守人と狩人と
コンコンコン
そのせっかちなノックの仕方に、神楽は聞きおぼえがあった。
「……泰人?」
ドアの向こうから、少年っぽい返事があった。
神楽は、入室を許可した。
ドアノブがまわる。
「神楽先輩ばんは~」
ドアの向こうに現れたのは、快活そうな少年だった。
栗色の髪をなびかせながら、ぴょんと部屋の中へ飛び込んできた。
「神楽先輩、さっきのメール……!?」
泰人と呼ばれた少年は、パッと口元に手をやった。
「し、仕事中に失礼しました」
泰人はくるりと背をむけた。
神楽はあわててひきとめた。
「ちょうどいいわ。手伝いなさい」
泰人は、首だけ神楽のほうへむけた。
「……こんな時間に、ですか?」
泰人は、半信半疑の表情だった。
クライアントの少女へ視線を移す。
「えっと……俺の名前は泰人です。君は?」
「わ、私は……」
黒髪の少女は、言葉につまった。
泰人はけげんそうに、少女の顔を見つめた。
神楽は、この場の状況を説明した。
「彼女、記憶がないらしいの」
「記憶がない? ……記憶喪失ですか?」
状況を把握した泰人は、少女に同情的なまなざしを送った。
それから、はげますような笑顔を見せた。
「神楽先輩が、なんとかしてくれますよ」
「こらこら、人の仕事を、勝手に請け合わないでちょうだい」
「いやいや、神楽先輩は、一流の夢カウンセラーですからね」
泰人のからかうような口調に、神楽は嘆息した。
一方、泰人は、一転して深刻そうな顔になり、
「んー、名前がないのは不便ですね……ナナコさんでいいですか?」
と提案した。
神楽は眉をよせた。
「ナナコ……ちゃん?」
「名前がないと不便ですよね。名無しのナナコさんってのは、どうです?」
泰人は、初対面の人間に、あだ名を付けてしまった。あきれるやらおかしいやらで、神楽だけでなく黒髪の少女、もといナナコも釣られて笑ってしまった。
「あれ……俺のネーミングセンス、良くなかった?」
泰人は、見当ちがいなところを心配した。
ナナコは笑いをこらえながら答えた。
「いえ、素敵なアイデアです。では、しばらくのあいだ、ナナコでお願いします」
泰人のペースに乗せられて、場の雰囲気が塗り替えられていく。それまでの猜疑心に満ちた空気は、嘘のように晴れ渡った。神楽は、泰人の登場に、心の中で感謝した。
逆木泰人。一八歳。高校三年生で、昨年の国家試験に合格したばかりの、研修生だった。日本では、独立するまで、三年の実務研修が課せられている。実務研修とは、先輩の能力者の事務所で働き、経験を積むことだ。泰人はひょんなことから、開業したばかりの憧夢で助手をつとめていた。
「ところで神楽先輩、さっきのマイン読みました?」
「仕事中は電源オフに決まってるでしょ。目が覚めたらどうするの」
「せっかく美味しいケーキ屋さんを教えてあげたのになぁ」
泰人は、すねたようにスマホを取り出すと、着信を確認し始めた。
画面をスクロールしながら、思い出したように口をひらいた。
「そういえば、ビルの前に停まってる車、ナナコさんのですか?」
神楽は、いぶかし気に少女を見やった。
「連れがいるのですか?」
「い、いえ」
少女は首をふった。
神楽は窓ぎわに歩みより、カーテンのすきまから路地を見下ろした。
黒塗りの車が停めてあった。近所では見たことのない車種だった。
「ナナコさん……あなた、だれかに追われていませんか?」
追われているという言葉に、ナナコは身震いした。
「わ、わかりません……ただ、だれかに見られているような気は……」
ナナコが無意識に感じていた恐怖のみなもとを、神楽は理解した。
気を引き締めなおして、泰人に声をかけた。
「泰人、乗ってたのは、どんな奴?」
スマホをいじっていた泰人も、さすがにその手をとめた。
「……サングラスの男がふたりと、女の子がひとり」
三人は、退室の準備を始めた。
神楽はスポーツシューズに履きかえて、薄手のカーディガンを羽織った。
濃紺のリュックを背負い、ナナコに歩み寄った。
「急いでここを出ますよ、お姫様」
事情を飲み込めないナナコを連れて、神楽たちは部屋をあとにした。ろうかを左に曲がり、なるべく音を立てないようにしながら、薄暗い夜光灯の下を進んで行った。
「あ、あの、これは一体……?」
「それはあとで説明するわ……っと、説明します」
「け、敬語でなくてもいいです」
ナナコの提案に、神楽は片方の眉毛を上げて、にやりと笑った。
「じゃ、そうさせてもらうわね。ちょっと堅苦しかったし」
