2人のクライアント
神楽は、片桐老人と別れた。
階段をおりて、一階へと向かう。
正面玄関にたどりついたところで、神楽たちは、じぶんの眼をうたがった。
外側から、シャッターがおりていたのだ。
神楽はおどろいて、受付に視線をむけた。
しかし、だれもいなかった。
「……出るのが遅過ぎた?」
神楽のひとりごとに、泰人は、
「アナウンスがあってから、こんなに早く閉まります?」
と、けげんそうだった。
大方、館内に客はいないと判断され、早めに閉めてしまったのだろう。
そう考えた神楽は、緊急用のインターフォンをさがした。
いくら閉館とは言え、無人ということはありえない。警備員はいるはずだ。
神楽は、玄関の自働ドアの近くに、赤いインターフォンを見つけた。
非常用と書かれた注書きが読み取れた。
すぐに通話ボタンを押した。
「もしもし?」
《……》
「すみません、だれかいませんか?」
《……》
「もしもーし? 館内に人が残ってるんですけど?」
《……》
神楽は舌打ちした。
通話ボタンから指をはなす。
「まいったわね。つながらない」
「外部に電話したらどうですか?」
しかたがない、と神楽は思った。
インターフォンには、緊急用の電話番号も書かれていた。
神楽はスマホをとりだして、その番号にかけた。
奇妙な発信音が鳴ったかと思うと、ツーツーという音に変わった。
神楽は、画面に目をやった。電波が立っていなかった。
ありえない、と思った。都内ではないとはいえ、周囲は比較的都会なのだ。
スマホをゆすってみたりしたが、反応はなかった。
「先輩、どうしたんですか?」
「電波がない」
「え?」
泰人もスマホをだして、電波の状況を確認した。
「あれ、俺のもゼロ本ですね」
どういうことなのかと、神楽は周囲をみまわした。
おかしい。なにかがおかしい。
「……片桐さんをさがしましょう。まだいるはず」
そのときだった。右手の通路奥から、足音が聞こえてきた。
警備員か、スタッフか。神楽は安堵した。
非常灯で照らされただけの、薄暗いろうか。
その奥に、神楽は視線をこらした。
「……な」
声にならない声。
神楽は、目のまえの光景が、信じられなかった。
黒づくめにネクタイを締めた、サングラスの男、二人組。
ひとりは金髪で、もうひとりはスキンヘッド。
スキンヘッドの男は、初対面ではなかった──ルナの部下だ。
憧夢の監視カメラに映っていた男だった。
うしろで、泰人も声をあげた。
一番おびえているのは、ナナコだった。泰人のうしろにかくれて、今にも逃げ出しそうだった。
そんなふたりをかばうように、神楽はまえに出た。思考をフル回転させる。闇雲に逃げ回ってみるか。そうすれば、非常ベルのひとつも見つかって、警報を鳴らすことができるかもしれない。問題は、この屈強な男たちの追跡から、どれだけ逃げ切れるのか、ということだった。
神楽が決めあぐねていると、金髪の男が、口をひらいた。
「一色神楽さんですね?」
神楽はとまどった。
あいてが名前を知っていたことに、ではない。憧夢に来たのだから、そこのスタッフの名前くらいは、当然に調べてあるだろう。彼女がおどろいたのは、「さん」づけで呼ばれたことだった。男のものごしは、予想に反して、ていねいだった。
神楽は、平静をよそおった。
「そうですが……なにか御用でも?」
「お手数ですが、我々とご同行いただけませんでしょうか。もちろん……」
金髪の男は、ナナコたちに視線をむけた。
「逆木さんと、あの少女もいっしょに」
男の申し出に、敵意は感じられなかった。
しかし、理由がわからぬ以上、おいそれとは乗れなかった。
神楽はようすをうかがった。
「理由を説明してもらえませんか?」
「あるかたと、お会いしていただきたいのです」
「あるかた? ……ルナさんのことですか?」
金髪の男は、否定も肯定もしなかった。
「会ってどうするんです? これまでのことについて、謝罪すると?」
皮肉っぽくなってしまった。神楽は、男の答えを待った。
しかし、ふたりのうちどちらも、口をひらこうとはしなかった。
サングラスの奥は見えないが、神楽の出方をうかがっているようだ。
「あなたたち、忘れ屋ですよね? 違いますか?」
「……そういう風に、我々を呼ぶひともいます。ご同行願えますか?」
「私たちに会いたがってるひとも、忘れ屋ですか?」
ムダな質問をしているわけではなかった。
