脱出ゲーム
「……」
淡い白色の光に起こされて、神楽はまぶたをあけた。
ここはどこだろうか。
作業のルーチンとして、神楽は無意識に周囲を観察した。
視界がはっきりしてくるにつれて、室内のようすも鮮明さを増した。輪郭がはっきりしてきたところで、神楽はわずかに眉をひそめた。
若い女性の寝室にしては、あまりにもそっけない風景だった。真っ白な壁に囲まれた空間には、無地のかけ布団と、シーツを敷いただけのベッドがひとつ。部屋の中央には、簡素な半円形のテーブルがおかれていた。その椅子に、神楽は腰をおろしていた。そして、外に通じていると思わしきドアが、ベッドの反対側にひとつだけあった。
ナナコは眼をつむって、ベッドに横たわっていた。
「ナナコさん?」
神楽はベッドに近寄って、ナナコの肩にそっと手をかけた。
寝息を立てていたナナコは、おもむろに目をひらいた。
「おはよう、ナナコさん」
神楽はひとまず、あいさつをした。
それをよそに、ナナコは視線をキョロキョロさせていた。
じぶんがどこにいるのか、まったく把握できていないようだった。
「……ここは?」
ナナコは神楽の存在に、ようやく気づいた。
「ここは、ナナコさんの夢のなか。正確には、思い出のなか」
「思い出の……なか……」
ナナコは上半身を起こして、部屋をぼんやりと一瞥した。パニックは起こしていないようだ。そのことに、神楽は安堵した。依頼人のなかには、夢のなかで混乱してしまい、言動が不安定になるひともいた。ナナコには、そのような症状はみられなかった。
ただ、体が緊張でかたくなっているらしく、ナナコの動きはどこかぎこちなかった。
「私……この部屋に見覚えがあります……」
ナナコのつぶやきに、神楽はうなずいた。
「正確に潜入できたみたいね」
じつのところ、神楽にも不安があった。同調がうまくいかなかったとき、記憶の断片が組み合わさって、ありもしない記憶を一時的に形成することがあった。この部屋のデザインがあまりにもシンプルだったので、神楽はその可能性を若干危惧していた。
一方、ナナコの顔色は晴れなかった。
「でも……どこで見たのか思い出せない……」
ナナコはそう言って、かるく頭をふった。
カウンセラーが夢の世界で第一になすべきことは、どの時点の記憶を具現化させたのか、それを確認することだ。そうすることによって、いつどこで体験したシーンがトラウマになっているのか、多少は推察することができる。
神楽は、ナナコのカウンセリングを開始した。
「ここは、ナナコさんの寝室じゃない?」
とりあえず、当たり障りのないところから見当をつけてみた。
「わかりません……ただ……」
ナナコは、くちびるを閉じた。
けれども、その先の言葉は、神楽にも察しがついていた。こんな殺風景な部屋に住んでいたとは思えない。そう言いたいのだろう。
神楽は、べつの可能性をさぐることにした。
「じゃあ、病院? ナナコさん、なにかの病気だったとか?」
神楽は、さりげなく切り出したつもりだった。
しかし、ナナコははげしい動揺を見せた。
「そうかもしれません……やっぱり私、頭が変に……」
神楽は、じぶんのセリフが不適切だったことに気づいた。
「お腹が痛かったのかもしれない」
「でも、ここは普通の病院じゃない……窓すらないんですよ……?」
ナナコの反論に、神楽はうまい返事を思いつかなかった。
精神科に入院していた可能性を、切り捨ててはならない。夢療法士の仕事は、現実から目を背けることではなくて、クライアントが現実に目を向けられるように支援することだからだ。けれども、その可能性を指摘するには、タイミングとして早すぎるように思われた。
気まずい沈黙が続くなかで、先に言葉を継いだのは、ナナコだった。
「それとも……ここは前世の……」
ナナコは、急にオカルトなことをほのめかした。
神楽は、
「前世までさかのぼらせることは、共眠者でもできないわ」
と婉曲に否定した。
「で、でも、ここが前世じゃないとしたら、やっぱり病院……」
ナナコの考えは、ふたたびマイナスな方向にかたむきはじめた。
「ネガティブに考えちゃダメ」
神楽はそう言って、ナナコに笑いかけた。
その笑顔に、ナナコはすこしだけ、冷静さをとりもどしたようだ。
体の緊張がほぐれ、いからせていた肩が、スッと下に落ちた。
血色も、心なしか良くなったように見えた。
「ムリも思い出さなくても、いいから。ナナコさんは、なにか忘れてることがある。それがわかっただけでも、十分な収穫よ。次は、その忘れ物を見つけないとね」
「でも、どうやって……?」
神楽は、教科書通りの内容を、わかりやすく説明した。記憶が夢のかたちで具現化されたとき、そこにあらわれないものには二種類ある。ひとつは、脳が思い出すまでもないと判断しているもの。もうひとつは、脳が思い出すことを拒否しているもの。後者は、夢のなかで適切な行動をとることで、アクセス可能になる。これが、カウンセリングの基本だった。つまり、夢を媒介として、ロックがかかっている脳のシナプスに干渉するわけである。潜入がオカルトではなくなったのは、この仕組みが医学的に解明されたからだった。
