月へ行く少女
視界がひらける。
闇におおわれたブラインドから、かすかに夜景が見えた。
神楽は、博物館に帰ってきた。室内は、潜入のまえと同じ風景。神楽は、出発のときと同じソファーに腰をおろしていた。ひとつちがうとすれば、気絶したルナが、金髪男とスキンヘッドに囲まれ、介抱されていることくらいだろうか。いくら敵とは言え、記憶障害になっていなければよいがと、神楽は心配になった。
「お目覚めかね……神楽くん……」
男の声。
神楽は大きく深呼吸し、車椅子の男と対峙した。
「西条静、あなたの負けよ。すべてカタがついたわ」
西条にむかって、神楽はこれまでの経緯を説明した。背後にひかえていた泰人も、注意深く彼女の冒険譚に聞き入っていた。しばらくしてナナコも目を覚まし、そこで神楽は話を終えた。
「というわけで、月代かぐやさんは、独立した一個の人格よ。あきらめなさい」
少女の宣告に、西条は表情を変えなかった。
「あきらめる……? これは私の生涯を賭けた……」
「西条静」
そう言って立ち上がったのは、ナナコだった。
彼女は西条の目を見つめ、性格が変わったように話し始めた。
「強がりはやめなさい。あなたにはもう、時間が残されていません」
ナナコのセリフを聞いて、神楽と泰人は、おたがいに視線をかわした。
いったい、なんの時間が残されていないというのだろうか。
神楽がそれをたずねるよりも早く、西条のほうが口をひらいた。
「どこでそれを知った……?」
「研究所で、あなたと医師の会話を聞きました。私の記憶を入れ替えるよりも先に、あなたの寿命が尽きます。そうですね?」
ナナコの断言に、神楽は腰を浮かせた。
「どういうこと?」
「西条静は、末期ガンなのです。私が誕生して記憶を移植されたとき、余命はすでに一ヶ月を切ろうとしていました。そもそも、彼の研究は完成していなかったのです。西条かぐやの記憶が暴走したのも、移植をあせったからに他なりません」
あばかれた病人の秘密に、室内は静まり返った。
忘れ屋のメンバーも、この情報は聞かされていなかったらしい。
ふたりの黒服は、サングラスの奥から、クライアントのようすをうかがっていた。
西条は、静寂をやぶった。
「時間がなかった……もはや研究を完成させる時間は……ゴホッ!」
西条静は大きくせきこみ、はげしく体をふるわせた。
金髪男が、駆け寄ろうとした。けれども、西条はそれをこばんだ。
ようやくせきがおさまり、西条はゆっくりと語り始めた。
「科学が進歩し、医療が発展したにもかかわらず、人間の生命は有限だ……なぜだ? なぜ人間は死なねばならん……? 宇宙の構造を解明し、生命の神秘をあばきだした人間は、神々と同等の存在ではないのか……? だから私は、この研究をおこなった……」
神楽は、
「クローンに記憶を移植して、永遠に生き続ける技術……ってこと?」
とたずねた。
西条は、深くうなずきかえした。
確信に満ちた男に、神楽は疑問をなげかけた。
「なぜあなたは、自分自身で実験しなかったの? 死ぬことが確定してるなら、万が一の可能性に賭ければよかったじゃない?」
「……」
西条は答えなかった。
「なぜ答えないの? 男ではうまくいかないとか、そういう縛りでもあるのかしら?」
沈黙。
気まずい空気が流れるなかで、西条は上半身を、ルナたちにむけた。
「きみたちはもういい……帰りたまえ……」
「は?」
金髪男は、事情を飲み込めない顔で、うわずった返事をした。
「帰りたまえ。きみたちの任務は失敗した……ここまで人格が確立されては、もはや現在の研究成果ではどうしようもない……クローンをイチから作りなおす時間もないのだ……」
金髪男とスキンヘッドは、両脇からルナをかかえ、部屋を出て行った。
とびらを閉めかけたところで、金髪男がふりかえった。
「ご期待にそえず、もうしわけございません、のちほど返金を……」
「その必要はない」
ルナをかかえたまま、金髪男は、西条の顔をのぞきこんだ。
「しかし、ご依頼は西条かぐやの……」
「余命いくばくもない男に、金を返してどうする?」
金髪男は押し黙って一礼し、ドアノブをにぎりしめた。
そこへ、西条が言葉を継いだ。
「そのルナという少女……おもしろい逸材だ……今回の料金は、彼女の教育費と思ってくれたまえ……では……」
金髪男は、ルナと西条を見比べたあと、とびらを閉めた。
病弱の男と、若者三人だけが、室内に残された。
