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ノーティス

作者: 九条 隼

「あんたなんて……!」


 そう叫んで、何度君に手を上げたことだろう。君はいつも黙って私の傍に居てくれた。私にはそれがただの嫌がらせとしか思えなくて、君がぼろぼろになってしまうまで叫んで、手を上げ続けた。



 許せなかった。


 信じられなかった。



 こんな現実を。


 だからずっとずっと、貴方から目を逸らすことで立ってきた。



 貴方を否定することで、私は私として生きていられた。



 だけどあの日。


 取り返しのつかないことをしてしまった、あの日。




――今でも夢に見るの。


 君は必死に私を呼んでいて、私を抑えようとしていた。


 正気を失ったなんてありふれた言葉で君を傷つけ、殺してしまいそうになった。


 真っ赤に染まったカーペット。


 倒れ込む君。


 私は一人で立ち尽くしていた。


 見知らぬ男が悲鳴を上げて、私を押さえ込んで――




 気が付いたら病院だった。


 君は姿を消していた。


 そうして漸く、何故君が私のそばに居てくれたのか気付いたの。



“あなたの息子だから、って、いつも笑って言ってた。なのに、何で!?”


 幼い女の子の真っ直ぐな言葉に、息が出来なくなったの。



“幸人が不幸だったのだって、全部、全部貴方の所為じゃない!!”



 その言葉に、なにも反論できなかった。




――貴方は、犯罪者の子。


 犯罪者と、その被害者の間にできた子。


 私の悲劇の、始まりの子。


 ずっと君を見るたび怖くて、苦しくて、信じられなかった。


 笑って駆け寄ってくる君が、憎かったの。



 何で、その髪で。


 その目で。


 その顔で。


 その、口で。


“おかあさん”


 だなんて。




「……」

 居心地が悪そうに体を縮めてイスに座る彼女に、笑みがこぼれる。

 綺麗な金色の髪。日本人離れしたその容姿に、あの子は随分と遠くまで離れていったのだと気付く。余程私に会いたくなかったのね。そんなことをふと思う。でも傷付く権利なんてない。自分がしたこと、分かってるでしょ? ぎゅっとスカートを握り締める。

「貴方は、あの子の恋人……なのよね」

 ぎくりと肩を震わせる。それから顔を真っ赤にさせて、小さくうなずいた。

 ああ、……。

 目が熱くなる。

 羨ましい、なんて。

 ……今更何でそんなこと思えるの、本当に、自分のことしか考えられないのね。情けない人ね。しょうもない人ね、それはそうよね、実の息子に包丁を向けた女なんて、ろくでもないものね。

 ああまた、被害者面の悲劇のヒロインぶって情けない。

「あの子は……」

「あ、あの」

 少し怯えた様な目で、彼女は私の様子をうかがった。少し気の強そうな、それでも可愛い女の子。真っ赤な目が、痛々しい。


「貴方が、あいつ……えっと、あの、人の。母親ですか」

 母親。

 重たい言葉を、かみしめる。

 喉の奥が震えた。それでも、あの子を愛してくれた彼女に偽りの言葉をはくことは許されない。


「私はできそこないの母親よ。ずっとあの子を、……虐待してたの。産まれてからずっとね」


 茫然とした顔。

 何も言えない様な、そんな顔。

 痛い位の静寂が間に落ちた。

 時計の針だけが重たい音を刻んでいる。


 ああきっと、この子は何も知らない。

 あの子からきっと、何も知らされていない。あの子はきっと、この子に何も言わなかった。



 そのことが何故だか、酷く苦しい。


 それは、そうよね。 

 あの、幼いころから才能にあふれていたあの子の人生に汚点はいらない。



 あの頃は本当にどうかしていた。

 今になって、強くそう思う。


 けれどもう私にその償いは、謝罪は、できない。



「ぎゃくたい……」

 聞き慣れない言葉を聞いた様な姿に、笑う。

「息子であるあの子を、親である私が、殺そうとしたのよ」

「そう、なのか……? てっきり、仲がいいのかと思ってました。幸人は、よく貴方の話をするから」

「……わたしの?」

 困惑しきった声に、思わず顔を上げた。

 訝しげな、納得のいかない様な顔。彼女の視線は右上に泳いでいく。長い睫毛が白い頬に影を落とす。

 あの子のことを、思い出しているのだろうか。

 次第に潤んでいく彼女の瞳はとても綺麗に見えて、卑しくも羨ましいだなんて、そう思った。


 幼いあの子の小さい肩を思い出す。

 それだけで私は息苦しくなる。

 己の愚行を軽蔑して、詰る。

 隣で小さくなって、それでも背中を見せなかったあの子。あの子はいつも傷だらけだった。……私が手を上げたあかし。

 忘れたかったはず。そのはずなのに。なのに、なのに私を思い出すなんて。

「嘘よ」

「……」

「だって」

 困ったように彼女は身を縮める。

 それから、思い切ったように顔を上げて私を睨みつけた。


「僕は」

 何かを押さえ込んだような、震えた声だった。


「僕は親がいません。いえ、記憶がありません。僕は自分の名前しか覚えていませんでした。それでもあいつは僕に手を差し伸べてくれた。知らない事は教えてくれた。昔の記憶なんていらないと言えば、それでもいいと言ってくれた。それでも、その記憶の中に僕を思ってくれている誰かのことは無碍にするなと叱ってくれた。僕には、あいつしかいない。でもあいつは違う。あいつは僕のことを全部知っているけど、僕はあいつのことを全然知らない。あいつはいつもへらへら笑ってて、でも自分の話は一切しない。何を聞いてもいつの間にかはぐらかされて、でも……、でも、貴方の話を聞くときだけは違った。ピアノがどうとか、優しい綺麗な人だとか、でも料理は苦手だとか、そんな話を延々と聞かされて」

 潤んでいく。

 目尻にたまって、長いまつげにいくつもくっついて、やがて耐えきれなくなって零れた。

 素直に、清らかに、当然のように流れていくその滴は、残酷なくらい綺麗だ。



――あの子も、こんな風に、泣くのだろうか。

 いつでも穏やかに笑んでいたあの小さな体を思い出す。

 こんな風に、清純に、美しく。



「呆れながらも、僕はあいつが羨ましかった。僕はあいつの持っている物を持っていないから。怖い位完璧なあいつを羨んでいて、母親については、そのひとつで。僕にも、そんな人がいるのかなんて思ってました」


「なら、きっと」


 きっと、……。


 声が震えていく。


 唇が震えて、何も言えなくなる。



 きっと、。


 その先を、如何しても言えない。



 

 やめてよ、情けないでしょ。


 私が自分でしたことでしょ。



 私には泣く資格だって、ないじゃないの。




「だから、会えてよかった」




 ぼろりと涙がこぼれた。


 彼女は昔見たあの子のように柔らかい笑みを浮かべて、泣いていた。




「あいつが愛した貴方に」






「後悔してると言えないくらいあいつを大切に思う貴方に」






「漸くあいつのことを受け入れられそうだ」



 これは、できそこないの母親の話。



 それでも大切だったと、そう気付くことのできた女の話。




ノーティス:notice

気付く。

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