【雨夜の嫁入り】
耳に響く夏の終わりを告げる声。誰そ彼時とは誰が云い始めたのか、随分上手いことを言ったと思う。先刻から、二人三人の人間と擦違ってきたが、それらがどのような顔をしていたかなど、皆目見当もつかない。一度、「あら。」と云う、まるで私を知っているかのような口ぶりの女の声がしたが、会釈をしてきたその人が誰なのか、もしかすると人間だったかどうかさえ定かではない。
私の身なりは殆どそのあたりの百姓と変わらない。否、それは過言だったとして、この身なりから私の身分が武士であると正しく指摘できる者はいないだろう。武士、と云っても私の家はそれこそ百姓の真似事をしなければ明日の暮らしも立ち行かなくなるほど、最下層の武士なのだ。辛うじて袂に携えた武士の矜持の一欠けら、脇差が、まるでどこからか盗んできた物のように私と一致していない。その事に改めて自覚して、私は一人苦笑した。
沈みかけた日に向かって、荒れた小道を歩いている。自分の屋敷、それも屋敷というより荒屋と云った方が正しいような屋敷、に向かっている。私が歩いている一本道の周りは、丁度もうじきやってくる収穫時期に合わせて穂を重くした稲が一面に揺れている。風が吹いている。しかし、稲が揺れているのはそれだけの理由だろうか。
ぽつり、と私の頬が濡れる。
空を見上げるが、薄らと紅く染まった空に、雲はその陰も見せず黙り込んでいる。しかし、雲が静かであるにも関わらず、空からはざわざわと雫が垂れてくる。晴れているのに、雨が降り始めた。
「狐の嫁入り、か。」
雨の雫の様に呟いて、私は空への視線を稲穂に移す。すると、身体に奇妙な感覚が起きた。稲穂の高さと私の視線の高さが同じだ。稲穂は私の胸の高さしかなかった筈だ。それが、今は私の眼の高さまで成長している。そんな筈はない。ふと、私は自分の身体の異変に気付いた。稲穂が高くなったのではない。私の背が低くなっている。背だけではない。手も、足も、何もかもが童子のように縮まっているのだ。
「なんだ……これは……」
身に着けていた物も、麻の擦り切れた百姓の物ではなく、真新しい武士の様相だった。武士の子どもが着る、立派な物だ。それも、どこかで見た覚えがある着物だった。私が幼少の頃着ていた着物だと気づいた時、暗闇に仄かに光る何かを見つけた。
ちりん、と私の耳に涼しい音が鳴る。
雨で濡れた土の匂い。不揃いな音色を奏でる雫の音。全身を包む湿った空気。それらを伝って、風鈴のような乾いた音が鳴る。
稲穂の上、流れる様な光の行列が迫ってくる。人間が列をなして歩く様な場所ではないのに、その行列は風程にも稲穂を揺らさずに、ただ一定の間隔でちりん、ちりん、と音を響かせて向かってくる。
「あ……」
私はぺたんと地面に尻餅をついた。稲穂の中を滑るように向かってきたその列は、皆決まり畏まった礼装を着て、ゆっくりと進んでいる。灯りを持っている様子はないのに、全体が薄らと、ぼんやり光って見えるのはどうしたことだろう。
その列の中ほどに、一際真白な、まるで雪の様に白い着物を着た女が籠に乗っていた。白無垢、と見た事のない着物の名が浮かぶ。
嫁入り行列だ。
目の前を流れていく行列は、一歩進むごとに軽やかな音を鳴らす。尻餅をついたままの私は、自分の滑稽な姿も忘れて呆然とその行列を見つめていた。ちりん、と行列が一つ音を鳴らして止まった。私の目の前で。
「大丈夫ですか?」
白無垢の女が云った。黒く艶やかな髪、白い肌。綺麗な女だ。しかし、そう思うのに、私の目はその女の顔をとらえられない。綺麗だろうというのはわかるのに、もし他の場所で女と会ってもこの女だとはわからないに違いない。
しかし、その女性を見た時から湧いてくる、じんわりと温かく、切ないこの気持ちはなんだろう。私は女性を見上げたまま応えることもできない。女性は一瞬首を傾げる様子を見せたが、一つ微笑んだあと、再び行列を動かし始めた。
どこへ嫁ぐ行列だろう。行列はすっかり私の前を過ぎ去った。稲穂が風に揺れる音が戻ってくる。辺りは暗く、雨はもう降っていなかった。私は慣れない小さな身体を起こして、行列を追いかけた。
