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見つからない名前

 翌朝、神楽は自宅のマンションで、膨大な資料と格闘していた。泰人が作った朝食のスクランブルエッグとオレンジジュースにも、まだ手をつけていなかった。

 神楽はさまざまなツテを使い、月代かぐやという名前を調査した。そのすべては空振りに終わった。国のデータベースにすら、そのような人物の名前はなかった。ペンネームや地下アイドルの芸名という路線も追ったが、ネットの海からそれらを見つけ出すこともできなかった。

 事態が進展しなくなり、ナナコは心配そうな顔をした。

 泰人は、そんなナナコに目配せをした。

 神楽に任せておけばだいじょうぶだと、アイコンタクトで伝えた。

 場の雰囲気をなごませるため、泰人はナナコにもコーヒーをすすめた。

 ナナコが半分ほど飲んだところで、神楽は思考の海で息継ぎをした。

「考えられるのは……」

 それが、神楽の第一声だった。

 泰人とナナコは、固唾をのんだ。

「私たちがアンロックした記憶……これが偽物だってことね」

 神楽の言葉に、洗いものをする泰人の手がとまった。

「偽物? ……記憶がまちがってる、ってことですか?」

「その可能性がある」

 偽物の記憶。

 その存在自体は、泰人も知っていた。

 国家試験で使われるテキストには、かならず書かれている情報だったからだ。

 人間には記憶ちがいがある以上、夢のなかの記憶がすべて本物だとはかぎらない。

「だけど、じぶんの名前をおぼえまちがえるなんて、ありますかね?」

 泰人の疑問に、神楽はなやましげな顔をした。

 直接的には答えずに、神楽はナナコの目を見つめた。

 コーヒーカップを手にしたナナコは、気まずそうに視線をそらしかけた。

「ナナコさん……ちょっとショッキングな話になるけど、聞いて欲しいの。泰人が言うとおり、じぶんの名前をおぼえまちがえることは、まずないと思う。だから、残された可能性は……」

 神楽は、一段と声をひくめた。

 ナナコは、彼女の瞳の奥を、まっすぐにみつめ返した。

 さきほどの不安はやわらぎ、意志のあるまなざしになっていた。

 よからぬ知らせであることを、ナナコは勘づいているようだった。

「ナナコさん、あなたは記憶を改ざんされてるのかもしれない」

 ナナコの手から、カップがすべりおちた。

 絨毯のうえに、コーヒーが飛散した。

「ご、ごめんなさい!」

 泰人は台ふきをもちだして、床をふいた。

 そのあいだも神楽は、たんたんと自説を開陳した。

 まるで、自分自身と対話しているかのように。

「ナナコさんは、昨晩の回想の時点で、記憶を改ざんされていた……こう考えれば、すべてつじつまが合う。ナナコさんの脳は、刷り込まれそうになった偽の名前を拒絶して、それをロックしてしまったのよ」

 泰人は床をふき終えた。

 そして、神楽の説明に歩調をあわせた。

「じゃあ、昨日の夜、あのルナとかいう女の子たちが、追って来なかったのも……」

「連中の行動が悠長だったのには、理由があったの。彼らは、じぶんたちが押しつけようとした記憶がうまく定着しなかったことに気づいた。そして、私たちと同じ結論に達した。偽の記憶がロックされてる、って。だから、彼らの目的も、月代かぐやという名前をアンロックすることだった。ようするに私たちは、ババをつかまされたってわけ」

 今回の事件は、神楽のプライドを傷つけた。よくありがちな世評のことではなく、彼女の職業家としてのプライドを傷つけた。

 最初に降り立った記憶を、あやしく感じた。そこまでは、よかった。だが、鏡のなかにもうひとつの記憶を見つけたとたん、そちらを本物だと信じてしまった。そんな保証など、どこにもなかったというのに。けっきょくのところ、鏡のなかの記憶も、捏造されたものだった。アンロックしてはいけなかったのだ。だが──

(じゃあ、本物の記憶は、どこにあるの? 妙に精巧だったし……拒絶反応が少なかったのも、気になる……部分的に、本物の記憶を土台にしてたってこと? だとすると、最初の部屋は、その面影だった可能性も……だけど、民家とは思えなかった。病院とも違ってた。まるで……)

