風邪と、林檎と、優しさと──。
レミリア・スカーレットはベッドの上で苦しそうに咳込み、冷める様子のない高熱にうなされていた。
彼女の寝室には窓はなく、明かりは暖炉で燃えている薪だけだ。熱にうなされる彼女には、揺らめく炎がいつも以上に揺らいで見えた。
────吸血鬼が風邪をひくなんて。
レミリアは自分の体が思いのほか脆かった事に驚きと呆れを抱いていた。
ベッドの上で天井を見つめたまま風邪の原因を考えるが、前の日に雪の積もった庭でフランと遊んだことくらいしか覚えがなかった。
だが、たかだか雪の上で汗をかくほど遊ぶ程度、吸血鬼が体調不良になる理由としては弱い。
「っ────」
レミリアは突然襲いかかった頭痛に顔をしかめ、そっと右手を額に当てた。触れた右手が少し濡れた。額は、汗でびっしょりだった。熱で感覚が少々鈍くなっていたせいか、額の汗に気づいて始めて全身汗びっしょりな事に気づいた。
────咲夜に着替えを持ってこさせるか、とレミリアは心の中で呟いた。咲夜、そういえばこの時間はいないんだった。
寝返りをうった時にたまたま目に入った時計の針を見て、レミリアは自分が咲夜に頼んだお使いを思い出した。今日この時間、彼女は本来なら地霊殿に赴き、古明地さとりとお茶をする予定だった。咲夜には、それができそうにもないことを伝えてもらうようにした。
レミリアは半年ほど前からさとりと仲良くしていた。きっかけはさとりの妹の古明地こいしが紅魔館のフランの部屋に浸入したことだ。たまたまフランの部屋へ用があったレミリアがフランの部屋に入ると、そこでは仲良く遊ぶ二人の姿。レミリアは何があったか知らないが、フランとこいしは意気投合したらしい。
そんな縁から地霊殿を訪れる機会が有り、レミリアはさとりに出会った。
「初めまして。紅魔館の当主、レミリア・スカーレットさん。私が地霊殿の主で古明地こいしの姉の古明地さとりです。『こいつも姉か……』ですか。そうですね。お互い妹を持つもの同士です」
さとりが済ました顔で心を覗き淡々と言った。それが、初めての邂逅にして最初に受けた言葉。
レミリアはその時の事を思い出すと、今でも不思議な気持ちになる。
古明地さとりが覚り妖怪であり、心を読む事は噂程度に知っていた。故に、地霊殿を訪れるまで心を読まれた時自分がどう思うのかを考えていた。至った思いは、どうも思わないことだった。心を覗かれたところで不都合はなかったし、その妖怪のアイデンティティーを否定する気もなかった。覚りは心を覗いてこそ覚り。吸血鬼が血を吸う行為と大した変わりはない。そんな当たり前の思考の最中、つまらない思考をしていると気づいてそれを止めた。だから、さとりに心を覗かれた時の事を思い出すと今でも不思議な気持ちになる。
なにせ、道中の思考とは違いそこには一つの感情が生まれたからだ。
楽しみ、喜び、幸せ、温かさ。たった一つの感情だったが、それを一言で表すことはできなかった。あの日の感情はなんだったのか。今でもその答えは、でない。
「ゴホッ、ゴホッ────!」
不意に咳き込む。突然込み上げる咳が不快感を強める。同時に、咳とはこんなに辛いものだったのか、とレミリアは思った。
風邪に気づいてベッドに潜ったのが夜明け前。現在時刻、三時。
吸血鬼は夜が活動時間だが、幻想郷では昼間に面白い事があったりもする。喜劇を見逃さないために昼間も起きている生活を送っていたレミリアにはいささか睡眠の取りすぎになっており、眠る気は起きなかった。というか、眠れる気がしなかった。眠気もそうだが、汗で濡れた服が気持ち悪いのと不意に込み上げる咳の苦しさの所為で。眠れないなら起き上がろうとも思った。しかし、こんなに視界がゆれる程の熱をだす体調で起き上がる気にもなれない。
「……退屈ね」
溜め息をついてレミリアは呟いた。そこへ、コンコンコン、とノックが三回鳴った。そして、ドアノブが回った。
普段ならレミリアの許しを受けてから部屋に入るのだが、彼女はごらんの有様。声を出すのも億劫になる体調なので、ノックだけで入って良しと咲夜に伝えていた。だから、入ってくるのも咲夜だとレミリアは思っていた。だが、レミリアの予想とは違って本来この館にはいない人物が入ってきた。
「『どうしてあなたが?』テンプレートな言葉をありがとうございます。体調の方は……最悪のようですね」
レミリアのありきたりな心の呟きが面白かったのか、ふふふと口元に手を当てて上品に微笑む少女がそこにはいた。
ゆっくりとレミリアへ向かって歩く彼女は、やや癖のある薄紫のボブカットの髪を静かに揺らし、深紅の双眸と胸元に浮く複数のコードで繋がれている第三の目──サードアイ─―にレミリアの姿を映す。
レミリアは、いつものフリルの多くついたゆったりとした水色の服に、膝くらいまでのピンクのセミロングスカート姿の彼女を 視界に納めて再び、
