膝頭を軽く打ち付ける。
すなわち、膝カックンだ。
「後ろだとっ!?うぉっ!!」
背中に近付かれた瞬間に俺の存在に気付いたようだが、時既に遅し。
膝を崩され、倒れ込みそうになった進は、つい反射的に地面に手をついてしまった。
進の負けが決定した瞬間だった。
「いやー参ったっ!まさかあんな勝ち方があるとはな!がははははは!」
「兄ちゃんすげーよ!父ちゃんに勝てる奴なんかこの辺りじゃいないんだぜ!」
勝負がついて川辺を後にして家に帰る途中、親子から称賛の声が掛けられる。
正直、奇策に頼った勝ち方に納得しないんじゃないかと思っていたのだが、やはり相撲の勝ち負けにはさっぱりとした気持ちの整理が出来るようで、特に後に引きずることなく接してくれている。
「うぇへへへへ。な、あたしの言ったとおりだろ?大角なら勝てるって」
確かに言ったが、ハナの助言は全く役立っていないのだからドヤ顔をされるのはなんだか納得いかない。
そんな感じで俺と進の持つ懐中電灯だけが頼りの暗い夜道をワイワイと進んでいく内に、お互いの家への分かれ道に辿り着く。
航の家では彼の母親が寝ずに待っているのだそうだ。
「んじゃあ俺達はこっちだから、ここでお別れだ。遠野さん、今日は楽しかった。また機会があれば仕合たいもんだが」
「いやいや、今日勝てたのも偶然ですから。またやったら今度は一瞬で負けますよ。勘弁してください」
そんな感じで再戦を持ち掛けられるのを何とか断るのに苦労している脇では、ハナと航が明日また会うことを約束し合っている。
「明日は俺のとっておきの場所に案内するよ。すげー綺麗な所なんだ。絶対気に入ると思うぜ!」
「へぇー、航がそれだけ言うなら楽しみにしとく。大角も行くよな?」
突然話を振られたが、進から逃れる絶好のチャンスだと思い、その流れに乗る。
「そうだな、何もなければ皆で行こうか」
やったーと万歳で喜ぶ2人の姿は仲のいい子供同士といった感じだ。
ハナはもうすぐ成人なんだから落ち着いた方がいいと思うのだが、
そんな感じで夜の闇に相応しくない明るい雰囲気でお別れをし、それぞれの家へ帰っていく。
ハナは姿が見えなくなっても手を振っていたが、恐らく航も同じことをしていたに違いない。
気が済んだのか、少し離れて見守っていた俺の横に小走りで駆けよってきた花と一緒に家へと続く道を歩き出す。
「最後の最後で忙しい一日になっちまったな」
「そうだねー。けど、あたしも相撲取りたかったよ。航の父ちゃんって見るからに強そうだったもん」
「まあ実際、搦め手以外で勝てる要素なんか全くなかったからなあ。皿の水の対策までしてあるなんて思いもしなかった」
妖怪相手に弱点をつけない戦いほど絶望的なものはない。
その点では今まで相手して来た怪異の中では断トツで強敵と言える。
家に戻る頃には深夜の1時を回っており、明かりの付いていた居間ではトウが俺達の帰りを待ってくれていた。
「ただいま、待っててくれたのか?」
コクリと頷いてタブレットの画面を俺に見せてくる。
『おかえりなさい。怪我もないようで安心しました。夜食を用意してありますよ。』
本当に出来た奴だな、トウは。
正直腹はあまり減っていないが、せっかくの好意だし頂戴するとしよう。
「マジで!やったー!お腹ぺっこぺこだーい!」
俺の横から割り込むように画面を覗き込んできたハナが、夜食の存在に喜んで台所へと駆けて行った。
なぜ俺よりハナの方が腹ペコなのだろうか。
深夜の夜食会となった今では相撲の結果を知りたがったトウにハナが身振り手振りを混ぜて説明し、トウもそれに食い付いてきて、河童のことや俺の取った戦法やら深く知りたがったので根掘り葉掘り聞かれたことを細かく話してやった。
おかげで布団に入れたのは夜もだいぶ遅い時間になってしまった。
明日は少し遅くてもいいじゃないか、眠いんだもの だいかく
 