「神楽先輩、裏口はあっちですよ?」
一番後ろを歩いていた泰人が、背中越しに注意した。
だが、神楽は進路を変えなかった。
「裏口は危険よ。先回りされてる可能性がある。非常口を使いましょう」
「了解」
ふたりの謎めいた会話に、ナナコは大人しく従った。
神楽を先頭に、三人は階段をあがった。突き当たりの窓辺で、歩を止めた。
そこからは、となりのビルのベランダが見えた。
神楽は音を立てないように、そろりと窓を開けた。
春風が舞い込む。どこかしら、都会の匂いがした。
「ま、まさかここを……?」
ナナコの表情がこわばった。
「となりのベランダまで、五十センチくらいしかないでしょ? ビルのオーナーが、建築法違反なの。ちょっとした非常口として使わせてもらってる」
神楽は泰人の荷物をあずかって、ひとまとめにすると、ぽんとじぶんの腰をたたいた。
「よし、泰人が先行して」
「え、俺からですか?」
「ナナコさんにお手本を見せてちょうだい」
泰人は窓の敷居をまたぎ、そのまま隣のベランダに飛び移った。
「次はナナコさんね」
いきなり指名を受けたナナコは、びくりと肩をすくめた。
「わ、私は……」
「心配しないで。うしろで支えるから。水たまりを飛び越えるような感じで。ここは四階だから、下は見ないほうがいいわね」
神楽の気軽なアドバイスにも、ナナコは体を動かさない。決心がつかないようだ。
「ほら、早くしないと、連中が来ちゃうわよ?」
少々脅迫じみた手法だが、神楽の思惑通り、ナナコは窓枠に手をかけた。慎重に壁をまたぎ、ミリ単位のじれったい動きで、ベランダに足を伸ばした。
神楽も泰人も、ナナコの集中力を乱さぬよう、口をかたく閉じていた。
ナナコの爪先がベランダの端に触れたところで、泰人が両手を差し出した。すると、辛抱が利かなくなったのか、ナナコはそのまま、泰人の腕のなかへとダイブした。
思わずバランスを崩しそうになる泰人だったが、なんとか全身でキャッチした。
一瞬ヒヤリとした神楽は、そででひたいをぬぐった。
「じゃ、荷物を受け取って」
神楽は泰人に、荷物を放り投げた。
腕まくりをして、あっさりベランダに飛び移った。
荷物をうけとりながら、
「車の手配は?」
と泰人にたずねた。
泰人は、済ませました、と答えたあと、
「まだちょっと早いかもしれないです。いつものコンビニですけど、あそこは隠れる場所がないです」
とつけくわえた。
神楽は腕時計で、時間を確認した。
部屋を出てから、一〇分ほどが経過していた。
「ちょっとばかり、事務所の様子を見てみますか……」
神楽はポケットからスマホをとりだした。アプリを立ち上げると、憧夢の映像が映った。部屋のすみに仕掛けてある監視カメラだった。
「……あら、お客さんね」
ななめうえから見下ろすアングルに、サングラスをかけた体格のよい男が映り込んだ。スキンヘッドで、黒いスーツを着ていたが、着こなしはラフだった。
男は室内を一瞥したあと、おもむろに事務机のうえをあさった。
すると、液晶のむこうから、冷たい少女の声が聞こえた。
《どうやら、取り逃がしたようですね》
姿は見えなかった。
男は家探しを中断して、入り口のほうへ頭をさげた。
《もうしわけございません、ルナ様》
《かまいません。私の指示が少し遅かったようです》
ルナと呼ばれた少女が、カメラの中央に現れた。中性的な顔立ちをした、色素の薄い少女。その眼には、冷たいかがやきがひそんでいた。
それを見た神楽は、チッと舌打ちをした。
「やっぱり……忘れ屋ね」
ナナコは画面をのぞきこみながら「忘れ屋?」とたずねた。
「記憶の抹消と改変を仕事にしている連中のことよ。政治家のスキャンダルを揉み消したり、殺人事件の証人の記憶を改竄したり……そういう闇の部分を請け負う組織。私たちが結婚コンサルタントだとすれば、連中は離婚屋みたいなもの。お互い対極にいるけど、どちらにも需要があるってわけ」
神楽が説明をしているあいだ、ルナは画面の中で部下たちの作業を単調に眺めていた。その冷静さは、むしろ神楽のほうが不審に思うほどだった。
なぜ追って来ないのだろう。そんな疑念が、神楽の脳裏をよぎった。
《あせることはありません。すべては、こちらの手の内なのですから》
そうつぶやくが早いか、ルナはカメラへ視線を上げた。
「チッ、気づかれたか……ずらかりましょ」
神楽はスマホをポケットに突っ込むと、ベランダから伸びている非常階段を駆け下りた。それは、憧夢のあったビルとは反対側の、人通りの多い複線道路に続いていた。