自分たちがここにいる目的を教えられ、ナナコの顔にも、真剣味が増した。
ナナコはベッドから腰をあげて、むきだしの床に足をおろした。
「わかりました……神楽さんには、見当がついてるんですか?」
ナナコはそう言って、室内をみまわした。
神楽は、心持ちプレッシャーを感じた。
教科書的な説明をしたまでは、よかった。問題は、どのような記憶にロックがかかっているのか、なにをすればそのロックがはずれるのか、見当がついていないことだった。
とはいえ、家具もなにもない、小さな部屋だ。さがすのは簡単なように思われた。
「ベッドの下とか?」
そう言って神楽は、ベッドの下を確認した。
ほこりひとつ見当たらなかった。
ふたりは手分けして、部屋のすみずみをチェックした。
思い出につながるヒントらしきものは、どこにもなかった。
「……この部屋じゃないのかも。場所を変えましょう」
ふたりは、ひとつしかないとびらへ歩みよった。
ドアノブがなかった。
神楽は、首をかしげた。
「自働ドアじゃないですか?」
「それなら、もう開いてないとおかしくない?」
たしかに、とナナコは答えた。
ところが、ドア枠を見上げてみたところで、神楽は思いなおした。
天井に、センサーらしきものがあったのだ。
ふたりはそのセンサーに向かって手を振ってみたが、なんの反応もなかった。
「ロックされてるんじゃないでしょうか?」
ナナコの指摘に、神楽は、なるほどとうなずいた。
よくよく見れば、ドアの右側に、カードリーダーがあった。
電灯のスイッチと一体化していたから、見逃してしまったのだ。
けれども、肝心のカードキーがなかった。
「ナナコさん、カードキーに心当たりない?」
「カードキー……ですか……」
ナナコは目を細め、記憶をたぐり寄せるように、奥歯を噛みしめた。
しばらく考えたあとで、ナナコはハッとなった。
「心当たりがある?」
「は、はい……赤いカードを見た記憶があります。キャッシュカードみたいな……」
記憶のロックが、ひとつはずれた。
ナナコの脳内で、なにかがつながったような感覚が生じた。
「それは、この部屋で見たの?」
神楽の質問に、ナナコは目を細めた。
「わかりません……そんなカードを見たことだけは、覚えてます……」
それを聞いて、神楽は腕組みをした。
「記憶は、もどりつつあるみたいね……じゃあ、カードキーを作ってみましょう」
ナナコは、怪訝そうな顔をした。
「……作る?」
「夢のなかでは、物をあるていど自由に作れるの。夢現化っていうんだけど……ようするに、夢をコントロールしちゃうわけ。それができるのは、ナナコさん本人だけ。私たちでも、脳波を完全には同調させられないから」
わかったようなわからなかったような説明に、ナナコは半信半疑だった。
「とりあえずナナコさん、両手をお椀のかたちにしてみて」
「こ、こうですか?」
ナナコは、水をすくうように、空中で両手を合わせた。
「そうそう。じゃあ、そのカードキーを、心のなかではっきりと思い浮かべてみて。目をつむるほうが、やりやすいかも」
神楽に言われるがまま、ナナコはかるく目を閉じた。
「カードキーのイメージを、手のひらに集中させて」
「……」
ナナコはくちびるをむすび、両手に力を込めた。すると、透明な空間に、ぼんやりと影がさした。その影は次第に色彩を帯びて、かたちをととのえ、一枚の板に変じた。
「そうそう、その調子、その調子」
声援にこたえるかのように、カードは滑らかな質感をまとった。
立派なカードキーができあがり、ナナコの手のひらに落ち着いた。
「……オッケー、目を開けて」
ナナコは目をひらいた。
手のひらに、赤いカードキーが乗っていた。
「つ、つかれますね……」
「けっこう体力を使うから……でも、完璧なんじゃない?」
見たところ、凹凸ひとつない、完璧な模造品に思われた。
神楽は、カードを通すように、ナナコにたのんだ。
壁のみぞにさしこもうとして──異常に気づいた。
カードの端がつっかえて、うまく入らなかったのだ。
神楽の目測では、カードのほうが溝よりも、わずかに厚かった。
「す、すみません。大き過ぎたみたいですね」
ナナコは、もうしわけなさそうに謝った。
「だいじょうぶ。あせらずに、もう一回やりましょう」
ナナコはもういちど、目を閉じた。
神経を集中させ、先ほどとおなじ要領で、カードを夢現化させた。
さすがに体力を消耗するのか、初回よりも時間がかかった。
「ふぅ……どうですか?」
ナナコは肩で息をしながら、カードをさしだした。
「うーん、こんどはオッケーかな?」
