パーティのはじまり
男は誰しも、一度はいい女から滅茶苦茶に扱われたい願望があるんじゃないかと思う。
いい女っていうのは真っ赤な口紅と真っ赤なピンヒールが似合う女で、もちろん脚が最大のアピールポイントである必要がある。細いだけじゃなくて、バランスがよくて丁寧な筋肉がついていて、膝から下がすらりと長くて、でもふくらはぎはきちんと発達している、みたいな。
胸が大きい方がいいかどうかっていうのは個人的な趣味であって、腰のくびれさえくっきりはっきりしていればそっちの方は比較的どうでもいい。でもできればささやか過ぎず、巨大すぎず、てのひらで覆えば少しはみ出すかな、くらいの、形がいい胸であれば最高で。
それにしてもどうしてタバコやストローにべったりと残る口紅というのは、こうも胸の奥の方の、普段はあまり刺激されないような限定的の恋心をつついてくるんだろう。
唇のしわをくっきり残した、どこか艶っぽさの中に脂を感じさせる口紅の痕。
あれを見るたびに、俺はまだ未成年で童貞で女への憧ればっかりに頭を膨らませて、妄想だけでイッてしまいそうな不安定極まりない自信のなかった頃のひょろりとした自分に戻ってしまう気がする。
今でも別に自信なんかないけど。
大人の女、に滅茶苦茶にされたい。
願望であり憧れであり、下半身を直撃する欲望であり。
男ってみんなそんなことをちらりと考えて生きている生き物なんじゃないかとは思うけれど、誰かにそんな話はしたことがない。個人的な好みだし。口紅は真っ赤なのよりオレンジが強いくらいのがいいとか、そういうことを追求していくと話が逸れていってしまいそうになるだろうし。
なんてことを考えていたら、リサイクルショップに売られてしまった。
望み通りの女と出会って、それこそ望み通りに無茶苦茶に扱われていたら、ある日突然彼女の部屋の中のものと一緒に。ぽん、と。売られてしまったわけだ。
いや、もうびっくりしたね。
びっくりしたなんてもんじゃない。
休みの日の午前中に、黒いエプロンをつけた若い兄ちゃんが三人ほどどかどかっと入ってきて、彼女のベッドでほぼ半裸状態のまま寝ていた俺はなんだなんだ強盗かと声も上げられないほど驚いて、それこそ玉まで竦みあがっていたのに、奴らは平然とした顔で本棚の傷だのテレビのサイズだのをきっちり確認しながらこれはいくらだあれはいくらだとぶつぶつ呟いて、付箋に数字を書いてぺたぺたと貼り付けて回っていた。黄色い幅広の付箋だった。
それで兄ちゃんのひとりが俺の掛け布団を引っぺがして、さすがにこっちも「うわっ」だの「あきゃっ」だの変な声が出たけどまったく気にもせずに、俺のこともじろじろ眺めてから指差した。これはベッドの付属品になるかな、って。
付属品?
俺が?
ベッドの?
なんだそれ、と言うより前に他のふたりが首だけ俺の方に向けて、それは単品でいいと思う、とかってしれっとした声で言いやがった。単品。俺、単品なのね。はいはい。
ペット類は取り扱ってないけど人間だからまあいいか、ってなんだかものすごいことを言われながら、俺にもぺたっと付箋が貼られた。500って。え、俺500円で引き取り? なにそれ、マジで? ところでこれって何の冗談なのか、彼女ちょっと朝から用事があるとかで出てるんだけど今のこの状態はどうなってんでしょうか、ね、むしろこれって変な夢でも見てんのかな、ってとりあえず聞いてみたら、「ご依頼があってこの部屋のものすべてを買い取るよう指示されました」なんていう返事がきちゃったし。しかもすんごい真顔で。
俺、もうびびっちゃったね。
なんなの一体、大体生きてる人間を本人の許可もなく売るってどうなの、許可があってもダメだと思うんだけど、って意外と言えないもんなのな。だって、兄ちゃん達あまりにも淡々と作業してんだもん。そのうち梱包とか始めちゃって。俺? 俺は別に梱包なし。でも服は着ろって言われた。
それで、リサイクルショップ「みんなの倉庫」に俺は売られちゃったわけだ。
リサイクルショップって実は一回も入ったことがなかったんだけど、結構適当なのね。他の店を知らないから、「みんなの倉庫」だけが適当なのかも知んないけど。どかんどかんと棚が置かれてて、食器類ならコップから皿から漆塗りの椀からが値札張られてぽんぽん置かれてんの。服とかは夏物冬物なんて分けられたりなんてもちろんしてなくて、スカートだろうがセーターだろうが水着だろうがハンガーにかけられてぱぱぱぱぱーっと並べられててさ。電化製品とか机とかもぼんぼん置いてあって、誰が買うんだこんなもん、っていうような個人名が入ったトロフィーだとか卒業証書とかそうそう、あと古新聞なんかも置いてあって驚いた。誰が買うの、ほんとに。
俺はというと、ぬいぐるみとかが置いてあったコーナーに最初置かれてたんだけど、なんか違うなってことで途中から人体模型とか標本骸骨とか実寸大くらいの馬の置物とかと一緒に並べられた。誰だよ、人体模型とか売るの。廃院になったところから持ってくんの?
そこはレジに近くて、俺はたまに中にいる人と話をしたりしてた。午前十一時から夜中一時まで営業してる店で、俺は平日会社に行かなきゃなんないから仕事終わりから閉店までリサイクルショップに顔出すの。商品として。で、閉店すると家に帰ってよし。でも売れるまではきちんとショップに顔を出す。
バカバカしいって思いながらも、行くのなんてやめればいいと思いながらも、俺は結構真面目に商品として店に立っていた。俺の値段、650円よ。安いもんだ。なにを基準にこの値段にしたんだ。本当にバカみたいだし、万が一どこの誰とも知れないような奴に買われたらどうするんだ、と思いつつも、でもどっかで俺を売ったことを後悔した彼女が買い戻しにやってくるんじゃないかって、そこはかとなく甘い夢を見ていたことは否めない。
いい女だった。
本当に。
中身云々じゃなくて、見た目が。
トルソーをなまめかしく、もっと膨らみやへこみを大胆にして、それでいてやわらかく繊細にして手触りをよくしたような。
彼女といると、毎日がパーティーみたいだった。
ワイン丸々一本、湯を張った浴槽にぶちまけて入ってみたり、目隠しで口移しに食べさせられたものを当ててみる遊びをしたり。ストッキングでゆるゆると首を絞められたり、下の毛を剃られてみたり。
下の毛を剃られると、人間無防備になった気分になるもんだ。
そしてトイレではこそこそするようになるし、温泉みたいなところには行けないし、なにより毛が伸びるまでのちくちくとむずがゆい感じは気持ちが悪いし、なんとなく内股で生活するようになるし、困ったもんだ。毛を失くしたことでうろたえて自信も失くしたような俺を、彼女が真っ赤な唇でじんわりと笑う。その唇の形が、動きが、俺を恥ずかしさと興奮とでこねくりまわして突き上げる。パンパンに空気を詰めた風船の栓を抜いたみたいに、俺は膨らんで一気にすべてを吐き出す。
浄化でもしてるみたいに。
まさか自分が三十歳を超えたところで、こんな馬鹿げた状態で恋愛をすることになろうとは思わなかった。そういうのは、二十歳そこそこの小僧が年上の女にペット扱いでされるものだと思ってた。お小遣いつきなんかで。俺には関係のない世界の話だと。
しかし俺はいつから十年遅く生まれただけの人間を小僧なんて偉そうにひとくくりできるような大人になったんだろう。大人でもないな。年を取っただけで、中身なんてなにも変わってない。
それよりまず、彼女との関係が恋愛なのかっていうのが問題だ。恋愛でもなさそうだ。じゃあなんだろう。分からない。大人ってもっと、世の中に対して分からないってことが少ないものだと思ってたけど、俺は今でも分からないことだらけだ。
彼女の輪郭、ほんの少し開き気味の紅い唇はくっきりと思い出せるのに、どうしてだろう、全体的な彼女の顔が俺には思い出せない。
久しぶりじゃん吉野ちゃん、と幼馴染みが笑った。
奴の店は川沿いの掘っ立て小屋みたいなところで、Lの字のカウンター席が七つあるだけの小さな飲み屋だ。
「うん、店に出なきゃなんないから」
「なに、ホストでも始めた?」
「俺がホストって顔かよ」
「全然。まったく。売れないにも程がある」
「ひでーな」
熱いおしぼりが渡される。熱くて厚いやつだ、おしぼりがしょぼいと飲み食いする気が失せる、というのが幼馴染みの主張だそうだ。
「俺、今売り物なんだよ」
「なに、身体売ってんの? そういう風俗?」
「そんなの聞いたことねーよ」
「吉野ちゃん売れなさそうだなー」
「身体なんか売ってないっつの」
「じゃあなんだよ意味分かんないっつの」
メニューは短冊に書かれて壁にべたべたと貼られている。ビール、と言うと、いいのがあるから、と日本酒をコップについで出された。いつもそうだ。
「結婚でもすんの?」
「俺が? なんで?」
「身体売ってる、って、婿にでも行くってことなんかなーと思って」
「する相手もいねーよ」
結婚する相手もいないが、そういえば彼女とはそんなこと考えたこともなかった。まだ二十七、八だったはずだ。結婚なんて不似合いな女だった。まさかいらなくなったからってリサイクルされるとは思わなかったけど。
「肉っぽいもん食いたいなー」
「唐揚げ出そっか」
「なんかもっとそういうもんじゃなくて、肉っぽいもん」
「唐揚げのどこが肉っぽくないんだよ、牛とか食いたいってことか?」
「あー、玉子焼き食いたい」
「ちっとも肉じゃねーよ、吉野ちゃん!」
焼くけどさ、と幼馴染みが笑う。
小学校のときからの付き合いになるけど、まさかこんな腹の突き出たおっさんになるとは思わなかった。三十一にして頭髪の方も危うい。俺もそのうち人のことが言えなくなるんだろうが、幼馴染みよりちょっとはマシな中肉中背だ。
「いっつもメニューにないもん作らせるよなー」
「俺とお前の仲だから」
「あらいやん、照れちゃうわん。あ、はいはい、ビールね、瓶でいいっスか?」
店の隅でひとり飲んでいたらしい、くたびれたスーツのおっさんが空のコップを振っていた。人の気配がしなかったから驚いた。
「照れてる場合じゃなかった、玉子ないわ」
「マジでか」
「吉野ちゃん、買ってきてよ」