────どうして、さとりがここに……、とレミリアが心の中で呟いた。夢でもみているのかとも思ったが、それにしては見るものが全て鮮明で、受ける感覚もはっきりしている。なにより、夢特有の浮遊感がないことを感じ夢ではないと思った。
さとりはレミリアの寝るベッドの横に、持ってきた椅子を置き腰かけた。そして、そっと左手で自分の額に、右手でレミリアの額に触れた。
「あら。本当に酷い熱。それに、凄い汗。あ、着替えならメイド長さんがもって来るそうです」
さとりの言葉と同時に咲夜がノックとともに入ってきた。レミリアはさとりに聞きたい事がたくさんあったが、汗の気持ち悪さには勝てず着替えを優先した。
咲夜はわかるが、何故かさとりもレミリアの着替えを手伝った。従者に着替えを手伝わせるのはよくあることだが、友人にさせることは滅多にない。しかも、相手はさとりだ。表には出さない羞恥も筒抜けだと思うと、レミリアは余計に恥ずかしかった。そして、さすがにこういうことで心を覗かれるのは不都合でしかないと知った。
着替えが終わり、咲夜が自身の仕事へ戻った。従者ならばレミリアの看病こそ仕事のような気もするが、そこはさとりがすることになった。全て、地霊殿から紅魔館までの道中に決まったことであった。
「んく……んく……」
レミリアは上半身を起こし、咲夜が持ってきていた水で喉を潤した。熱と咳で痛いくらいカラカラだった喉を癒すように注がれた水は、彼女にとって心地よいもので僅かながら体が軽くなる感覚を覚えた。
そんなレミリアの横でさとりは何をしているのかというと、林檎を向いていた。綺麗に、皮を途中で切らすことなくつなげたまま。
「『器用なのね』ですか。一応、地霊殿で食事も作りますから。こういうのは得意なんですよ?」
林檎の皮を向き終わり、食べやすいサイズに切り分けながらさとりが言った。
「『声を出すのが辛いから心を読んでくれるのは助かる』ですか。ふふ。私としてはあなたの声が聞けないのは残念ですね。レミリアの声、綺麗ですから」
「っ────」
屈託のない笑顔でそう言われてしまい、レミリアは自身の熱が上がるのを感じた。
さとりは種族柄能力をフル活用して接する。故に、そこにまともなコミュニケーションは存在しない。さとりと会話をするものは心の言葉を言われ続け、まるで一人で話しているような気分になるらしい。だが、だからといって冷たい性格と言うわけではない。寧ろ、その逆。物腰は柔らかく、静かで落ち着いた雰囲気を持つ。まるで、母親のような寛容さと優しさを兼ね備えた人物だ。
相手を心配もするし、相手のいい所を伝えることもある。
ただ、さとりはそれが少々唐突だ。
なにせ、自分の心を言葉にされ続けていると思ったら急にさとり自身の言葉が飛んでくる。レミリアは結構な回数この不意打ちにやられている。レミリア本人も悪い気はしないから怒る必要性はないが、不意打ちをされっぱなしなのは気にくわない。そう思ってはいるが、仕返しができたためしはない。
「レミリア、林檎食べますか?」
切り終えた林檎の一つに爪楊枝をさし、レミリアの口元へ運ぶ。さとりはあーんと少しだけ頬を染めて小さく言った。
それを子ども扱いされているようにレミリアは感じ、反論しようとした。
「『子ども扱いするな』ですか。そんなつもりはないですよ。私、メイド長さんからレミリアが風邪で寝込んでいると聞いて凄く心配したんですよ? だから、急いでここまで来たんです。苦しんでいるレミリアを少しでも助けられないかと思って。私にできるのはレミリアの傍にいる事と林檎を食べさせることくらいです。これは、許されないことですか?」
「……………………」
さとりの言葉にレミリアは卑怯だと思った。まだ半年の付き合いだが、さとりの性格は何となくわかっているし、こうして真剣に話す言葉にからかいなど含まれてはいない。
純粋に自分を心配をしている。レミリアには、それが分かっていた。だが、それでも。まさかあーんをする事になるとは誰が予想するか。つまるところ、レミリアは恥ずかしさから子ども扱いするなどと言う言葉を心で呟いたのだ。だがそうなると、さとりはその恥ずかしさを理解したうえでレミリアに語りかけたことになる。
────案外、からかいも混じっていたのかしら、とレミリアは思ったが熱の所為で頭は上手く働かなかった。だから、さとりに任せる事にした。
「『好きにしないさい』。はい。私なりにできることを、させてもらいますね」
さとりは心のそこから嬉しそうな笑みを浮かべ、レミリアが開けた小さな口の中へ林檎を運んだ。
口の中へ入る林檎。一齧りした林檎は、甘く、冷たく、優しい。
あの日レミリアが感じた不思議な気持ちに、どこか────似ていた。