保身
朝は元気だった夫が、扉の向こうではもう息をしていない。起こっていることを現実として受け入れられない女は、病院の霊安室の扉を開けることができなかった。時間は夜十二時を過ぎていた。側には、女に夫の事故死を連絡した警官が立っていた。
「開けましょうか?」警官が女の顔を覗き込んだ。女は小さく頷いた。警官が扉をゆっくりと引いた。ひんやりとした空気が女の身体を包んだ。女は息を軽く吐き、目に力を入れ、部屋へ入って行った。白いハンカチを顔に載せた二つの物体が並んでいた。
医者が無言でハンカチを取り、頭を下げた。
「そんな、あなた」女は夫の顔を見るなり、腰の力が抜け、しゃがみこんだ。
夫との長年に亘る思い出が湧き上がることもなく、ただ、今日の朝、普段通り出勤していった夫の姿だけが頭に浮かんだ。女は泣くことしかできなかった。
涙が出尽くした頃、夫の会社の副社長とその母である社長夫人が警官に連れられ入ってきた。
「おとうさん」
「あなた」二人は女の隣の遺体にすがって、嗚咽した。
女はゆっくりと立ち上がり、二人に頭を下げて、廊下へ出た。
「詳しい事故の状況は分かっているのですか?」女は警官を見据えた。
「お宅のご主人は、駅のホームから線路に落ちた、今、隣にいらした方を助けるために線路へ降りられたのですが、救出が間に合わず二人とも電車に轢かれてしまいました。隣の方はご主人の会社の社長さんでした」警官は声を潜めて、女に言った。
「だ、誰かがそれを見ていたのですか?」女はつい大きな声になった。
「駅員が見ていました」
「そうだったんですか」女はため息を吐いた。
「それが何か?」
「いえ。何もありません」女は急いで首を振り、窓際に近づき、真っ暗な外を見詰めた。
社長の遺族二人がうつむいたまま、部屋から出て来た。
「ご主人には本当に申し訳ないことをしました。謝ってすむ問題ではありませんが、父が酔っていたばかりにホームに落ち、助けてやろうと飛び降りてくださった、ご主人まで巻き添えにしてしまい本当にすみません。今後のあなたがた、家族の生活は我社が責任を持って、守ります」副社長である息子が目を血走らせて、深く頭を下げた。
女は何も言わず、ただ頭を下げた。
昼過ぎ、女は警察署へ呼ばれ、警官が当たり障りのない取り調べを行い「駅員の証言もありますし、相手方も申し訳ないと言われています。ご主人は本当にりっぱなことをされました」慰めるように女に告げた。
翌朝の新聞に「殺伐とした現代社会にもあった、美しい自己犠牲の精神。捨て身の救出ならず」という大きな見出しの下に「社長を助けようとした社員、実はリストラを宣告されていたにも係わらず貫いた、愛社精神」という記事があった。
「会社の玄関にある、創業者の夫の銅像の横にあの方の銅像を建てます。あの方は我社の誇りです」社長夫人の話も書かれていた。
女は新聞に涙を落としながら、夫からの「帰るコール」を思い出していた。
「今から帰るよ」
「今どこ?」
「駅のホーム。あ、憎き社長がいた。酔っているみたいだ、フラフラしている。あ、線路に落ちた。ざまーみろ、自業自得だ。もう子供は寝た?」
「落ちたですって。あなた、リストラされたことで社長を恨んでいたことをみんな知っているんじゃないの」
「ああ、今日も一杯ひっかけながら文句を言ってやったさ。二十年間、一生懸命がんばったのに、もう殺してやりたいぐらいだ。しかし、まだ納得なんかできないぞ。ヒクッ」
「周りに誰かいないの?」
「ああ、誰もいない。俺一人。ヒクッ、それが何か?」
「それはまずいわよ。あなたが社長を突き落としたと思われるわ。あなた、殺人犯になるわよ」女は大声で叫んだ。
「俺が殺人犯。それは困る。すぐ助けるよ」
保身に走った行為が自己犠牲だと称賛されることもあります。自己犠牲のつもりが自分だけ良ければいいのかと言われることもあります。となれば、いろいろ考えず、自分がいいように行動をすることがグッドチョイスなのでしょう。