行列は大きな屋敷の前で止まっていた。立派な塀に囲まれた、大きな屋敷。どこかで見た事があるような、そんな気になる屋敷だった。
私は屋敷の中に忍び込んだ。どうということはない。嫁入りに際した屋敷は門扉も玄関も開け放たれていて、忍び込むのに苦労はしなかった。見知った廊下を進み、屋敷の中で一番大きな部屋の前で私は足を止めた。同じような着物を着た人々が多く並んでいる。私が体験したことのない雰囲気が漂っている。こんな屋敷は初めてだ。その部屋の中央に、あの白無垢の女はいた。女は正座をし、目の前の男に深々と頭を下げている。
「めでたや……。遂にこの日が……」
「ほんに、めでたい。」
私の横に並んだ人々が、小さな声でそう云うのが聞こえた。嬉しそうな声。私はその方を向いた。
「あ……」
私は思わず声を上げた。私の隣に並んでいたのは人ではなかった。細い筆で描いたような吊り上った目、尖った顎、尖った耳、ふさふさとした尾が着物の隙から覗いている。
狐だ。
全員が狐というわけではない。人間の間に狐も混ざり合って、さも自然に、それが当然の事の様に婚姻の場に参加している。人間と話している狐もいる。この場にいる人間で、狐に気が付いているのは私だけなのだろうか。
はっとした私は、部屋の中央に座る白無垢の女に目を向けた。
「面を上げよ。」
女の前に座る、この屋敷の主人だろう男が云う。その声に聞き覚えがあった。その人間の顔にも、堂々とした居住まいにも。
「父上……」
紛れも無い、この日、嫁を迎えようとしていたのは私の父だ。だが、父の姿は私が知っている父の姿よりも二〇年は若く見える。若き日の父。
そして、父に促されて顔を上げた女。切れ長の、細い吊り上った目は間違いなく狐のそれだった。
「葛の葉と申します。この先、末永く、よろしくお願い申し上げます。」
「母上……!」
それは、その女は、間違いなく私の母だった。私が幼いころに別れた母。ほとんど記憶に残らない母の姿。私が生まれるよりも前、母が父に嫁いだ日だ。
「もしもし、大丈夫ですか。」
頬に雫が当たっている。ぽつぽつと、また雨が戻ってきたらしい。身体の裏側の感触で、私は自分が仰向けに寝ていることを知った。土の匂いがすぐ側でする。閉じた瞼の先に日の光はない。ああ、もう夜だ。私は何をしていたのだろう。夢でも見ていたのか。
往来で、大の男が大の字で寝ている様は、さも滑稽だろう。私は女の声に揺り動かされて、ゆっくりと目を開けた。
しばし、目の前の光景に私は私を見失った。また夢に戻ってしまったかと、声も出なかった。
雲一つない誰そ彼時の空から、雨粒が落ちている。ちりん、とまるで風鈴の様な乾いた音が鳴る。そして、目の前には白無垢を着た花嫁がいる。私に声を掛けてくる。
「大事はありませぬか。」
花嫁は丁寧な口調で私に問いかける。私は行列の人々に素早く視線を移した。どの着物の隙からも、狐の尾が覗いている。
「おや、貴様は人の子。」
唐突に、花嫁が云った。顔にかかった白い覆いを手で避けて、その下から女の顔がすっかり見えた。狐の口角が大きく持ち上がる。
「そなた、我らと同じ匂いがするな。一目でわからなかったぞ。狐の子、そなたの母は葛の葉か。」
私は声が出せない。全身が金縛りに遭った様に黙って狐の一行を見つめていた。
「この事は他言せぬように。努々、忘るなよ。」
狐の花嫁はそう云い残して、また一歩ずつちりんと響かせながら、どこかの家へ嫁入りに行ってしまった。
狐の嫁入りが去った後、降り続いていた雨はいつの間にか止んでいた。
終
ホラーというとまた違うと思うのですが、かとって文学と言い切ってしまうにはずれているような気がして、ホラーのジャンルにさせていただきました。
季節外れもいいとこですが、前回投稿した冬の次の春に書いた作品は載せることが少しためらわれたので。
執筆時に考えていたことなどはいつものように活動報告にて書かせていただきます。