仕事を終えた神楽は、これからどうするか考えをめぐらせた。
「それじゃ、私と泰人の出番も終わりね……帰りましょう、泰人」
「え、あ、はい……な、ナナコさん……は?」
神楽は、ナナコへと顔をむけた。
「あなたはどうするの?」
「とりあえず、身寄りをさがします。すこしはアテがあります」
まるで他人事のようだが、ナナコは真剣な顔をしている。よくよく考えてみれば、彼女は日本の戸籍には載っていない存在なのだ。住所もない。身内もいない。けれども、ナナコの声には、確固とした意志が感じられた。これからはじぶんで生きていくのだ、という意志が。
三人は西条を盗み見て、それから部屋を出て行こうとした。
「待ちたまえ」
西条の声に、三人はふりむいた。
「……どうしたの? まだ何か用?」
「神楽くん、ひとつ頼みがある……」
「頼み?」
神楽はけげんそうに、車椅子の男をみすえた。
「月代さんに関することなら、お断りするわ」
「私の思い出に関することだ……」
その言葉に、神楽は目を細めた。
敵が依頼人になることに、少女は若干の考慮時間を要した。
「カウンセリングをしたい、と?」
西条はうなずいた。
神楽は泰人に視線を送って、ナナコの保護を指示した。
「罠じゃないでしょうね?」
「もはやかぐやに用はない……彼女は、私の妻ではないのだからな……彼女は、もはや赤の他人だ……」
赤の他人。その言葉を、西条はじぶんに言い聞かせるようにつぶやいた。
「そう……それなら、クライアントとして用件をおっしゃってください」
「私を、思い出のなかで死なせて欲しい」
西条の依頼に、神楽は眉をひそめた。
単刀直入に、西条の真意を問うた。
「自殺を手伝えと? それはできま……」
「私はもう長くない……末期医療を受ける気もないのでな……だから最後に、かぐやとの思い出を見せて欲しい……頼む……」
「死なせて欲しいというのは、比喩ですか?」
西条はしばらく口をつぐみ、それからあいまいにうなずいた。
神楽は不審に思った。
だが、思い出のなかで自殺したところで、それは潜入の中断になるだけだ。
夢のなかで、ほんとうに生命を断つことはできない。
そう考えた神楽は、きびすを返した。
「わかりました。クライアントとしての依頼なら、お引き受けしましょう」
「せ、先輩……」
「泰人、安心して。私がひとりで行くから」
「でも、あいつは敵なんですよ?」
「夢療法士として依頼を受けた以上、彼との個人的因縁は関係ない」
泰人は納得したのか、それとも反論が無意味だと考えたのか、口を閉ざした。
神楽は、
「西条さん、料金はきちんと払っていただきますよ?」
と、事務的なセリフを述べた。
「ああ、わかっている……憧夢宛に支払おう……」
神楽は男のそばにあるソファーへ腰をおろすと、右手をさしだした。
西条にはもはや余力が残されていないのか、緩慢とその手にふれた。
「目を閉じてください」
「……」
西条がまぶたを下ろし、神楽もそれに続いた。
西条の息が引くのに合わせて、神楽の視界がにじんだ。
☽
心が冷えるような静寂。
神楽は、ゆっくりとまぶたを上げる。
「……ここは?」
神楽は、おどろきのあまり周囲を見回した。
自分の居場所がわからなかった。
夜のように見えて、遠くからはまばゆい太陽の光が射していた。
真っ暗な空間に、青い星が浮かんでいた。
白い雲の流れと、その背後に見える緑が、神楽にじぶんの居場所を教えてくれた。
「ここは……月? なぜ? 西条静の思い出なんじゃ……」
狼狽する神楽に、男の声がかかった。
「安心したまえ」
神楽はハッとなり、声の主をさがした。
見れば、車椅子に乗った西条静が、なつかしそうに地球をながめている。
その目は、なにもかも捨て去った、静かな男の目だった。
「どういうこと? あなたは、月へ行ったことがあるの?」
「ここは、宇宙開発センターの訓練室だ」
「訓練室……? もしかして……これもホログラム?」
神楽は、目のまえの光景を見つめた。
たしかに、画質が荒い。
呼吸は可能であり、気温も快適な温度にたもたれていた。
落ち着きをとりもどした神楽は、訓練室という単語に、心当たりがあった。
「ってことは、十二年前の?」
「そうだ……ここが、彼女の墓場になった……」
男はそう言って、ひとみを閉じた。
神楽は一歩下がり、男を思い出にひたらせた。