だれかが通りかかってくれるのを待っているのだ。
けれども、助けは来そうになかった。
神楽は、イヤな予感がした。
シャッターが早く閉まったのも、係員がいなくなったのも、通話ができなくなったのも、目のまえの男たちのしわざではないだろうか。だとすれば、男たちの準備は、周到なものにちがいない。助けは来ないのかもしれない。
緊張が走る。
先に動いたのは、金髪の男だった。
「お会いしていただきたいのは……我々のクライアントです」
「クライアント?」
神楽は声がかすれた。
信じられない。それが彼女の第一印象だった。仕事の性質上、忘れ屋のクライアントたちは、非合法な領域に手を染めている。したがって、クライアントが素性を明かすことは、ありえないのだ。
敵もおかしな事態におちいっている。神楽は、そう判断した。
「そちらのクライアントは、どこにいるんですか?」
「この博物館の応接室です。ご案内いたします」
男たちは、神楽が了承したと思ったのか、階段へと足をはこんだ。
神楽は、背後の泰人たちへふりむいた。
泰人は覚悟を決めたまなざしで、うなずきかえした。
一方、ナナコは決心がつかないようだった。
胸もとで手をあわせて、神楽のひとみをみつめていた。
神楽は、
「ナナコさんが反対なら、私たちはできる限り抵抗する」
と、闘う意志があることを伝えた。
ナナコは、数秒ほど逡巡し、
「……いえ、行きましょう」
「ほんとうに、いいの?」
「あのひとたちは、どこまでも追いかけてくると思います。だったら、私の記憶に、ここで決着をつけます」
神楽はうなずいた。
目のまえのやりとりを見ていた金髪の男は、丁重な姿勢で、
「我々が危害を加えることはありません。さあ、こちらへ……」
と、階段をあがるようにうながした。
神楽たちは、最初の段に足をかけた。
スキンヘッドの男が、彼らをはさむように、うしろについた。
ナナコは、びくりと肩をすくめた。
スキンヘッドの男は、なるべく距離をとるように、一歩さがった。
(ほんとうに傷つけるつもりは、ないわけか……いったい、なにが起こってるの?)
神楽は、心のなかで、この問題ととりくんでいた。
黒服たちをおそったアクシデントとは、なんなのか。
彼らはなぜ、クライアントの正体を明かそうとしているのか。
謎は尽きなかった。
金髪の男は、二階から三階へと、連続であがっていった。
じゅうだん敷きのろうかがあらわれた。
その一番奥には、高級そうな木製のとびらがみえた。
金髪の男は、そのまえでたちどまった。
三度ノックをした。
「お嬢さまを、お連れいたしました」
お嬢さま? 神楽はその呼びかたに、神経をとがらせた。
なかから、くぐもった声が聞こえた。
入れと言ったのだろう。金髪の男は、ドアノブに手をかけて、それを引いた。
「失礼いたします」
金髪の男は、先に入室した。神楽は、そのあとに続いた。
応接間らしい調度品と、絵画に囲まれた部屋だった。
ところどころ、スペースシャトルや人工衛星の模型が置いてあった。
奥の窓には、ブラインドが下ろされていた。
最後の西日が、すきまから漏れ出ている。その西日を背にして、テーブルに腰をおろす男の姿があった。逆行で顔はよく見えなかった。ひどく猫背で、あごはやせこけ、両手のゆびは骨ばっていた。あきらかに、病人の気配があった。
金髪の男は、さらに一歩進んだ。
「お嬢さまを、お連れいたしました」
「……うむ」
男の声は、外見と同様に弱々しかった。
けれども、神楽が思っていたような、老人の声ではなかった。
男は顔をあげた。神楽の目を、まっすぐにみすえてきた。髪はほつれ、ほおぼねが浮き出ていた。けれども、そのひとみは、確固たる意志の強さをうかがわせた。どこかしら、知的な雰囲気も感じられた。
「きみが、一色神楽くんかね……?」
かろうじて聞き取れた質問に、神楽はうなずいた。
「はい……あなたは?」
「私かね……? きみがよく知っている人物だよ……」
奇怪な言い回しに、神楽は眉をひそめた。
しかしすぐさま、男の正体に思いいたった。
「西条静?」
少女に呼び捨てにされた西条静は、小気味よい笑いをたてた。
それは咳へと変わり、金髪の男が、あわててそばに駆け寄った。
西条は、その手助けを拒絶した。咳がおさまるまで、しばらく体をゆすっていた。
三十秒ほどしたところで、西条は肩で息をしながら、会話を再開した。