「マジでか」
「マジでマジで。川渡った向こうのコンビニで売ってるから」
「突き出しも来てないのにか」
「作っとく作っとく、金渡す」
「……まあいいわ」
俺はコートだけ引っ掛けて店を出る。十二月の夜の空は暗くて星が綺麗で深い。今年は雪が遅いのにやたらと冷える。夏が暑過ぎたからかもしれない。地球もメリハリをつけようと頑張ってんだろう。
店のすぐ脇にある朱色に塗られた橋を渡る。
息を吐いたら真っ白で、これが人の心の状態によって色分けされてたら面白いのに、なんて柄にもないことを思う。恋をしてる人はピンクだな。淋しい人は水色だ。いや、もっと深い青か? 悪いことを考えてる奴はもちろん黒だ。灰色の人はなんだろう。楽しい人はオレンジ色か。ああ、なんか俺くだらないこと考えてんな。
コートのポケットに両手を突っ込んで、でも前を閉じていなかったから冷たい風は面白いように身体をくすぐっていく。表面の体温を奪っていく。鼻が冷たい。
弱ってんな。
弱ってる。
心が。
売られたからなのか、彼女に捨てられたからなのか、心細い。地面がしっかりとしてない感じだ。ふらりふらり。揺れるけど倒れない。きっと、倒れてる方が支えられてる面積の広い分、安定するんだろうに。
外灯の明りはぽつぽつと、それを辿ってコンビニまで行って卵を買ってレシートをもらった。
「ただいま」
「悪かったねー、特別スペシャルなの焼くから。いくらだった?」
「なんかお遣いに行かされた子供と母ちゃんの会話みたいだな」
別にいいよ安いもんだし、と言ったけど、商売なのでそういうわけにはいかないと幼馴染みはレシートを取り上げ、小銭を俺の手に乗せた。
「寒かったっしょ」
もう一本おしぼりが出される。
「うん」
おっさんはテーブルに突っ伏して寝ているようだった。
店の中にはフォークっぽいギターの曲がかかっていた。有線なんかは引いてないから、幼馴染みが気に入った曲を適当にかけてる。ハマればなんでも聴く奴なので、ものすごく不似合いなクラシックなんかがかかってることもある。
「誰の曲?」
「ん、タダセンパイ」
「え、どこの先輩?」
「あ? ああ、違う違う、学校の先輩じゃなくて、そういう名前のアーティスト。最近好きで」
知らない間に小鉢が出されていた。キャベツの茹でたのに、甘い味噌がかかっている。
悲しくて、と音楽が流れていた。芯があるのに、甘く伸びる声だ。
悲しい。
悲しいのか。
悲しいのは誰だ。
悲しいのは俺か。
「どしたの吉野ちゃん、随分辛気臭い顔になったけど」
「そうか?」
「仕事?」
「うん?」
「なんかあったとか?」
「や、女と別れた」
女いたの、と幼馴染みが大げさに驚く。驚きついでに、魚焼くかと聞かれたので頷いた。
「いたんだよ、もういないけど」
「絶滅した動物みたいだな、いたけどもういないって」
「絶滅ねぇ。絶えて滅したんだから、俺の恋も絶滅したんだなー」
「淋しい顔になってんなー。飲みな? 失恋ってのは飲んで癒すんだよ?」
「お前の店も儲かるもんな」
「世の中の人がみんな失恋すればいい」
「おいー、そういう乱暴なことを言うなよ」
「でもそしたら吉野ちゃんの失恋もそのうちのただいっこってだけになんじゃん」
世の中でどれだけ失恋の数が増えても、それは数だけの話であってひとつひとつのそれは個人的なことであり、哀しみもまた個人的でひとりひとりが乗り越えなきゃなんないものだろう、と言うのは言い訳をしてるみたいでバカバカしかったから言わなかった。代わりに出されていた冷酒を一気に飲んだ。
酒に強いわけでもないのに。
「それで女と別れたんだけどさ。おかわり」
「ビール?」
「さっきからビールくれって言ってる気がすんだけど」
「一回しか言ってねーよ。でも冷でもう一杯飲まん? ちょっと甘いんだけど」飲まねーからビールくれ、と言ったのに、出されたのはやっぱり冷酒だった。
「で?」
「なんだよ、で、って」
「女と別れたんだけど、で続きがあったんじゃなくて?」
「あー。別れたんだよ」
「おう」
「で、俺は女の部屋のもんと一緒にリサイクルショップに売られたんだな」
「……はい?」
幼馴染みの声が裏返った。
そりゃそうだ。俺だって意味が分からない。
「売られた? ああいう店って、生き物の取り扱いはしてないんじゃなくて?」
「知らねーよ、実際売られてんだから」
「売られてどうしてんの、ずっと商品として店頭にいるわけ?」
「いや、仕事行ってるし。仕事終わったら店行って、閉店までいる感じ。別にだらだらしてるだけっつうか、店終わったら普通に帰って寝るけど」
「バイトみたいだな」
「金入らんけどな」
「今も行ってんの?」
「そ。今日は具合悪いからって店行くのサボったけどさ、俺650円よ? マジでよ? 俺本体がその価格よ?」
「安っ! つーか、吉野ちゃん買われたらどうすんの?」
「へ?」
買われたらどうするって、とオウム返しにして、心配はしてもそれ以上は考えていないので、続きの言葉なんて出てこない。売られてるということは買われることもあるというのは分かっているけど、楽観視しているだけで。
「変態なおっさんとかに買われて、全裸で首輪されて飼われたらどうする?」
「お、お前気持ち悪いこと言うなよっ」
「だって有り得んじゃん。カニバ趣味の奴とかに買われて、シチューとかにされたらどうするよ」
「カニバ?」
「カニバリズムじゃなかったっけ、人肉食う性癖がある人って」
「怖えーっ、怖えーこと言うなよー」
でもそういう可能性はないわけじゃない。
ただ、可愛い女の子に買われるという可能性ももちろんある。
可愛い女の子。
可愛い女の子なんてものを、俺は望んでるんだろうか。
「オレ、吉野ちゃん買いに行くわ」
「え? お前、そういう変な趣味があったとか?」
「ないっつの、ないないないない、オレ女の子好きだし、至ってノーマルだし!でも買い戻さないと、吉野ちゃんいつまでも売られてんだろ?」
「マジでか」
「金は自分で出せな」
「マジでか」
「しかし吉野ちゃん、安いのな」
「そう思うんなら出してくれよ」
「オレが金出すと、見受けしたことになんじゃん?」
「それはヤだな」
「だろ? オレも吉野ちゃんの旦那さまになりたくねーなー」
嘔吐するジェスチャーをしたら、カウンターの向こうから菜箸の持つ側で頭を叩かれた。好き放題な飲み屋だ。
しかしほっとした。
そうか、誰かにさっさと買ってもらえば良かったのに、ちっとも思い浮かばなかった。まあ、女に捨てられた上に売られたなんて、ちょっと恥ずかしくて人に言えない。それに、あの女が買い戻しに来てくれる幻想を捨てられずにもいたから。
ほっとしたら腹が減ったので、焼き飯を頼む。
幼馴染みは、またメニューにないもんを、と玉子焼きを出してくれつつ嫌な顔をした。
「いい女だった?」
「うん?」
「吉野ちゃんを売った女」
「あー、ああ、いい女だった、腰のくびれと足首の締まりがすごかった」
「足首がいい感じに細い女って、あそこの締まりもいいっていうよな」
「良かった」
「マジでか」
「マジで」
「身持ちは?」
「あ? 身持ち?」
貞操観念とかはきっとなかったんだろうな。結婚相手にするようなタイプじゃなかった。愛人タイプだ、ありゃ。そんなことを今の俺が言っても、負け惜しみにしかならないが。
「顔は?」
「美人……だった、と思う」
思い出すのは真っ赤な口紅の、形いい唇ばかりだ。
本当に。それだけだ。
きっと俺も愛してはいなかったんだろうな、と思うことにする。捨てられた心細さはうっかりと忘れたことにして。
「捨てられて良かったじゃんか」
じゅわーっと揚げ物を作る音がして、油の匂いが広がる。白いタオルを頭にきゅっと巻いて、幼馴染みは冬の時期でも半袖のシャツを着ている。
「良くねーよ」
「そんな女に粘着されてみろよ、吉野ちゃんもう三十超えてんじゃん?」
「お前と同じ年だからな」
「年取ってからの消耗する恋愛はマズいって」
「知ってるような口を」
「こういう仕事してると、ずぶずぶだなーって人見るし」
「ヤバい仕事してそうとかクスリやってそうとかの人じゃなくて?」
「恋愛って意外とクスリとかよりヤバいなーって種類のもあんだよ」
似合わねーなお前に恋愛って言葉。茶化すわけでもなく、裸電球のオレンジっぽい光の下にいる幼馴染みに、俺は結構真面目な顔と口調でつぶやいた。まあねー、と言われてしまって話は終わる。だから俺は玉子焼きをつつくために割り箸を割った。木の匂いが、する。
幼馴染みの店は日曜が休みなので、日曜に俺を買い戻しに行くと約束してくれた。どうせそんなすぐに売れるものでもない。基本的に客も少ないのだから。
そう思っていたら、土曜日に俺が買われてしまった。
閉店も近い、新月に近いから明るくもない夜中。一日の日付が変わってちょっと経ったくらいの頃。
ド派手なピンクをした、ミニのフェイクファーのコートを着て、頭はどんな趣味をしてんだと眉を寄せたくなるようなメッシュを入れてある女だった。肩くらいまでの髪はそれなりに手触りが良さそうだったが、赤やオレンジや黄色や、紫、青などの色が様々で目にうるさい。そして顔の半分が隠れてしまう、ゴーグルのような大きいサングラスをしていた。濃い茶色のそれのせいで、女の目はちっとも見えなかった。
そいつはリサイクルショップのひょろりとした店員をひとり従えて、大量の箱だのなんだのを持たせている。皿やコップらしい。ワイングラスないの、と外見から想像できるより若干トーンの低い声で言っていた。形なんかバラバラでいいけど、と。
俺はレジにいるもうひとりの大学生バイトと話していた。黒いエプロンをつけていて、メガネをかけていて、いかにも気の弱そうな長身の奴。
「すごいね」
「はい」
「はいってなんだよ、あの客だよ。随分買い物してんじゃん。お得意様?」
「さあ……初めて見ましたけど」
「常連客っていんの?」
「冷やかしの方とかなら比較的何度か見た顔だなって人がいますけど」
「あれは買うだろ」
「ですねぇ」
やる気のない声をバイトが返す。
「たくさん売れたらボーナスとかってのはないわけ?」
「ないですよ」
「大学って何学部?」
