我が名はかぐや
神楽とナナコは部屋をとびだした。
ふたりを待ち受けていたのは、左右にのびる白い通路だった。
窓はなく、ひともいなかった。
ナナコは、
「ここは……どこですか……?」
と、不安げなまなざしを送ってきた。
神楽は首を左右に九十度回し、通路の奥をさぐった。どちらも、頑丈な金属製のとびらで封鎖されていた。その向こうになにがあるのか、うかがい知ることすらできなかった。
ただひとつ目立つものといえば、一枚の鏡だった。
それはふたりが出てきた部屋の、ちょうど正面にあった。
比較的大きめで、床から神楽の身長ほどの高さがあった。
幅は三〇センチといったところだろうか。
神楽は、鏡をのぞきこんだ。
濡れた髪の毛が、ひたいにはりついていた。
あごからは、水滴がしたたりおちていた。
神楽は、前髪をつまみあげた。
「……?」
神楽は、ふと違和感をおぼえた。
うしろを見る──部屋のスプリンクラーが、水をまき散らし続けていた。
ところが、もういちど鏡を見ると、そのような光景は映っていなかった。
ドアが開いている点は同じだったが、部屋のなかで騒動は起こっていなかった。
「ナナコさん、ちょっと来て」
その鏡の世界に、ナナコもひょいとあらわれた。
「どうしました?」
「この鏡に映ってる景色、私たちがいるところと違う」
ナナコもそのことに気づいた。
「ですね……もしかして、鏡のなかに入れるとか?」
神楽は、鏡面に手をのばしてみた。硬質なガラスが、侵入を拒絶した。
ナナコも真似てみたが、反応はなかった。
神楽は、いったん保留することにした。
記憶が部分的に混濁しているだけかもしれないと、そう思ったからだ。
「ナナコさん、ここがどこか思い出せた?」
神楽の質問に、ナナコは首をふった。
神楽は、腕時計に目をやった。残り時間は二十分を切っていた。
「記憶がアンロックされた気配って、ある?」
「気配?」
「気分が軽くなったとか、思考がはっきりしてきたとかは?」
ナナコは、また首をふった。
神楽は嘆息した──ここまで手掛かりのない潜入は、なかなかめずらしかった。ふつうはもっと、ヒントになりそうなものが、たくさんあるのだ。思い出の場所とか、思い出の品とか、そういうものが。
神楽は、あたりを見回した。すると、じぶんたちが出てきたとびらのすぐ横、ちょうど目線の高さに、いびつな盛りあがりをみつけた。それは、真っ白なプレートだった。壁の色と同じだったうえに、なんの装飾もなかったので、最初は気づかなかった。
ナナコもふりかえって、眉をひそめた。
「これは……」
ナナコの反応に、緊張が走った。
「なにか見覚えがある?」
「み、見覚えはないですが……なんだか、不思議な感じがします……」
神楽はくちびるをかたくむすび、プレートをもう一度みた。
不思議な感覚。これがロックされた記憶でまちがいない。神楽は確信した。
しかし、ナナコがなにかを思い出した気配はなかった。
彼女は、ぼんやりとプレートを見つめたまま、その表面を目で追っているだけだった。
「……なにも思い出さない? じぶんの名前とか、場所の名前とか」
その途端、神楽の前でナナコの顔色がくもった。
それは、苦悶の表情へと変わった。
ナナコは両手で頭をおさえた。
「だ、だいじょうぶ?」
ナナコは頭をかかえたまま、
「いえ……ちょっと頭痛がして……」
と答えた。
痛みは去りつつあるのか、ナナコはこめかみをなでた。
そして、こんどは神楽がしぶい顔をした。
「酷かもしれないけど、さっきの私の台詞を、思い出してくれない?」
「え? 神楽さんの台詞を?」
神楽の頼みに、ナナコは眉をひそめる。
「ナナコさんは、さっきの会話のどこかで、記憶を刺激された。なにかを思い出しかけたの。ナナコさんの心がそれをこばんだから、頭が痛くなった」
「思い出しかけた……?」
神楽は、うなずきかえした。
「あせらないでいいから、ゆっくりね。痛くなったら、すぐにやめてもいい」
神楽の真剣なまなざしに、ナナコは意志のこもった瞳をかえした。
目を閉じると、先ほどの神楽の台詞を、頭のなかで復唱した。
《……なにも思い出さない? じぶんの名前とか……》
「名前……うッ」
ナナコは、ふたたび頭をかかえた。
神楽は、ナナコが平静を取りもどすまで、じっと待った。
すぐにでも質問を投げかけたいところだが、神楽はクライアントの安全を優先した。
そしてそのあいだ、思考をフル回転させ、ナナコのつぶやきの意味を考えた。
名前──白地のプレート──とびらのすぐそば──
神楽の脳裏に電流が走った。
「ネームプレート!」
神楽はプレートに駆けよって、その表面を凝視した。なめらかに見えたそれは、こすられたあとを残していた。記憶消去の痕跡だった。
「やっぱり!」
神楽は、ナナコに話しかけた。
「ナナコさん、まだ耐えられそう?」
「え……ええ……一回目ほど痛くは、ありませんでした」
ナナコの返事に、神楽は安堵の表情を浮かべた。
「心が慣れてきたのね……これから重要なことを話すわ。また頭が痛くなるかもしれないけど、我慢して聞いて……ナナコさん、あなたは名前を思い出せないんじゃない。思い出したくないの。だから、あそこにかけられてるはずのネームプレートが、真っ白になっちゃってる」