神楽は潜入前に、もっとべつの思い出を予想していた。ふたりの馴れ初めか、結婚式か、あるいは新婚旅行か──妻が死んだ場所への潜入など、みじんも考えてはいなかった。その理由を察するには、神楽はまだあまりにも若く、あまりにも無垢であった。
神楽は考えることを止め、目の前のスクリーンに目を投じた。美しい。宇宙から見る地球は、なぜこれほどまでに美しいのだろうか。月代かぐやもまた、この美しさに憧れ、宇宙飛行士を目指したに違いない。少女は、ふとそう思う。
同時に彼女は、かぐらが初めて憧夢を訪れたときを思い出す。あのときナナコは、月から地球を見下ろす記憶があると言った。おそらくあれは、このホログラム映像のことだったのだろう。すべての謎が解け、あとには心地よい空虚感だけが残った。
「……」
神楽は地球の青さに見蕩れていた。
ふいに、背後でとびらのひらく音がした。
一筋の明かりがもれいった。
神楽と西条静のあいだに、人影がさした。
ふりかえった神楽は、一瞬息をのんだ。
「あなた、こんなところにいたのね」
ホログラムの裂け目に現れた女。それは、月代かぐやだった。ただ、その顔立ちは大人びており、彼女が思い出の中の妻だとわかるのに、数秒とかからなかった。
「かぐやか……」
西条静は、車椅子を動かすこともなく、そばに来た妻とよりそいあった。
「どうしたの? こんな映像、何度も見てるじゃない?」
女はあきれたように、そうたずねた。
「すこしばかり……なつかしくなってな……」
「昨日今日がなつかしいって言うの? おかしな人ね」
妻の笑い声に、西条もつれられて笑った。
「出発まで三ヶ月を切ったわ。頑張らなくちゃ」
妻は、じぶんをはげますように、そう言った。
神楽の心に、小さな針が刺さる。
永遠にかなわない夢が、そこにあった。
「ああ……行けるといいな……月へ……」
「あら、留守番だから妬いてるの? だいじょうぶよ、月の石をお土産にしてあげる」
「そうか……月の石か……楽しみにしてるよ……」
「期待しててちょうだい。それにあの話、考えてくれた?」
妻の問いに、夫は答えなかった。
昔話をされたように、そのひとみを見つめ返した。
「ひどいわね。忘れちゃったの? 子供の話よ。そろそろひとりくらい欲しいじゃない?」
妻はすねたように、言葉を返した。
「ああ、子供か……」
西条は、ふたたび地球へと視線をむけた。
星の青い夜。すべての時がめぐり、悲劇はくりかえす。そして愛もまた。
西条はしばらくそれを眺めたあと、神楽に声をかけた。
「神楽くん、あの子を……娘を……頼んだ……」
☽
気がつけば、そこは応接間だった。
神楽は、じぶんの身になにが起こったのか、理解できなかった。
潜入が勝手に終わってしまったのだ。
「先輩、どうでした?」
泰人の心配そうな声が、反対側のソファーから聞こえてきた。
そのとなりには、ナナコが足をそろえて座っていた。
神楽は腰をあげて、室内をみまわした。
「ち、ちがう。私は同調をやめていない……!」
神楽は、車椅子の男に目をとめる。ようすがおかしかった。
男の肩にふれると、その体は力なく崩れ落ちた。
彼の幸福そうな笑みだけが、神楽に、あの地球の光景を想起させた。
「死んでる……」
「ええ!?」
泰人もあわてて腰をあげ、西条の息をたしかめた。
「……呼吸してないですよ! きゅ、救急車!」
泰人は、風のように部屋を駆け出した。
神楽は、スマホを確認した。
電波は立っていない。窓を開けようとしたが、完全なはめ込み式だった。
「どうして……? 夢のなかで、自殺はできないはず……」
死体と向き合った神楽は、車椅子のまわりをしらべた。
血痕は見当たらない。あらかじめ毒物を飲んでいたのだろうか。
しかし、嘔吐した形跡も見当たらないし、そのようなシーンを見たおぼえもなかった。
自然死だろうか。そのとき、神楽はそのカラクリを察した。
「そうか……脳腫瘍だったんだわ」
「え?」
そばで固まっていたかぐらは、神楽の横顔を見つめた。
「西条静は、脳腫瘍だったのよ。あるいは、ほかのガンが脳に転移したのか……ともかく、脳が著しく損傷を受けていた。潜入の負荷で、脳の機能が停止したんだわ。彼は、じぶんの記憶を移植しなかったんじゃない……移植できなかったのよ」
神楽の推論に、ナナコは、おのれの創造者をまなざした。
神になろうとした男。
その寝顔は安らかであり、そして、父の顔であった。