「……農学部ですけど」
「農学部! ってなにすんの? 田んぼとか耕してんの?」
「畜産とか農業経営とかいろいろありますよ、みんながみんな農業で畑仕事するってわけじゃないですし……」
「彼女いる?」
バイト君はむっとした顔で黙ってしまった。いないのか。
このバイト君って俺が買い取られたときにいたっけ。口をつぐんでしまったままの横顔を見ながら思い出そうとしたけど、あの時きた三人の顔なんて少しも思い出せなかった。
「これは?」
すぐ近くで女の声がしたときも、ずっと記憶を辿っていたからまさか自分に向けられたものだとは思わなかった。
「ねぇ」
脇を突かれた。眺めていたときは気にならなかったけど、近くにきたら随分ちっちゃい女だった。百五十センチあるんだろうか、なさそうだ。なんか小さい動物がめいっぱい虚勢を張って威嚇しているような印象を受ける。奇抜な髪の色や着ているもののせいだろうが。
「はい」
「あんた店員?」
サングラスで見えないながらもその奥の目でじろじろ眺められている感触はあった。
「そう見える?」
「見えない」
女の息は少し酒臭かった。酔っ払いか。酔っ払いが気を大きくして、なんやかんやと買いはじめたのか。向こうも不躾な視線を送っているようなので、こっちも無遠慮に眺め回した。
「でも客でもなさそう」
「冷やかしっぽい?」
「ネクタイが意外と真面目そうだから、そんなようにも見えない」
女の手が伸びて、俺の銀と紺のストライプ柄をしたネクタイをつまむ。細くて白い指だった。マニキュアはしていなくて、指輪の類もなかったのが意外だった。もっと指先までごてごてと飾り立てていると思ったのに。
「仕事帰り?」
「うん、まあね」
「売り物だったりして」
「お、正解。よく分かったじゃん」
「……本当?」
女の細い指がでっかいサングラスのつるにかけられて、老眼の人がやるように鼻の方へ少しずらした。思ったよりぱっちりとした、まつ毛がくるんと上がっているあどけない目が出てきて戸惑う。よく見たら頬にそばかすも散っていた。
「あんた、売られてんの?」
スーツに安全ピンで留められている値札を指差すと、女はそれを見てからまた俺を見上げた。
「借金のカタとかに売られたの?」
「借金のカタでこんなに安いと思う?」
「え、だって650……あ、万とかついてない」
「安いだろ」
「自分で自分のこと売ったの?」
「まさか」
「売られたの?」
「まあね」
女の小さい唇は喋っていないときでも少し開き気味だった。前歯がちらりと覗いている。なにやら考え込むような顔をしたかと思うと、女はサングラスを戻して俺を指差した。そして後ろの店員に、これも買う、と告げた。
「は?」
変な声を出したのは俺だ。
レジのバイト君も驚いた顔をしていたけど、品物が売れるだけであって彼にはそれ以上の意味はない。袋には入りませんけど、なんてとんちんかんなことを言う。
「や、俺予約入ってるし」
明日、幼馴染みが買いに来るし。
「売約済みの札なんか貼られてないじゃない」
「吉野さんは予約入ってないですよ?」
わざわざバイト君が予約リストのファイルをめくって調べてくれる。
ああもう、言っておけばよかった。まさか俺なんかを買う人間が出てくるなんて思わないじゃないか。
これぞ後の祭り。
「買う」
「や、困るし」
「商品に拒否権ってあるの?」
スーパーに売られてる大根が、おでんになりたくないからあなたには買われたくないですって言うことはさすがにないと思う。でも。
「これも買うから」
俺の言葉なんて簡単に無視されて、店員に女は投げるように言った。買うから。
「困るって」
「売り物でしょ?」
「そうだけど」
「ずっと売れ残ってる方が困るじゃん」
「明日俺の友達が買いに来るんだって、俺を」
「早い者勝ちじゃん」
「だからそういうことじゃなくて、」
「予約もしてないあんたの友達が悪いんじゃないの、その友達って女?」
男だよ、幼馴染みの。
言わなくてもいいんだろうけど言った。
ホモなの? って聞かれたから、どうしてそうなるんだ、って呆れた。世の中の女って、ホモ好きなのな。実際のそういう人達じゃなくて、自分達の空想上のそれが。
「買う」
女は小さくそれなりに形のいい唇で笑った。俺を捨てた女のような妖艶さはほど遠かったけど。
「マジでか、勘弁してくれよ」
「売り物なのに売られる覚悟はなかったの?」
「ないよ、なかったよ、そんなもんあるわけないって」
「男のくせに」
「男とか女とか関係ないだろ」
女は答えず、俺の隣にあった人体模型の血管や筋肉がリアルな腕を、キモッなんて言いながら触ってるばっかりだった。
女の部屋は狭かった。
ワンルームで、カーテン代わりみたいに色とりどりの、多少奇抜さも目立つ服がずらずらと並べられていて、小さなテーブルの上はごちゃごちゃとマニキュアだの化粧ポーチだの飲みかけのコーヒーが入っているカップだのかじりかけの食パンだのが出ていた。
敷かれている毛足が長めの絨毯はろくに掃除もされていないようで、毛の絡まった犬みたいになってる。タバコの匂いはしなかった。香水なんだろう、人工的なフルーツの匂いは微かにした。
「適当にしてて」
リサイクルショップで買ったコップだのなんだのは俺が持たされていた。荷物持ちに俺が欲しかったのかと思ったけど、部屋に上がらされる。
かけていたサングラスを取って渡されたので、仕方なくテーブルの上に置いた。
暖房はつけてあったらしい。部屋の中はすでに充分暖まっている。
「お酒買ってくるから、そこら辺片付けてコップ洗っといてよ」
「そこら辺って、なにをどこにしまうとか分かんねーよ」
「適当でいいって、女の部屋に入るの初めてじゃないんでしょ? 彼女くらいいたことあるでしょ? 女がどこに何しまうかとかってなんとなく分かるじゃん」
「適当に片付けると文句言われるってことは知ってる」
「あたしは文句言わないわよ」
「人のもの勝手に片付ける趣味はねーよ」
「じゃあ適当に捨てればいいじゃない」
可燃ごみと書かれた透明のビニール袋を渡された。記入制になっているので、名前が書いてある。ご丁寧なことに、ちゃんとフルネームだった。
三条法子。
ちまちまっとした、丸まっちい字だった。
「三条さん」
「なによ」
「あ、やっぱあんたの名前?」
「あんたって呼ばないでよ、失礼でしょ」
店では散々俺のことをあんた呼ばわりしていた気がするんだが、自分のことは棚に上げるのか。
「そういうあんたは?」
ほら、またあんた呼ばわりだ。
「失礼な」
「なにが?」
「自分で言ったことももう忘れてんのかよ」
「は? あたしなんか言った?」
「いいけどさ……」
言いたいことがあるならはっきり言ってよ気持ち悪い、と言いながら三条は買ってきたグラスやら皿やらを包んである新聞紙を破き出した。出てきた形のバラバラなそれらを、流しに入れていく。
「俺は皿洗いしときゃいいのかよ」
「買われたくせに態度でかいわね」
「別に奴隷ってわけでもあるまいし」
「外、寒いから行くのやんなってきちゃったな、あんたが買いに行かない?」
酒? と聞けば、うん、と言う。
「馴染みの店があるから、どうせなら行かない? 俺、おごってやるよ」
「ダメ、パーティーなんだから」
「パーティー? なに、ここで?」
うん、とまた女が頷いた。
「誰か来んの?」
「来ない」
「俺と、あんたで?」
「あんたは余計」
「え、俺がひとりですんの?」
「は? あんたがどうしてひとりでここでパーティーすんの?」
「おいちょっとまて、あんたあんた言うのやめよう、お互い混乱するから」
俺は吉野修平ってんだけどさ、と名乗った。フルネームなんて最近名乗らないから、なんだか新鮮だ。仕事の関係でも会社名と苗字くらいで、その他ここのところ新しく知り合いになった人間も特にいない。
「吉野」
「おう、いきなり呼び捨てでくるのかよ」
「女みたいな名前」
「修平のどこが女だよ」
「あたしは、」
「三条法子だろ」
「なんで知ってるの」
「ゴミ袋に名前書いてあるじゃん」
ああそう、と三条はつぶやいて、破った新聞をそのゴミ袋に詰め込み出した。
「で、どうすんの?」
「なにが?」
「俺、酒買ってくればいいの?」
「あー、足りなくなったら買いに行こうか」
「どんだけあんだよ」
「500のビールが冷蔵庫に六本と、チューハイの類なら七、八本と、ワインが二本。赤だけだけど。飲むなら日本酒と梅酒があるけど」
「そんだけあったら充分じゃねーか。どんだけ飲むつもりだよ」
「だって、パーティーって言ったらシャンパンとかじゃない?」
「食いもんは? 酒だけ?」
「冷凍のピザがある。あ、チキンナゲットとウィンナーも」
野菜がない。
そんな食生活してると肌が荒れるぞ、そういえばこいつは幾つくらいなんだろう。俺も若いときは肉ばっかとか揚げ物ばっかとか食ってても、胸焼けしたこともなければ便秘も知らず、一晩寝ればきっちり消化して後に残ったりもしなかったのに今じゃダメだ。
でもさすがに年を聞くのは女に対して失礼な気がして、代わりになんのパーティーなのか聞いた。
その途端、三条の目がつり上がる。
「悪かったわね」
「なんだよ、俺なにも言ってないって」
「どうせ振られたわよ」
「は?」
「振られたの、去年の今日!」
なんだよそれ。
振られた記念日のパーティーって、なんだよ、それ。
暗い奴だな、という言葉は自分の心の中だけでつぶやいたはずだったのに、実はかなり大きな声で口にしていたらしい。人が殺せそうな勢いでぎろりと睨まれた。
口にしてしまったんだったら仕方ない、取り繕うほどの間柄でもなく、ただの初対面だ。金で買われたといってもお遊びみたいな話だろう、本当に俺の所有権が三条にあるわけでもないだろうし。ないよな。人身売買なんてこの国では認められてないよな。
俺は部屋の隅に置かれていた、妙に存在感のあるでかい冷蔵庫を勝手に開けた。すぐ脇に扉があったから、なにこれと聞いたらトイレだと怒ったままの声で言われる。
冷蔵庫の中は三条が言ったようにビールやチューハイが入っていた。あとはマヨネーズだとかケチャップだとかしか入っていない。自炊してんのか、と俺は疑問形でつぶやく。またしても余計なひと言で、三条が太い声で悪かったわねと短く言った。