「あの車です!」
泰人が、右手にあるコンビニの駐車場をゆびさした。
赤いカローラが一台停まっていた。
神楽たちは駆け足でその車に向かい、スマートキーで開けた。
「泰人、ナナコさん、早く乗って」
運転席に神楽、後部座席にナナコと泰人を乗せると、ドアが閉まった。
神楽はスムーズに道路へ出ると、首都高への道を選んだ。
テールランプの洪水。道はすべて、神楽の頭に入っていた。ナビは不要だった。とちゅうで横道に逸れると、車は渋滞から抜け出し、高速のインターチェンジへたどりついた。
ETCシステムを抜けたところで、神楽はサイドミラーに目をやった。
追われている気配はなかった。
「それじゃ、続きを始めましょう」
神楽はそう言うと、運転席からナナコに話しかけた。
「ナナコさん、さっきの話を、泰人にも聞かせてあげてくれない?」
「は、はい……」
ナナコはここまでの話をくりかえした。
すべてを話し終えたところで、泰人はパッと顔をかがやかせた。
「ナナコさんの前世は、かぐや姫なんだね」
「え……あの、そういうわけでは……」
「泰人、クライアントの話は、もっと分析的に聞かなきゃだけよ。話を額面通りに受け取るのが、泰人の悪いくせね」
運転席から、神楽が注意した。
泰人は反省するどころか、両腕を後頭部にまわして、ふんぞりかえった。
「先輩は夢がないですね~」
「なくてけっこう……っと、そろそろ始めましょう」
神楽はそう言うと、ハンドルから左手をはなし、後部座席へ伸ばした。
ナナコは神楽の華奢な指を、しげしげと見つめた。
「私の手にふれてみてちょうだい」
「はい?」
「ふれてみて」
ナナコは、こわごわと手を伸ばして、神楽の指先にふれた。
「目を閉じて」
言われた通り、ナナコは目を閉じた。
すると、真っ暗なはずの視界に、だんだんと映像がゆらぎ始めた。
それはかたちを変えて、先ほどの憧夢の姿をとった。
「!?」
ナナコは思わず、目を開けてしまった。
見れば、そこは車のなかだった。
「なにか見えた?」
「は、はい……神楽さんのお店が……」
「これが共眠者の能力よ。夢を通じて、他人の記憶に介入することができるの」
「他人の記憶に……介入……?」
ナナコの反応を、神楽はあらかじめ予想していた。初めて思い出のカウンセリングにおとずれる人間は、戸惑いと恐怖心を垣間見せる。記憶をまさぐるという作業に、言い知れぬ不安を感じるのだ。それは、能力者たちの存在が社会に認知され、国家資格となった現在でも、変わることはなかった。
神楽は先を急がず、ナナコの目を、おだやかに見つめ返した。
「記憶を調べると言っても、あなたの頭をいじくるわけじゃない。私たちは、脳波を同調させることによって、同じ意識領域を形成することができるの。以心伝心ってやつ」
「以心伝心……」
ナナコのオウム返しに、神楽はほほえんだ。
「ナナコさんは、精神分析のシーンを見たことがある? 患者をベッドに寝かせて、催眠状態に誘うアレ。その現代版と思ってもらえればいいわ」
神楽は右手を引っ込めた。
「それじゃ、続きは私のマンションで」
神楽はそう言うと、インターチェンジへむけて、ハンドルを切った。
神楽のマンションには、すぐに到着した。駐車場に車をとめ、エントランスから入ると、エレベータで階をあがった。通路の一番端で、東向きの部屋だった。
玄関をあけると、白を基調とした空間がひろがった。3LDKで、ひとつは寝室、ひとつは神楽の生活部屋、もうひとつは夢療法士としての事務室兼倉庫になっていた。神楽はナナコと泰人のふたりを、オープンキッチンのあるリビングへ案内した。ふたりがけのソファーが、大理石のテーブルをあいだに挟んで向かい合っていた。
神楽はナナコをソファーに座らせ、泰人にはキッチンテーブルの椅子をあてがった。
神楽自身は、ナナコの右どなりに座った。
「じゃ、ナナコさん、さっきと同じように目を閉じて」
ナナコは目を閉じた。
背中を座席のシートにゆだねて、両手をひざのうえでそろえた。
神楽は、ナナコの肌に触れた。
シルクのようなすべすべとした感触が、彼女の触覚をくすぐった。
神楽は泰人に、
「一時間以内にもどるから。外部サポートをお願い」
と指示を出した。
「了解です」
神楽は目を閉じた。
ナナコが先にがくりと首を垂れ、すぐに神楽も入眠状態におちいった。
記憶の世界に旅立ったふたりを見送りながら、泰人は治療の成功を祈った。