神楽は、リーダーの溝とカードを、念入りにみくらべた。
厚すぎず薄すぎず、正確に再現されているようだ。
神楽は満足げにうなずきつつ、
「ナナコさん、ちょっと信じられないくらい上手いわね」
とつぶやいた。
唐突な神楽の賞賛に、ナナコは目を白黒させた。
「え、なにがですか?」
「最初からこんなに正確に再現できるなんて、ナナコさん、もしかしてすごく頭がいいんじゃない? すくなくとも、藝術のセンスはあるわ」
ナナコは、神楽のお世辞に、すこしばかりどぎまぎした。
「そ、そんなことありません」
「ふつうはこんなにキレイにできないから……と、いけない」
神楽は、じぶんの腕時計を確認した。すでに三〇分が経過していた。
状況の説明とカードの具現化に、時間をかけすぎてしまったようだ。
神楽はカードをうけとると、溝にそれをすべりこませた。
感触は完ぺきだった。
歓喜したのもつかのま、ピーッという音が鳴った。
とびらはひらかなかった。
《無効なカードです。もういちどご確認のうえ、新しいIDカードを入れてください》
ドアから聞こえてきた電子音に、ナナコと神楽はびっくりしてしまった。
音声機能がついているとは、思わなかったからだ。
神楽は、とびらにくいさがった。
「大事な用事よ。開けて」
《IDカードを入れてください》
「緊急事態」
《IDカードを入れてください》
「ポンコツAIね」
こういう対話型AIなら、どういうご用件ですか、とか、どのようなエマージェンシーですか、とか、気の利いた進め方をしてくれるはずだった。カードを入れてください一辺倒なところをみると、相当な旧式か、あるいはAIではない可能性もあった。単なる自動音声なのかもしれない。
ナナコは、
「やっぱり、カードを作るなんてムリなんじゃ……」
とつぶやいた。
神楽は、現状に思案した。
「ナナコさんが見たカードは、古いカードなのかも。『無効なカード』だから『新しいカード』を入れてくれって、さっき言ってたし」
とはいえ、その時間差がなぜ生じたのかまでは、判然としなかった。
神楽のカウンセリングは、いきなり暗礁に乗りあげてしまった。
タメ息をついて、天井を見あげた。
「ほかに出口は……ん?」
神楽は、天井の真ん中に視線をむけた。
ふたつの蛍光灯にはさまれて、円盤状の突起物が、顔をのぞかせていた。
神楽は、つま先立ちになって、その物体をよくよく観察してみた。
プラスチック製のようにみえたが、正確な材料はわからなかった。
穴が四隅に空いている。小さな緑色のランプが、中央についていた。
ナナコは、
「火災報知機じゃないですか?」
と指摘した。神楽も、その説に同意した。
この空間で考えられるものとすれば、なにかのセンサーにちがいなかった。
神楽はパチリとゆびを鳴らして、かかとをおろした。
「ナナコさん、タバコを出して。それにライター……じゃなくて、マッチ」
「はい?」
唐突な頼みごとに、ナナコはすっとんきょうな声をあげた。
「あ、私が吸いたいわけじゃないから」
ナナコは、神楽のアイデアを察した。
両手をお椀のかたちに組むと、目を閉じて神経を集中させた。
「タバコですよね……タバコ……」
ナナコはくちびるをかたくむすび、スッと息を止めた。すると、手のひらのうえに、うっすらと紙巻きのタバコがあらわれ、次第に存在が濃くなった。ニコチンの香りが、神楽の鼻孔にただようまで、ものの五分とはかからなかった。
神楽は、タバコをつまみあげた。底から、タバコの葉がこぼれおちた。フィルターがついていなかった。ナナコはタバコの構造について、すこしばかり知識がなかったのだ。しかし、神楽もタバコは吸ったことがなかったから、そのまちがいには気づかなかった。
「じゃ、こんどはマッチをお願い」
「はい」
マッチのほうは、タバコよりもさらに簡単だった。マッチ箱が出て来たかと思うと、ナナコは気を利かせて、ガラス製の灰皿も夢現化させた。神楽が言い忘れていた品だった。これがなければ、火の点いたタバコを、素手で持つことになってしまうところだった。
「じゃ、試してみましょ」
神楽は灰皿にタバコを入れて、火の点いたマッチを放り込んだ。
煙が立ち上がったのと同時に、灰皿を天井へとかざした。
ピーッ!
鋭い電子音が鳴り、警報が鳴った。
「よしッ!」
その瞬間、円盤から大量の水が噴き出し、神楽の顔面をおそった。
神楽は悲鳴を上げて、灰皿を取り落とした。重たいガラスが、彼女のひたいを直撃した。
「か、神楽さん!」
「イタタタ……」
神楽はひたいを押さえながら、その場にかがみこんだ。
頭がズキズキする。
そんななかで、事態は一方的に進展した。
《火災警報、室内から退避してください》
とびらが自動的にひらいた。
白い壁のろうかが、その奥にあらわれた。
「オッケー」
「や、やりましたねッ!」
神楽とナナコは、駆け足で部屋を飛び出した。