まあ別に俺には関係ない。
今日初めて知り合った女がなに食って生きていようが関係ない。ビールをあけて口をつける。俺、酒強くないのに。
「ちょっと、なに勝手に飲んでんのよ」
「いいじゃん、どうせ飲むんだろ?」
「あたしのビール」
三条がぱっと近付いてきて、俺の手からビールをもぎ取った。勢いで少しこぼれる。手が濡れたけど絨毯には垂れてないと思う、拭くものもなさそうなので仕方なく手を舐めた。
「グラスも洗ってないのに」
「いちいちビールグラスに移して飲むわけ? 面倒な」
「本当はオードブルとか買ってこようと思ってたの」
「スーパーで? こんな時間に開いてるとこって、二十四時間の? 割引になってるオードブルでパーティーって、みじめじゃん?」
「あんた失礼よね、本当に」
三条の「本当に」は、「ホントに」という発音で耳に残った。学校を「ガッコ」、先生を「センセ」というような軽い感じ。
彼女はビールを片手に冷蔵庫を開けて、チキンナゲットを取り出した。トースターに入れてよ、と指示される。トースター。流しのところにある小さな箱を指差されて、オーブントースターね、と言い直した。
「細かい男」
「別に細かくないって」
「……お腹空いた」
「ふうん?」
指差したときに彼女の手首が服の裾からぐんと飛び出て露わになった。骨ばった、細い細い手首。よくよく眺めてみれば、筋張った首だとか上着を脱げばやけに小さく落ちている肩だとか。
「痩せすぎとか、言われん?」
ちらりと視線を送って、彼女はビール缶に口をつけた。ごくんごくんと喉を鳴らして、しばらくしてからゆっくりと口を離す。
「酒ばっか飲んで、と思ってる? それとも、ダイエット好きな女?」
「あー、両方」
「ガリガリの女って痛々しいんだよなー、大体なんで女ってダイエットダイエットって一年中ダイエットしてんだよ、肉付きなんてある程度良くなきゃ抱き心地だって良くないっての、芸能人と実際の女とで比べんなよ意味もない、って?」
「誰かに言われた?」
「別に。世間一般の意見かなって」
「ダイエットが趣味?」
まさか、と三条は首を横に振った。カラフルな髪が揺れて、広がる。確かにもう少し肉付きが良ければいい頬なのに、とも思う。
「失恋で十キロ以上痩せただけ」
「いい男だった?」
まさか、とまた三条が言った。今度はうっすら笑って。
「ただの不倫。よくある話」
「じゃあいい男だ」
「どうして?」
「人のもんだって分かってても欲しくなるくらいだったんだろ?」
「本当にいい男だったら不倫なんかしないでしょ。でもそうね、既婚者ってなんか保証書がついてる気になっちゃうのよね。少なくとも誰かひとりにはきちんと認められて結婚までした人ですよ、って」
「ちゃんとしてなくてどうしようもない奴だって、うっかり結婚してることもあるけどな」
「……あんた、さっきから適当に口はさんでるだけでしょ」
「うん」
三条はテーブルの上のものをなぎ払うように床へ落とし、冷蔵庫にあった酒を代わりに全部並べた。俺は言われたとおりにチキンナゲットをオーブントースターに放り込んでから、絨毯の上に落とされたマニキュアの瓶だの手鏡だのを隅に寄せて座るところを確保する。
ビールのプルタブを引いた。
金属の軽くこすれる、カシュ、という音が実は苦手だ。
最近は缶切りなしで食べられる缶詰が増えてきたけど、昔からの缶切りが必要な缶詰の方がいい。缶切りで開けたときの、ふたのギザギザが好きだったのを思い出す。指を切るからと何度母親に言われても、あの尖った縁にそっと触れてみた。缶切りの、きこきことどことなく間抜けな音も好きだった。
向かい側でなくLの字で並んで相手がすいすいとチューハイを空けて行くのを見ていた。ロング缶はなかなか減らない。途中でチンと鳴ったトースターを覗きに行ったのは三条だった。続けて残りのナゲットも放り込んでいた。
「お腹空いた」
「さっきも聞いた」
「久々。お腹空いたって感覚」
ナゲットを指でつまんで、熱っ、と落とした。さっき見かけたな、と俺は勝手に冷蔵庫からケチャップを取り出す。皿の横に垂らした。
「いつもなに食ってた?」
「分かんない。お酒は飲んでたけど。なにか食べてたかな、思い出せない」
「振られたから?」
「人間って結構簡単なことでご飯なんか食べられなくなっちゃうよね」
なるねぇ、と返してみたけど、別に俺はあの女に捨てられたときも飯は食ってた。食欲はなくならなかったな。むしろ飯も食わずにいられたのは女と一緒にいるときだった。自分の身体をできるだけ軽くして小さくして女の海に沈みたかった。底なしの、深くて視界の悪い海に。
「あたし、親と仲良くなかったんだよね」
ワインを持ち出してきた三条は自分でさっさとコルクを抜いて、水に濡らしただけで洗った気になったらしいグラスになみなみとついでごくごくと飲んでいた。麦茶でも飲むように。飲み干すとグラスを真上に向けて、落ちてくる赤いしずくへ舌を伸ばして、行儀の悪い子供みたいなことをした。
「特に父親と仲悪くて。超体育会系の人だったから、怒ると男も女も関係なくぶん殴るんだよ。兄ちゃんも弟も殴られてたけど、あたしが一番多かったんじゃないかな」
「お父さんにも叩かれたことないのに、ってギャグが使えない女なのか」
「あはは、うん。でもさ、仲は悪いんだけど嫌いじゃないんだよ。いいときはいいし。多分相性が悪いんだと思うんだ。タイミングもいろいろと悪くて。なんかね。で、お父さんってのに甘えたかったところも大きいんだと思う、どうしても年上の、お父さん、って感じの人ばっか好きになってさ」
ありがちな話だ。
ただのファザコン女の話。
でもありがちだろうがなんだろうが、本人はそういう境遇で実際生きてるんだから仕方ない。
「年上だった?」
「うん? ああ、不倫男? 年上だったよ。五十超えてた。子供もいたよ、よく話聞いたし」
「俺はそういうのが理解できん。そういうの聞いてどうすんの? 愛する人の家庭の話だから聞けばこっちも嬉しいわー、とかなんの?」
「人によるんじゃない?」
「あんたは?」
さあ、と三条は首を傾げる。ワインを片手でどぼどぼとグラスについだ。よく飲む女だ。
「聞いてなかったかも。端から聞き流してた。進んでないじゃん、遠慮しないで飲んでよ」
「嘘だろ」
「なにが?」
「好きな男の話なんか、昨日爪切った、みたいな些細なことだって覚えてるもんだぜ、女は」
「そんな女とばっか付き合ってたの?」
「や、世間一般的に」
「大昔のデータなんじゃない?」
「そうかも。俺、古いから」
どうにかこうにかビールを飲み干して、次の缶に手を伸ばす。
親父は酒が好きで、特に晩酌をするというよりはお茶の代わりにビールを飲んでいる人だった。飯のときにビール。鍋でもカレーでも煮物でもオムライスでも、なんでもかんでもビール。自営業だったから、人もよく出入りしていた。誰かが来るとウィスキーが開けられる。焼酎が開けられる。ビールも相変わらず飲む。
でも親父が酔ったところはあまり見たことがない。ほぼ記憶にない。酒に強かったんだろう。俺には遺伝しなかったが。母親は一滴も飲めないから、きっと混ざってちょうどいい具合に薄まったのかもしれない。俺の血が。
「お腹空いた」
「また言った」
「もうあたしはこのまま一生お腹なんか空かないんだと思ってた」
ピザがあるんだろ、と言ったら出してきたので、それを凍ったまま焼いた。フライパンがあるというので、ウィンナーは俺が焼いてやった。ウィンナーとチキンナゲットは食えてたのかと聞いたら、相手の男が好きだったから買い続けてるなんて切ないことを言った。女心か。
「なんだよ、賞味期限切れてたんじゃねーの?」
「そういうのは捨ててるから大丈夫」
「大丈夫じゃねーよ、もったいないな、もう」
「はいはい、ごめんなさいね」
ウィンナーも指でつまんで、熱い熱いと文句を言いながら三条が一袋分を平らげた。Mサイズのピザも一枚食べてしまう。俺が一切れをもそもそ食べているうちに。
拒食症の次は過食症、ってのはデフォルトなんだな、と感心していると、三条はまたビールを開けて飲みはじめた。
「腹、満ちたか?」
「まだ食べられると思う」
「おいおい、胃が痛くなるぞ、そんなにいきなり食ったら」
「なんか買いに行ってこようかな」
「幼馴染みがやってる店があんだけど、良かったらこれから行くか? 結構食いもん美味いぞ?」
「お店とか行くほどには食べらんないかも。っていうか、外に出られるほど酔っ払ってなくないかも」
「なんだよそれ。じゃ、俺が買い物行くから、お前ここにいろ」
「お前」
「あ?」
「あんたの次はお前。あんた、あたしの名前覚えるつもりあんの?」
「お前だってまた俺のことあんたって言ったぞ」
「吉野修平」
「なんだよ、三条法子」
覚えてんじゃんあたしの名前。三条がにやりと笑う。酒のせいだろう、目尻が赤く染まっていた。なんか買ってきてやるよ、ともう一度言って俺は立ち上がる。
三条が少しだけ不安そうな目をしたから、財布くらい持ってるから大丈夫だと言ってみたけど、見当違いの言葉だったみたいで淋しい目のまま笑われた。
十二月。
一年の終わりの年。
冬に一年が終わって、冬のまま一年がはじまるというのはものすごく当たり前のような気がする。植物が枯れる季節に終わって、次の命を生み出すための準備をしている季節に始まる。それはなんだかものすごく、いい。
冬の月は遠く高いところでやたらと透き通ってる。
酔っているからだ、と思った。
酔っている目に、月の光はやわらかく輝く、静かに明るく。
コンビニの前にはツリーが出ていた。スノーマンの人形と。ぴかぴかの電飾が音もなくにぎやかで、店内は白っぽく明るい。
女ってなにを食うんだろう。
俺は三条ではなく、別れた女を思い出していた。なにを食っていたっけか。思い出せない。ひとつも。
あれ、と思わずつぶやいて、耳に入った水を出そうとするように首を傾げてみたけれど、記憶はひとつも転がり落ちない。
ジャムを舐めていたような気もする。
ジャム?