「失礼……時間がないものでね、本題に入ろう……」
本題──神楽はその内容に、おおよその見当をつけていた。
ナナコを渡せというのだろう。
ところがその予想は、あっさりと裏切られた。
「かぐやは、私のことを思い出したかね……?」
神楽は、予期していなかった質問に、一瞬思考が止まった。
かぐや──ナナコの本名は、ほんとうにかぐやなのだろうか。
答えのみつからないまま、神楽は返事をした。
「……いえ」
「……そうか」
西条は、さみしげに笑った。
神楽は、この黒幕から、できるかぎりの情報をあつめたいと思った。
「彼女のことを『かぐや』と呼んだのは、本名だからですか?」
「そうだ……」
潜入の結果と一致した。
TSUKISHIRO KAGUYAというネームプレートは、やはり本物だったのだ。
「なぜ、亡くなったパートナーとおなじ名前なんですか?」
その質問に、西条は答えなかった。代わりに両腕を、テーブルのしたで動かした。神楽の位置からでは、西条がなにをしているのか、把握できなかった。
銃器でもとりだすのだろうか。神楽が身構えていると、西条はすべるように、テーブルのうしろから移動した。そして、その全貌をあらわした。
西条は、車椅子に座っていた。
「ルナくん、きみの言った通りだな……」
老人は、ルナの名前を口にした。
神楽はハッとなって、室内を見回した。
いつのまにか、ルナは姿をあらわしていた。ちょうど右手のほう、大きな衣装棚のとなりに、ルナは立っていた。ルナは、両腕を背中で組み、背筋を伸ばして立っていた。神楽のおどろきになど目もくれず、西条に言葉をかえした。
「はい、お嬢さまの記憶は、まだもどっていません。しかしそれは、お嬢さまが家出をしたとき、一時的に記憶が混乱しただけのことです。より正確に言えば、記憶同士の衝突を感知した脳の……」
「ルナくん、それは釈迦に説法というものだよ」
西条は、子供に言い聞かせるような口調で、そうたしなめた。
「失礼しました」
ルナは姿勢を正したまま、口をつぐんだ。
西条は嘆息した。そして、ナナコへ顔を向けた。
ナナコは、西条の顔を、見ず知らずの他人のように見つめていた。
暗くなり始めた室内に、静寂がおとずれた。
夢療法士と、非合法の忘れ屋、そしてそれぞれのクライアントが一堂に会するという、異常な状況。
言葉を発するのを、だれもがためらっていた。
それをあえてやぶったのは、神楽だった。
「西条さん、用件はそれだけですか?」
西条は、じれったいほどにゆっくりと、顔をあげた。
そして、神楽の顔をのぞきこんだ。
「きみはすこし、気が短いようだな……」
「そういうお説教は、けっこうです。彼女の記憶がもどったかどうか、それを確認するためだけに、私たちを呼んだわけではないですよね?」
神楽の挑発に、西条は笑みを浮かべた。
浮き足立っているのは、どうやら神楽のほうらしい。
そのことに気付いた神楽は、すこしばかり気まずくなった。
「若いということか……うらやましいよ……さて、どうやらうしろの……逆木くんだったかな、彼もおつかれのようだ……そろそろ本題に入ろう……さきほどの質問は、そのための下調べだったのだから……」
西条は、車椅子の車輪を一回転させた。
神楽たちのほうへ、正面を向けた。
それを手伝おうとした金髪男の手を、西条はふりはらった。
金髪男がひかえなおしたところで、西条はかわいたくちびるを動かした。
「今から勝負をしてもらう……」
先ほどの質問も意外だったが、これは斜めうえだった。
神楽は眉間にしわをよせて、
「勝負? なんの勝負ですか?」
と、語気するどくたずねた。
「この面子を見て、わからんかね……?」
神楽はムッとくちびるをむすんで、ルナを盗み見た。
ルナは、あいかわらずの鉄面皮だった。まるで、傍観者のようだ。
しかし、彼女が当事者のひとりであることは、もはや明白だった。
「夢のなかで勝負をつける、と?」
「そうだ……かぐやのなかには、思い出されると困る記憶がある……きみたちは、それを揺り起こそうとしている……私のやとった忘れ屋が、その記憶を完全に消し去るか、それとも、きみたちが再生に成功するか……この場で決着をつけよう……」
その場にいたメンバーは、さまざまな反応をみせた。
ルナは無表情のまま、西条をみていた。
金髪とスキンヘッドの男たちは、商売上の都合か、無関心をよそおっていた。