「ネーム……プレート……」
ナナコの頭痛は、再発しなかったようだ。
まだ調子が悪そうに見えるものの、言葉には乱れがない。
ロックがゆるんでいる。心が受け入れ始めた証拠だった。
「そのネームプレートになにが書かれていたか、思い出せない?」
核心部分にふれた神楽は、黙ってナナコの反応を待った。
「……なにも思い出せません」
ナナコは、消え入りそうな声で答えた。
「ネームプレートを見た記憶は?」
「ないです」
ネームプレートの存在自体が、記憶から消されているのだ。
そう考えた神楽は、腕組みをして、かるく目を閉じた。
こんなとき、アドバイザーはどうすればいいのだろうか。
教習所で教わったことを思い出そうと、神楽は記憶をたどった。
(トラウマになってることは、ダイレクトには思い出せない。なにかワンクッション置かないといけない)
どうすれば、間接的な記憶の再生ができるのか。
神楽は頭をひねった。
教科書的には、なにか作業をはさむ、というものだった。
つまり、直接的に思い出そうとするのではなく、なにかの作業のはずみで見つかった、という体裁をとるのだ。一見ばかばかしいように思われるが、科学的に有効なことは証明されていた。
「……マニキュア落としとか、そういうものを出せない?」
かぐやは、両手をお椀に組んだ。
五分ほどして、ピンク色の小瓶ができあがった。
「どうぞ」
神楽はポケットからハンカチをとりだした。
液体を染み込ませ、プレートを強くこすってみた。
「……んー、だめか」
プレートは、相変わらず白いままだった。
匂いのこびりついたハンカチを、神楽はポケットにしまった。
もういちど頭をひねる。
「……インクに紫外線をあてると、うすい文字でも読めるようになるのよね」
「紫外線……ですか?」
「紫外線ランプは作れない?」
「そ、そういう複雑なものは、ちょっと……」
「それもそうね、ごめんなさい」
神楽は、プレートの問題を棚上げにした。
「通路の向こうがわにヒントがないか、たしかめてみましょう。私はあっちのドアを担当するから、ナナコさんはそっちのドアをお願い」
神楽は、出てきた部屋からみて、右手のほうのドアを担当した。
金属製の把手に指をかけて、思いっきり引いてみた。
びくともしなかった。
通路の反対側から、
「ダメです、こっちもひらきません」
というナナコの声が聞こえた。
神楽たちは、押してみたり、スライドさせてみたり、たたいたりしてみた。
どれも意味がなかった。
どうやら、鍵がかかっているらしかった。鍵穴がないにもかかわらず、である。
もしかすると、外からしか開錠できないのかもしれなかった。
神楽は腕時計をみた。残り時間は、すでに一〇分を切っていた。
もういちど、最初からていねいに考えなおす。
無機質な部屋、カードキー、スプリンクラー、鏡──
「鏡?」
神楽は、部屋から出た直後の違和感を思い出した。
スプリンクラーでずぶ濡れになったじぶんは、この鏡のまえに立った。
すると、鏡のなかの景色が、じっさいの景色とちがった。
なぜ?──この場所と鏡のなかで、時間の流れがちがうのでは?
「……そうか!」
神楽は、鏡にもういちど駆けよった。
鏡面をのぞきこみ、角度を試行錯誤した。
プレートが映り込んだ瞬間、文字がみえた。
カードキーの謎も解けた。
ナナコは、もっと古い記憶を思い出していなければならなかった。
そこに強烈なロックがかかっていて、浅い記憶に潜入してしまったのだ。
古いカードキーを夢現化したのは、そのなごりだった。
「ナナコさん、鏡ッ!」
神楽の大声に、ナナコも駆けつけた。
ふたりは、左右対称になったアルファベットを、慎重に読みあげた。
「T・S・U・K・I・S・H・I・R・O……ツキシロ!」
神楽がさけんだのと同時に、ナナコは顔をあげる。
「ツキシロ……」
ナナコは、胸もとでやわらかに指を折りまげて、そっと目を閉じた。
「私は……かぐや……月代かぐや……!」
その瞬間、神楽たちは現実へと引きもどされた。
☽
神楽が目をさますと、そこはマンションのリビングだった。
すこし離れたところに、椅子をおいた泰人の姿があった。
「あ、先輩、どうでした?」
神楽は親指を立てて、成功、という合図を送った。
泰人の顔が明るくなった。
ナナコもまた、ゆっくりと目をさました。
「ここ……は……?」
神楽は、
「おはよう、ナナコさん」
と声をかけた。
ナナコは、しばらくのあいだ、意識がぼんやりとしているようだった。
が、しばらくして、
「私は……月代かぐや?」
と、あいまいにつぶやいた。
神楽は、ナナコの気分が回復するのを待ってから、紙に名前をかかせた。
その文字列に、神楽は無表情になった。
「月代かぐや……か。いい名前ね」
神楽のセリフは、彼女の心のなかのセリフとは、かならずしも一致していなかった。
(月から来た少女の名前が、月代かぐや、か……できすぎね)
それが、神楽の本音だった。
けれども彼女は、それを思考のかたすみに仕舞って、言葉をつむいだ。
「これなら、同姓同名の問題もなさそう」
神楽はそう言うと、スマホで電話をかけ始めた。