いい大人が、子供みたいに?
いやまさか、ジャムなんか舐めてないだろう。
アイスクリームだ。
そうだ、アイスクリーム。コアントローとか垂らしたバニラアイスを食ってた。いや、舐めてた。
でもそれも俺の妄想かもしれない。
そもそもそんな女は存在してたんだろうか。
存在はしていたけど、誰にも女との付き合いは話していなかったから、別れた今となってはもう存在しなかったのと同じだ。共通の知り合いもいないのなら、あの女自体が存在しないのと同じ。向こうに取っての俺もそうだろう。夢で見た知らない人のようなもの。時間が経てば薄れて消える。
それは淋しいことなんだろうか。
淋しくはないことなんだろうか。
白っぽく明るい店内で、グリーンの軽いカゴを持ってみたらなんだか妙に気恥ずかしかった。気恥ずかしさを繕うように、菓子パンをカゴへと放り込む。惣菜パンより菓子パンって感じだよな、とつぶやきつつマヨネーズで和えたコーンが零れ落ちんばかりに乗っているパンも手に取った。新商品と書かれたチョコレート菓子をいくつかと、ミックスサンドイッチとオーソドックスなおにぎりと。こんぶと鮭を選んだあと、梅とネギ味噌で悩む。そもそも三条はどれぐらい腹を減らしているんだろう。
失恋で飯が食えなくなる。
そんなもんなんかね、と思うが、実際飯が食えなくなってる人間が存在するのだから、嘘だとか本当だとかいう問題じゃないんだろう。飯が食えないからって本気で愛していたとか、飯が食えるから軽い気持ちだったとか、そういうことでもないんだろう。
生きていれば多分誰でも経験するであろうこと、受け取り方も感じ方も人様々なこと。痛みに強い人間もいれば、痒みに強い人間もいる。その違いと同じように。そして、同じ痛みでも一度しか経験していない奴と何十回と経験している奴では対処の仕方が変わってくるように。あるいは慣れの問題で。
「……って、なにをそんなに真剣に考えるかね、俺も」
サイダーのペットボトルを一本、カゴに入れた。黄色と青と水色からなる爽やかなパッケージの。
会計を終えて、やる気のなさそうな店員の声に背中を押されて店を出た。
ふらふらと歩いてきたから、実は三条のマンションまで辿れるか不安だった。戻れなければ戻れないで仕方ない。
月のやわらかな夜。
リサイクルショップからはタクシーだったから、場所がいまいち分からない。駅前通りとは逆の方向だから、と見当だけつける。来るときは月を見ながら来たから、帰りは月を背負って帰ればいい。
「優雅な話だ」
かさこそと音を立てるビニール袋は右の手に。
昔はもっとビニール袋ってうるさい感じがしたけど、最近のは品質が変わってるのか。それとも俺の耳がそういう音をうるさいと思わなくなってきただけなのか。
袋の中で、生クリームをアホみたいに乗せたプリンがひっくり返っていた。
プリンなんて買ったのは、年単位で久しぶりな気がする。
道を間違えたり時々夜の空を見上げて白い息を吐いたりしながら、三条のマンションを見つけた。夜は黒というより暗い紺色をしている。星が出ているせいだろうか。
手袋とかマフラーとかがいるな、とつぶやいた。鼻の頭と指先が冷たい。ビニール袋を持つ手の感覚もあやふやだ。階段を上って、茶色いレンガの外観だったんだ、と今更気付きながら、一番奥の部屋のチャイムを押した。表札はなかった。
ピンポーン。
ピンポーン。
ピピピピピピホピポピポピンポーン。
しばらく出てこなかったのでチャイムを押し続けていたら、ドアが開いたと同時に怒鳴られた。
「連打しないでようるさいな!」
「お前ちっとも出てこないんだも……ん?」
三条の目が真っ赤だった。
鼻の頭と頬も真っ赤だった。
外から帰ってきて、凍えている俺の鼻の頭も、きっとあんな感じで赤いんだろう。
「なに」
「うるさい」
「うるさいって、この寒い中買い物に出てやった人間に対して失礼な」
「うるさい、何時だと思ってんのよ」
「なに怒ってんだよ、俺そんなに時間かかった?」
「……一時間」
「なー、どーりで寒いわけだ、凍えた凍えた、中入れて」
三条は玄関の前で仁王立ちしていたけど、肩で押しのけて中に入る。
そして流しに山積みになっていた食器がみんななくなっていた。片付けた感じではなく、なにか違和感がある。違和感の正体は足元のゴミ袋だった。中で、割れたグラスが重なっている。
「……なんだこりゃ、お前酔って転んだとかしたのかよ」
全部、破砕と書かれた袋に入っていた。中身の量はまちまちで、三袋ある。
「掃除機かけたか? お前、こんなに拾って手とか切らなかった?」
「……袋の中で割ったから」
「そうか、そりゃ不幸中の幸……割った?」
「割った」
「お前が?」
「またお前って言った」
「……なんだよ」
「お前って呼ばないで、」
語尾が震えたと思ったら、三条が鼻の頭をますます真っ赤にした。間髪をいれず、彼女の目からぼろぼろと粒の涙が転がる。それは次第に頬を濡らし、そうすると涙の粒は転がらなくなって肌に染みた。
「お前って呼ばないで、あたしはあんたの特別じゃない」
「なんだよ、とりあえずガラスは転がったりしてないんだな? お前もケガしてないんだな?」
「お前って、」
「分かった悪かった、なんだよ一体。……悪かったよ」
ぽろりと涙が落ちるなんて、やっぱりドラマや映画の話だ。三条は顔をくしゃくしゃにしかめて、泣きはじめた。
あたしはあんたの特別じゃない。
そりゃそうだ。
名前しか知らない。今日出会ったばかりだ。知り合ったわけでもない。でも特別じゃないなんて言われてしまうとどこか傷付いた。なんだかものすごく、淋しい気分になった。
お互いに突っ立って、絨毯の上には化粧水の瓶なんかも転がってるし、グラスは割れているし、空の缶はオブジェみたいに立てられているし、なんだかな、と思いながらもだからと言ってじゃあ帰りますって訳にもいかないし、どうしたもんかなと思っていたら多分それが空気で伝わったんだろう。
バカじゃないの、と言われた。
嗚咽しながら、途切れ途切れでの呼吸の合間に、でもはっきりと。
泣いてる女の、肩くらい抱くのが男ってもんじゃないの、と。
泣いている自分が恥ずかしくなって、照れ隠しで言ったのかと思ったけどどうやら本気のようだった。本気で怒っている目をしてた。なんだよもう、と俺は思う。面白れぇ。なにこの女。面白れぇ。
肩くらい抱いてやってもいいんだろうけど、俺はしなかった。
そういう間柄じゃない。隣の家の人とよりも薄い関係だ。肩なんか抱いてどうするんだ。なぐさめるのか。なぐさめてどうするんだ。雰囲気にのまれてキスでもするのか。そしたらきっと最後までやっちゃうんだろうな。
ビニール袋を右手に突っ立ってただけの俺を見ながら、三条は少しずつ泣きやみはじめていた。女もなぐめられないの、と呼吸がずっとスムーズになってきた頃に言われた。もう怒ってはいないようで、その声には純粋な驚きだけがあった。
「帰ってこないかと思った」
「俺? 迷子の心配されてた?」
泣きやんだ三条がなんでもないように座って、チューハイのプルタブを引いた。俺もなんとなく座る。正座で。
「もう帰って来ないのかと思った、この部屋に」
「なんで? 道とか覚えられそうにない顔してるから?」
「そんな顔なの?」
三条が覗き込むようにして俺の顔を見た。もっとちゃんと適度な肉がついてれば可愛い範疇の女なんだろう。可愛いと呼ばれる範疇の。涙の跡が白くぐちゃぐちゃに残っていたけど。
「酒ばっか飲んでる変な女の部屋になんか帰る義務、ないでしょ?」
「酒ばっか飲んでる変な女なのか?」
「酒ばっか飲んでる、失恋をいつまでも引きずる変な女でしょ?」
「酒ばっかじゃなくて飯も食えば? そしたら少なくとも失恋を引きずる女ってだけになるんじゃん?」
「変な、は?」
「酒ばっか飲んでるから変なんなんじゃないの?」
「失恋を引きずってるのは?」
「そんなの大抵の人間は失恋を引きずるもんじゃない?」
「あんたも?」
「おま……ま、いいや。うん、まあね」
「恋人はいる?」
「いないよ」