泰人は、今にもかみつきそうな顔をしている。
ナナコは、西条の話ではなく、西条そのものに関心をよせていた。
この男はじぶんにとって、なんなのか、と。
そして、神楽はまた、べつの疑問と格闘していた。
「夢療法士と忘れ屋は、紳士的に勝負しなければならない……なんて、法律やガイドラインで決まっているわけではありません。なぜ正面から勝負を?」
西条は、とぎれとぎれの声で、ゆっくりと説明した。
少女に不都合な記憶が存在する。最初に気づいたとき、彼はべつの忘れ屋をやとった。
ところが、その忘れ屋は失敗し、そのあとも幾人かが脱落した。
そこで登場してきたのが、ルナだった。完全同調者が存在するといううわさは、西条も聞き及んでいた。最初は疑っていたものの、記憶の一部の改ざんに成功し、信頼することになった。そして、残りの全タスクを、ルナに依頼した。
「そこまではよかった……だが、かぐらは逃げ出し、きみたちの事務所で見つかったときは、記憶喪失になっていた……もしきみたちが記憶の再生に失敗するならば、それはそれでかまわなかったのだが……」
「私たちは、記憶の一部を再生した。だから、攻撃に出たわけですね?」
西条はうなずいた。
そのしぐさには、深い後悔の念が宿っていた。
「さらに、もうひとつの問題が生じた……きみたちの仕事で、かぐらの記憶の構造は、私たちが把握しているデータとズレてしまった……きみたちの同伴がなければ、イチからやりなおしになってしまう……それには時間がない……」
時間がない理由を、西条は語らなかった。
だが、神楽はおおよその見当をつけていた──余命がないのだ。
目のまえの男は、あきらかに、深く病んでいた。
「わかりました。まとめると、私たちのクライアントの記憶は、私たちの手で部分的にアンロックされた。だから、次回の潜入では、私たちのほうが深くもぐれる。だから、ルナと同伴しろ、と?」
「そうだ……夢の最深部に、不都合な記憶がある……」
「私がそれを先に見つけて、アンロックしてしまった場合は?」
「きみがそれをアンロックしたくなれば、の話だな……」
神楽は、眉間にしわをよせた。
「どういう意味ですか?」
「その記憶にたどりついたとき、わかることだ……」
神楽は沈黙した。
不都合な記憶の正体を、西条は語らない。
そのこと自体には、なんのおかしな点もなかった。
抹消したい記憶の内容を、第三者にしゃべる必要はないからだ。
しかし、さきほどの西条の言い回しには、妙なところがあった。
「……これが罠という可能性は?」
「もちろん、その可能性はある……」
「はっきりしていただけませんか?」
「どんな事象も、その確率はゼロではない、とだけ言っておこう……」
くえない親父だと、神楽は内心毒づいた。
泰人は、今の会話を聞いて、
「神楽先輩、やっぱりやめたほうが……」
と、中止を提案した。
神楽は、にこやかに返した。
「ここは私に任せて」
「でも、罠だったら……」
「その可能性は低いわ」
神楽はそう言って、西条に顔をむけた。
西条は、神楽の発言に興味を持った。
「ほお……その思考過程を、教えてもらおうか……」
「西条さん、あなたは相当な資産家ね。忘れ屋を個人でやとったり、亡くなったパートナーのために、こんな博物館を建てたり、常人の資金力でできる芸当じゃない。だとすれば、私たちからかぐやさんを奪還することだって、もっと簡単にできたはず。そうでしょう?」
神楽は言葉を切った。
西条のようすをうかがう。
西条は、神楽の説明に聞き入っていた。
いくぶんか、血色がもどったようにすら見えた。
「ふむ……それで……?」
「ようするに、あなたはこんな面倒なことをしなくても、暴力に訴える機会があったのよ。だけど、それを選択しなかった。今さらここで、おかしな小細工をしかけて来るとは思えない」
「警察沙汰を嫌って、その小細工に出たとは、考えないのかね……?」
「それについては……」
神楽はニヤリと笑った。
「どんな事象も、その確率はゼロではない、とだけ言っておきましょう」
「ハハッ!」
西条は、軽快な笑い声を上げた。
かるく咳き込みながらも、笑うのをやめなかった。
「ゴホッ……面白い……ゴホッゴホッ……おい、準備はいいか……?」
西条は、ルナへ視線をうつした。
ルナは冷たいひとみで、老人を見つめ返した。
「いつでも」