 SFに出てくる、研究所のようだった。神楽は、そう思った。

 押し黙る神楽のまえで、ナナコの顔は、だんだんと重たくなっていった。

 泰人もまた、心配そうな視線をおくっていた。

 神楽は、腰をあげた。

「これは私の責任よ。クライアントであるナナコさんのことを、もっとよく調べてから取りかかるべきだった。私のミス」

 謝罪する神楽にむかって、ナナコは静かに話しかけた。

「もとはといえば、私が原因です……でも、月代かぐやが本名じゃないなんて……私はいったい、だれなんでしょうか?」

 手がかりは消えた。

 三人の顔に、影がさした。

「……もういちど行くしかないわね」

 神楽の宣言に、ほかのふたりはハッと息をのんだ。

 ナナコは、

「またあの世界に行くんですか?」

 とたずね返した。

「このままじゃ、らちが明かない。それに、ナナコさんが記憶障害をわずらっているということは、忘れ屋たちの改竄が失敗している証拠よ。おそらく、どこかで手ちがいがあったんだと思う……それなら、後発の私たちにも、チャンスがある。彼らが記憶の改ざんに成功するまえに、正常な記憶をすべてアンロックしてしまえばいい」

 神楽は、ナナコのとなりに座りなおした。

「泰人、この部屋の管理をお願い」

「わ、わかりました」

 神楽は、ナナコに右手をさしだした。

「さあ、行きましょう」

 ナナコも目を閉じて、ふたりは指をからめた。

 まぶたごしにLEDの灯りが映り込む。

 それはだんだんと輝きを失って、暗転していく。

 最後には、闇があたりをおおった。

 

 ☽

 

 神楽が目を覚ましたとき、彼女の神経が初めに感じとったのは、左手に伝わるやわらかな毛玉の感触だった。まぶたを上げて、その正体に目を向けた。小さな熊のぬいぐるみが、神楽の顔をけげん深そうにのぞき込んでいた。

 神楽は上体を起こした。じぶんの居場所を急いで確認した。

「ここは……?」

 神楽は、室内を詳細に観察した。

 花柄のかわいらしいカーテン、ベッド、あちこちに散らばる、おもちゃ。

 そして、赤ん坊を寝かせる、ベビーベッドがしつらえてあった。

(ナナコさんの子供……? いや、そんなはずは……)

 さすがにこどもはいないだろう。神楽は、そう判断した。

 そしてそのとき、神楽はあることに気がついた。

 部屋のなかには、神楽一人しかいないのだ。

「ナナコさん?」

 神楽は床に手を着いて、起き上がった。

 ナナコの気配を求めて、四方を見回した。

 しかし、どこにもその片鱗はなかった。

 同調の失敗だろうか? 神楽に緊張が走った。

 神楽の頭が一瞬真っ白になったところで、ふいに背後のドアがひらいた。

 猫の写真つきカレンダーが揺れた。

 ドアのすきまから、ナナコが顔をのぞかせた。

「ナナコさん!」

 神楽は、ナナコが部屋へ足を踏み入れるや否や、彼女に駆け寄った。

「どこにいたの? 先に目が覚めた?」

 神楽の剣幕に、ナナコは一歩引き下がった。

 神楽は、じぶんが興奮していたことに気づき、反省した。

 すこしばかり声を落とした。

「だいじょうぶ? 先に目が覚めた?」

「だいじょうぶです。ただ、起きたら神楽さんがいなくて……」

 ナナコのセリフが意味するところを、神楽は即座に察した。

「べつの部屋にいたってこと?」

 ナナコは、黙ってうなずきかえした。

 神楽は、今いる部屋のなかを、ぐるりと見渡した。

 ロックされた記憶の痕跡がないかどうか、念入りに確かめた。

 目視できる範囲には、見当たらなかった。

 ベビーベッドへ足を伸ばそうとしたとき、ナナコは彼女を呼びとめた。

「あ、あの……記憶なら、もう見つかりました」

 神楽はおどろいて、ふりかえった。

「どこに?」

「私がいた部屋のなかです。ただ……」

 ナナコは、そこで言葉を切った。

 その理由が、神楽には見えてこなかった。

「ただ?」

「ふ、ふたつあるような気がするんですけど……」

「……」

 神楽は、ナナコの横を通りぬけて、部屋を出た。

 清掃のゆきとどいた板張りのろうかが、右手のほうへ続いていた。

 左は壁になっており、神楽の起きた部屋が、一番奥にあることを示していた。

 ろうかには、いくつものドアがついていた。かなり大きな建物のようだった。

「ナナコさん、どの部屋?」

 ドア枠に姿を現したナナコに、神楽は質問した。

「すぐそこです」

 ナナコはそう言って、ゆびをさした。

 神楽が出て来た部屋と同じがわにある、すぐとなりのドアだった。

 神楽はドアノブに手をかけ、慎重にそれをまわした。

 力を込めると、音もなくひらいた。

 彼女の目のまえに、もうひとつの部屋が姿をあらわした。

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