今は。
「やっぱり。って、さっきも聞いたんだっけ? 聞いてないんだっけ?」
「忘れた。って、やっぱりってなんだよ」
「でも変なの」
「答えになってねーよ。自己完結でしゃべんなよ、気持ち悪りぃ」
「泣いてる女の肩を抱くようには躾けられなかった? 恋人に。それとも泣かない人だった?」
あの女が泣いてるとこなんて見たことない。
どっちかっていうとマネキン人形みたいだった。表情が乏しいというより、いつも完璧な顔というか。真っ赤なハイヒールが似合った。あんなに赤い色が似合う女を、俺は他に知らない。
「泣いてる奴には泣く理由があるんだから、こっちの都合で勝手になぐさめるなんて失礼だろ」
「屁理屈?」
「いや、言ってて自分でもよく分からん。なに、おま……三条は俺が戻ってこなくて泣いてたわけ? 戻ってこないかもって? 俺のせいだった?」
「ひとりで部屋にいたら淋しくなっただけ」
「女、って感じだな」
「なによ」
「別に。で、なに、自分で片付けたわけ?」
「袋広げて投げて割ったの」
「ほう」
「だって、部屋に投げつけたら片付け大変じゃん」
そりゃそうだ。
俺は思わず声を出して笑ってしまい、三条は拗ねた顔をしていた。
感情的なときもどこか冷静。いいねぇ。
「……したいならしていいよ?」
「は? なにを」
「セックス」
「なんで俺がおま……三条とセックスしなきゃなんないんだよ」
また随分と話が飛んだ。冷静なところもあると感心していたらこれだから、俺はますます面白くなってしまう。
面白がりながら、でもちょっと切ない。
そんな淋しいことを女が言わなきゃなんないのは、切ない。
「酔っ払いは嫌い?」
「お前なぁ。淋しいって理由でほいほい男と寝てどうする、節操無いぞ」
「軽蔑する?」
「淋しい女だなって思う。近付くのはやめとこって思う」
なんで? と三条が首を傾げる。
クルミなんかを抱えてるリスみたいに、ちょこんと、首を。
「淋しいのが移るから」
「男も淋しくなるの?」
移るよ、とだけ言った。
そして彼女の手からチューハイの缶を奪った。口をつけて、一気にあおる。
コートも脱がないままだった。
ふたりの間の空気が甘くならないように。
淋しい者同士が傷をなめ合うように肌を合わせるなんて、死んでもごめんだ。格好悪いから。格好悪くてそして結局誰のためにもならない。同情からはじまった関係なんて、同情以外のなにも見つけられないままただただお互いを可哀想だと思って潰れていく。
「あたし、頭悪いこと言ってるね?」
「疑問形で言うなよ、納得してないみたいだから」
「あたし頭悪いね」
「悪くないよ」
「よく知りもしないくせに」
「うん」
「そういうとこだけ素直なのやめてくんない?」
彼女は俺の買ってきたものを袋から引っ張り出し、プリンだ、ソーダだ、クリームパンだ、ハムサンドだ、と喜んでいちいち手にとって眺め回していた。俺の方を向いてありがとうと言う。
「うん」
「お金払う」
「いいよ。あ、それより俺、俺の代金払うわ」
「要らないよ」
「そういう訳にはいかないって、自分で自分を買い取るのも虚しいけど」
「そうやって自分を買い取ってさっさとあの店出てくれば良かったんじゃないの?」
それは思い浮かばなかった。そんなことはしても良かったんだろうか。でもまあ人間がリサイクルショップに売られてしまうようなでたらめなことをしていたんだから、それも有りだったのかもしれない。
「じゃあ相殺でどうだろ」
「あたしのがいっぱい買ってもらってる気がする」
「おま……三条が全部ひとりで食うの?」
「もういいよ、お前で」
「酒も買ってくれば良かったな」
梅酒があるから飲もうよ、と三条が立ち上がる。
もっと太れよいい女みたいだから、と太ももの辺りに声をかけた。
「痩せすぎ?」
「でも腹減ったんだろ?」
「うん。良かった。きっとこれから一年かけて、また可愛かったあたしに戻る」
「自分で言うなよ」
「他に言ってくれる人いないじゃん」
「捜せ捜せ。でもさ、お前ってなんでそんな頓狂な頭してんの?」
うん?
彼女がまた首を傾げる。
黒目のところがすごくきらきらして、可愛い感じに涙袋のところがふっくらしている笑顔付きで。
「あたし、背が低いから。派手な頭してたら、運命の人が見つけやすいかなって、あたしのこと……」
「お前可愛いな、それ。あ、俺今本気で可愛いと思った、よし、自分で可愛いっていうのも許されるぞ」
「なに様なのよあんた……」
女って失恋しても可愛いのな。可愛くいられるのな。心がけ次第だろうけど。外見云々じゃなくて生き方とか心の持ちようとか、可愛いのな。
俺にしてみたらものすごく褒めたつもりだったんだけど、三条にはちっとも伝わらなかったようだ。でもいい。こういう心の伝わらなさが、他人と自分との境目をくっきりさせるから。交わりたいくらい、自分と同じくらい伝え合いたいなら、もっとくっついてそれこそ知り合えばいい。お互いを。
月曜日はなんだかんだで忙しくて、火曜になってから幼馴染みの店へ顔を出した。
奴はカウンターのこちら側にいて、隣に女を座らせていた。
「ビールちょうだい」
ガラスの引き戸を開けながら言う。飛び上がるようにして奴が振り返った。そして叫んだ。
「吉野ちゃん!」
「なんだよー、でっかい声だなー。他の客がいないからって、ナンパ中かよ」
「なになになになに、生きてたー、良かったー!」
「殺すなよ、人を」
「だって日曜、いなかったじゃん!」
「あ?」
「リサイクルショップ!」
「あ」
「オレ、電話何回もかけたんだけどちっとも出ないしさ、なんかもういろいろ考えちゃってさー、死体が必要な人に買われて殺されて誰かの代役になってるかもとかさー」
殺すなよ。
携帯はマナーモードにしていたから、まったく気付かなかった。仕事では仕事用に配給された電話を使ってるし。元々携帯電話は不携帯電話だ、俺の場合。もしくは持ち歩く公衆電話だ。
「連絡もくんないしさー」
「悪い、買われてた」
「あ、やっぱ? 誰に買われた? で、どうしたの、逃げてきたとか?」
「プリンとか菓子パンと引き換えになった」
「意味分からん」
「うっかり買われたけど、もう自由の身になったってとこか」
そりゃよかった、と幼馴染みが笑った。笑うとこいつの顔は人懐こいカバみたいになる。学生時代よりひどく太ったとはいえ、それなりに整った顔をしてるが、笑顔が似合わないのだ。
良かったですねぇ、と奴の隣にいた女が小さく拍手してくれた。
髪の長い、幼い感じのする女だった。口が大きすぎるので俺は好みじゃない。
「吉野ちゃんきたから、仕事するか」
「うん、私海老フライ食べたい」
「フライか! いきなりお前はフライを注文するのか!」
随分仲が良さそうだったから、知り合いかと聞いた。
幼馴染みは照れたカバのように笑って、吉野ちゃんありがと、と言った。
「は? 会話がおかしいぞ」
「吉野ちゃんのおかげでさー、この子、オレの彼女」
「俺のおかげってなんだ?」
リサイクルショップに俺を買いにきた日曜日、三条に買われて一足先にいなくなっていた俺はもちろんいなくて幼馴染みは途方に暮れて、店員に聞くのはなんだか負けたような気がしたらしく二時間も店の中をぐるぐる捜したけど見つからなくて、敗北感いっぱいで店を出たときに外の自販機にいたのがこの子だったそうだ。
彼女は彼女で自販機のところでうっかり飲めないコーヒーを買ってしまい、これまた途方に暮れていたところをしょんぼりした男が出てきて、なんだか可哀想な人だし自分も飲めないからあげよう、と缶を差し出したらしい。
もしかして売られたっていうのは俺の嘘で、騙されてからかわれたのかも、とショックを受けていた幼馴染みは、差し出された缶コーヒーが、それを持つピンクの手袋をした女の子が、天使に見えたらしい。
「え、コーヒーも?」
「コーヒーにも羽が生えて見えた」
そうか。
見えたんなら仕方ない。
仕方ないけど、缶コーヒーの天使って嫌だな、寸胴で可愛くない。ぶつかったら痛そうだ。ところで天使って人にぶつかるのか?
「オレはこの子に会うために吉野ちゃんに騙されたのか、って思ったね」
「騙してねーよ、本当に売られてたんだって」
「うんうん、なんでもいいなんでもいい、吉野ちゃんも無事で、オレにもこんな可愛い彼女ができて。うんうん、なんでもいいなんでもいい」
「じじいみたいな口調やめろよ。えっと、あんた幾つ?」
俺は幼馴染みのぴかぴか新品の彼女に聞いてみた。
あんたって言うなよ、と幼馴染みに怒られる前に、あんたって言わないでよ、という三条の声が聞こえた気がした。
「もうすぐ二十一歳」
「若けーな、あいつおっさんだぜ? いいの?」
女の子はにこにこして、いいの、と言った。あんまり嬉しそうだったから、そっか、と俺も笑っておいた。
「恋愛ってどこに転がってるか分かんないもんだな」
「なんだよ吉野ちゃん、吉野ちゃんに『恋愛』って言葉は似合わねーなー」
「失礼な奴だな、お前にだって似合わねーよ、『肉欲』とか『情欲』とか『贅肉』のが合ってんね」
「なんか一個違うの混じったぞ」
「贅肉! でも贅肉って贅沢なお肉なんでしょ? 食べたら美味しそう」
「贅肉は脂だから美味くねーだろ」
「オレのは美味しいもんねー、あー、可愛い、本当可愛い、吉野ちゃんありがとなー」
「なんかヤな感じだなー」
「なんでだよ、本気で感謝してんだぜ? 吉野ちゃんが売られなくて、しかもオレが買いに行ったときにちゃっかり買われたりしてて、オレが途方に暮れてなかったらこの天使ちゃんには出会えてなかったんだもんなぁ」
「嫌味に聞こえるのは気のせいか?」
「なんで嫌味なんだよ、吉野ちゃんも早く彼女作れ。な? 独り身だからひがむんだよ、オレの幸せが妬ましいんだよ」
「うるせぇ、作ろうって作るもんじゃないだろ、彼女とかって」
今日は珍しく注文のままビールが出てきた。
なんだか拍子抜けするが、突き出しはシイタケとこんにゃくの煮物だった。俺がシイタケ苦手なの、こいつ忘れてるんだな、すっかり。
「せっかくのクリスマスにこんなとこひとりで来るようじゃ、強がりにしか聞こえないって」
「お前、自分の店をこんなとこって言うなよ。あれ、今日クリスマスだっけ」
「いや、クリスマスイブイブイブだけど」
「イブイブイブってなんだ。ん、ってことは明日休みか」
「え、なんで? あ、旗日か。でもうちは関係ないから、吉野ちゃん飲みにおいで」
「なんで連日お前の顔見ながら酒飲まなきゃなんないんだよ」
恋人も嫁も子供も予定もない独身男に、クリスマスなんてほぼ関係ない。ただの年末だ。年末休業の方が気にかかる。来年のカレンダー、そういえばまだ得意先に配り終えてない。
「じゃあお前達は幸せな恋人達か」
「羨ましい?」
どうだろう、と鼻で笑いながら、三条法子のことを思っていた。
三条とは寝なかった。
手も繋がなかった。
ただ朝まで飲んでいた。いや、途中で三条が寝た。押入れを勝手に開けるのは躊躇われて、俺は自分のコートを彼女にかけてやった。
女の寝顔は無防備だ。
みんな寝ていると無防備になるんだろうか。でも友達と雑魚寝したりする機会はあったけど、男共なんてみんな脂ぎった顔をしていて、無防備というよりアホな顔だったから比べ物にならない。
静かな寝顔だった。
小さな唇が赤かった。
でも別にくちづけたりしなかった。そういうのとはまた別の次元の話だ。
俺は意味もなく、三条の部屋で体育座りをしていた。立膝を抱えるあれ。眠気とかではなくて、ただ意識が飛びそうな瞬間が時々訪れて、でも朝を待っていたかったから起きていた。
朝、飯を食うとかそんなこともなく彼女の家を出た。
携帯の番号とかは、交換しなかった。
「俺、帰るわ」
「えっ、吉野ちゃんビールしか飲んでないじゃん!」
「なんかふたりの仲を邪魔しちゃ悪いんで」
「柄にもないこと言うなよー」
「や、嘘、ちょっと用事思い出した」
用事って会社? と聞かれて、そんなの嘘だったから頷いた。そうそう年末だから、と付け足して。年末って便利だ。忙しいのは最高の言い訳だ。それが嘘でも本当でも、十二月ってだけで「忙しい」は魔法の呪文みたいになる。
「また来てくださいね」
幼馴染みの出来立てほやほやな彼女が笑った。
またね、と俺は小さく手を振る。
三条には、なんて言って別れたんだっけ。またね、って言ったんだっけ。言わなかったんだっけ。
年明けの、開ける瞬間はまだ夜の中なのだということが不思議だ。
十二月の張り詰めた空気は、一月のゆるゆるな空気に追いやられて欠片も残ってない。だらりとした、それこそ餅のようにだらりとした日常。乾燥した切り餅ではもちろんなくて。
初夢と呼ばれるものは一日の夜に見た夢なのだというのは、成人してから知った。大晦日のときに寝て見たのは違うらしい。どうせ鷹や富士や茄子なんかの夢なんか見ないし、元々そう見るものでもないから俺には関係ない。
そういえば夢はフルカラーで見るという人間が俺の周りには多い。幼馴染みもそうだ。フルカラー以外の夢ってないよ、と断言されるが、俺の夢は単色なので、色が溢れているというのが信じられない。
青なら青だけ、緑なら緑だけ。影の濃さで細部まできちんと表現されている。なんの問題もない。でも、夢を見ているときはそれが夢だとはっきり分かる。色が一色しかないから。そういえば寒色ばかりで見るかもしれない。あまり赤とかオレンジとかは出てこない。黄色もピンク色も。それって俺が淋しい人間だからってことなんだろうか。
初夢に見たのは、付き合ってた女だった。
うちの勝手口にちらちらと隠れつつ見えつつ、俺が出てくるのを待っていた。そんな夢。濃い青と、淡い青と、静かな青の夢だった。赤なんてひとつも出てこないのに、真っ赤な唇をちゃんと思った。あれがあの女のイメージだから。
俺は女がそこにいることをきちんと分かっていて、早くドアを開けないとどこかへ行ってしまうことも分かっていて、なのにそっちへ行こうとすると邪魔が入る。母親に呼ばれたり、父親に呼ばれたり、幼馴染みがカニ持って遊びにきたり。なんだよ親父なんかもう死んでるよ、幼馴染みの奴夢の中まで邪魔しにくんなよ、と腹を立てつつも勝手口の女よりそっちを優先してしまう。女がいることを誰にも知られたくなくて。
ああ、ほら影が。
さっきよりも外に出掛かってる。
女の影が。
もう勝手口からいなくなろうとしてる。
夢だと分かっているのに焦ってた。このまま顔も見ないで女が行ってしまったら、それこそ永遠の別れなんじゃないかという怖さがあった。永遠の別れ。女が死ぬんだろうか。俺は別に死ぬ予定なんてない。不慮の事故だなんだといえば一時間後のことだって不確定要素だが、とりあえず死ぬ気もない。
女のすらりとした脚を思い出す。
魅惑のライン。すべすべしていてどことなしに冷たくてしなやかで。
でもそういえばもうずっと、女の顔を俺は思い出せていない。思い出そうとしてものっぺらぼうだ。輪郭ももうあやふやで、いい女、という記号だけが残っている。
「いいじゃない、そんなの捨てちゃえば?」
甘く酔った声がする。
あれは、三条だ。
別に俺は三条に恋心を抱いたとかいうんじゃないんだけどな。こうやって思い出してる時点でなんらかの気があるんだろうか。
そんなのお手軽すぎる。
お手軽だし、そんなんだったらあのとき別にやっちゃっても良かったんじゃんと思う。
ぼんやりとまどろんで、ぐずぐずと冷たい空気の中で布団の中だけ体温であたためて。だらりだらりと時間を消費する。眠るのは癒しになる。なんの癒しだろう。心? 俺の心は傷ついていたのか? 生きていればどこかしら傷つくか。
捨てちゃうとか捨てちゃわないとか、そんな簡単なものではないんだよなー、と言い訳する。心って。未練って。執着って。愛着って。でも顔も思い出せないでいる女に、なんの未練だろう。そもそも、俺はあの女の顔をきちんとちゃんと見ていたんだろうか。それよりなにより、その女はそこに存在していて俺と付き合ってたんだろうか。付き合うってなんだ。なんだかもういろいろと分からない。難しいもんだ。
でも青い夢の中で見る女に、性欲って湧かないもんだな、色のせいか?
三が日だからと幼馴染みは浮かれて、できたばっかの彼女と初詣だなんだとはしゃいでんだろうなー、と思ったら腹が立ってきたので、邪魔してやろうと電話をかけた。
そしたら三が日は普通に店を開けていると言う。
暇なのかと驚いたら、彼女は実家に帰っているのだと淋しそうだった。
実家ってどこだ。
沖縄? そりゃまた遠い。
でもそんなに沖縄って顔じゃなかったよな。そこまで濃くないっていうか。あ、でも別に沖縄の人だからって彫が深い人ばっかじゃないか。
へー、でも沖縄出身でこんな寒いとこにいるのか。冬辛そうだな。ああ、学生で。ああ、それでこっちに。
ふうん、なんだかさ、話の内容がおばちゃんっぽいよな。あ? 違う違う、お前の母ちゃんじゃなくて世間一般のおばちゃん。そう、井戸端会議してる的な。
いいな沖縄。俺も行きたいな、南の国か。や、国じゃないな、島か。なんかいいな、行きたいよな、寒いから余計行きたい、行くか? そうだな、行くか! あ、でもやっぱいいや、俺暑いの苦手だった。寒いのもそんな好きじゃないな。いいんだよ、正月だからだらだらしてんだよ。は? 行かねーよ、ひとりで初詣ってなんだよその罰ゲームみたいなの。は? やだよ、どうしてお前とふたりで行くんだよ、三十過ぎのおっさんふたりでいそいそ行くのかよ、勘弁してくれ。
まあな、別に自分のことおっさんなんて思ってないけどな。
うん、今年三十二になるんだぜ? 俺達。すごいよな、三十歳ってもっと大人だと思ってたよな、ガキの頃。
あれ、厄年っていくつだっけ。
厄払いとか行く? 三十三歳のは女だっけ、なんかよく分かんないけどさ、うちの姉ちゃんはちょうど厄年んとき赤ん坊産んだから厄落としになったとかって。そう、姪。遠くだよ。うん、四国。行ったことない。
ああ、母ちゃん今いないんだよ。や、友達と旅行だってさ。正月からのなんて高いよな、なんか知らんけどツアーだって。そうそう、俺ひとり。自由気ままな正月。
え、なに?
『吉野ちゃん淋しいんじゃない? なんかよく喋ってるけど』
幼馴染みに言われて、そうかもしれないと思った。
店においでって言われたから、素直に行った。
新年なのに淋しいって変な感じなのな。でもだらりとした空気だから余計淋しさとかを感じるのかもしれない。
川沿いの幼馴染みの店はいつもとなにも変わらずそこにあった。
でも小さな正月飾りがちょこんと飾ってはあった。スーパーで五百円くらいのやつ。締め縄と松と、プラスチックのみかんとが絡まっている。
冬の川はぱっきりしていて、そういえば最近川が凍るってないな。俺が小さい頃は冬の川って凍るもんだった。幼稚園に行くとき、凍った川を渡ってショートカットした。冬だけの近道。
でも今は凍らない。温暖化だのなんだので。
川が凍るほど寒い冬も嫌だけど、川が凍るくらいの寒い冬なら説得力があったのに。冬だから寒いのは当たり前なんだ、みたいな。
「吉野ちゃんビール?」
「寒いからなぁ」
「じゃあ冷で出そうか」
「お前、結局冷たいのにするのかよ」
店の中にあるのは、ストーブだ。上にヤカンなんかが置けるような奴。もちろんヤカンが置いてある。小さな子供はこない店だけど、酔っ払いがぶつかりそうで怖くもある。でも誰もぶつかったことないよ、と幼馴染みは言う。
ストーブのあたたかな熱が窓ガラスを内側からどんどん曇らせて、擦りガラスみたいにしてしまう。
シチューとか食べたくなるよな、と言ったら笑われた。
吉野ちゃんには似合わないと言われた。
「シチューご飯にかける?」
「あー、うちはシチューかけご飯は行儀が悪いって、二杯目のご飯からならかけていいことになってた」
「吉野家ルールだ」
「でもビーフシチューはかけちゃいけないんだよ」
「へぇ。オレはかけちゃってたな。最初から。で、ぐちゃぐちゃにかき混ぜんの。カレーもそう。最初から全混ぜ」
「行儀悪いって言われなかった?」
「親父が全部混ぜて食う人だったからなー」
「家ん中で一番偉い奴がやってると、結局誰も文句言えないよな」
結局冷で酒が出されて、寒いなー、と文句を言いつつ飲む。
お節とかあんの、と聞いたら、黒豆煮てあるよと返された。
「そこのストーブで煮たんだな、これが」
「へぇ。マメな」
「シャレ?」
「いや。豆ってばあちゃんとかよく煮てたよな、そんなイメージ。甘いから飯のおかずにならんって言いながら、親父とかつまみに食ってた」
「食べるなら出すよ」
「黒豆よりなんだっけ、あの茶色いのが好きだな」
「金時?」
「名前分かんないけど」
「黒豆しかないっての、正月早々文句言うなよ」
「食う。黒くてもなんでも。でもちょっとでいい。あ、なんか魚焼いて」
「干物しかないけど」
いいよなんでも。
そういえばせっかく正月なんだからさ、雑煮とかないの?
鶏と三つ葉と餅? いい、いいそんなのでいい、食いたい食いたい。
「餅って正月しか食わなくない?」
「食わないよなー。でも逆に、普段そんなに取り立てて好きってんでもないのにさ、正月だと食いたくなるんだよな」
分かる、と幼馴染みが笑った。
相変わらずカバみたいな顔だ。笑わない方が格好いいなんて、なんだかな。
そして相変わらず客のいない店だった。指摘すると、吉野ちゃんが来るときは客が入んないんだよと文句を言われる。俺は逆招き猫か。閑古鳥本人か。
「白だしでいい? 味噌にする?」
「は、なにが?」
「雑煮だよ、雑煮。食うって言ったの吉野ちゃんじゃん」
なんだこれから作るのか。
どっちでもいいよ。
「それって女が一番嫌がる返事だよな」
「そうなの?」
「そうじゃない? 飯なんにするかって聞かれたときの、なんでもいいって返事とか」
「なんでもいいって言ったことないな」
「今言ってるっつの、どっちでもって言ってるっつの、吉野ちゃんヤバいよその無自覚。知らないうちに女怒らせてるタイプだよ」
「マジか」
「マジだ」
あの女も、俺に対しての怒りをどこかでふつふつと溜めていたんだろうか。許容量を静かに超えて、音もなく溢れてしまった怒りに俺を売り飛ばしたか。
いやいや、そんな繊細なもんじゃないな、きっと。
なんかもう、よく分かんないな。
なんかもう、どうでもいいやな。
「俺、そういえば去年女と別れたんだよね」
「だからリサイクルショップになんか売られてたんだろ?」
「あ、そっか、話してたっけ。うん、それでさ、初夢にその女を見たんだよね」
はあそんで? と幼馴染みは注文もしていない酒をコップに注いでくれながら先を促す。俺、そんなに飲むつもりないんだけどな、今日。
「お前が出てきて邪魔してくれた」
「え、なに、そりゃすまん、悪かった」
「謝られてもな。夢の話だし」
「でもさ、夢の中のオレってことは、吉野ちゃんが実際にオレのことそう捉えてるってことだろ? やだな、オレやな奴じゃん?」
「違う、俺がお前の方を優先してさ、女に会いそびれた感じ」
「やだん、吉野ちゃんったらあん」
「しなを作んなよ、気持ち悪い」
「初夢損だな」
「だな」
「彼女、いつ帰ってくんの?」
「や、オレが五日から休み取るから、あっち行こうかなって思ってて」
「沖縄?」
「沖縄」
「いいな、沖縄」
「さっき電話では暑いとこやっぱ嫌いとかって言ってたぞ」
「暑いとこが苦手なんじゃねーよ、暑いのが苦手なんだよ」
「違いが分からん」
小鉢に黒豆が出された。つやつやでふっくらしたやつ。
笑い顔がカバでも、調理師免許取るために高校在校中から料理屋でバイトしてたもんな。卒業してから、すぐちょっとした小料理屋で働き出したし。
「お前偉いな」
「は? 吉野ちゃんどったの」
気持ち悪いんですけど、とカウンターの向こうの幼馴染みが苦笑する。苦笑のときは別にカバにならないんだけどな。
伸ばせば手が届くカウンターの向こうは、銀紙が壁に貼られていてコンロが置いてある。四角いフライパンで、玉子焼きが焼かれているのを俺は見る。
「だし巻き?」
あれ、伊達巻きだったっけ。正月に食べるのって。甘すぎて、そしてなんかどこか生臭いような気がして、俺が苦手な黄色いの。
「吉野ちゃん伊達巻き食べないじゃん、普通の甘いの。あー、オレ彼女みたい、吉野ちゃんの好みなんか細かく覚えててさ、甘い卵焼きが好き、とかさ」
「この前忘れてたじゃねーか、お前俺にシイタケ出したぞ」
「え、マジ? っていうか、吉野ちゃんシイタケ食べらんなかったっけ?」
「おう」
「ヤバいな、彼女失格だな」
「こんなむっさい彼女欲しくねーよ」
お前可愛い彼女できたばっかで、沖縄まで追っかけて行くんだろ?
いいよな。
いくつになってもさ。
なんかそういうのって、やっぱ楽しいと思うよ。
「いいな、沖縄か」
「吉野ちゃんも行く?」
「そんなんお前、いきなり行けるかっての。しかもなにが哀しくて彼女に会いに行く奴にくっついてかなきゃなんないんだよ」
「じゃあ、いいなーとか言うなよー」
「そんなんとりあえず言ってみただけじゃねーか。好きな女追っかけて海超えるとかさ、楽しそうだよな」
「吉野ちゃんも行けば?」
「だからどうして俺がお前の、」
や、そうじゃなくて。
幼馴染みが玉子焼きをひっくり返す横顔のまま言う。
「吉野ちゃんも女追っかけて。身軽にさ」
別れた女?
追いかけるって、あの女?
なんかもう、未練とかってないな。顔も思い出せなくなってる。
そう、もう輪郭すらあやふやだ。
「はいよ、玉子焼き。あ、なに変な顔してんの」
「俺のこと売っ払うような女追っかけたくねーなーと思って」
「ああ、違う違う、もっと簡単に次の女でも追っかければってニュアンスで言っただけだから」
「次の女って、」
どうして頭に三条が浮かんだんだろう。
いやそんな。
お手軽すぎる。
それにちょっと性格が面倒くさそうだし。
可愛くないこともなかったけど。
うん、でもまあ。
そういえばこいつの店に連れて来てやろうとか思ったんだよな、あの時。幼馴染みの顔を見て思う。そうだな。別に難しく考えることないよな。人なんて、出会うこと自体は簡単だ。特別に考えなければ。特別に考えなさ過ぎれば。
俺は逆招き猫みたいだから、今日明日とずっとここにいてやるから、もう予定繰り上げて沖縄行っちゃえば? 俺の言葉に幼馴染みがまた苦笑する。
「そんな訳に行くかい」
出された卵焼きは綺麗な黄色だった。
新しい月みたいな黄色。
うん、じゃあ今度は三条でも連れてくるかな。あいつの家を忘れてしまわないうちに。